2012年01月28日12時00分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(28)正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』短歌を読む(5)「かたことの言葉言いそむ初孫よ悲しき世紀の死の灰降らすな」 山崎芳彦

 長崎で原爆被爆した作家で、小説『祭りの場』(1975年、芥川賞受賞)はじめ被爆体験とその後の生を題材にした多くの作品を書いてきた林京子さんが、岩波ブックレットの813『被爆を生きて 作品と生涯を語る』(2011年7月刊、聞き手・島村輝氏)で、自らの被爆から福島原発事故にかかわって「核」について多くを語っている。聞き手の島村さん(フェリス女学院大学教授 「逗子・葉山9条の会」事務局長)との対談だが、読み応えがある。 
 
 島村さんが、広島・長崎への原爆投下以後の核の問題に述べて、「・・・世界中には山のように核兵器が存在する。また近年では、温暖化防止や安価なエネルギーという口実の下に、原子力発電所がどんどん作られてきたわけです。そして、今度の東日本大震災では福島原発に非常に深刻な大事故が起きました。それでも、すぐに原発を止めようという声が決して大きなものにならない。まさに今のような時代にこそ、文学的想像力がもっと力を発揮しなければ大変なことになるのではないか。いまの時点と地続きの問題として原爆文学をとらえる必要があるのではないか―私はそんなふうに考えているんです。」と問いかけるのに対して林さんは 
「爐い泙了点と地続きの問題として原爆をとらえる必要があるのではないか瓩氾臑爾気鵑呂っしゃいましたが、いまのご発言うれしいですね。とても。島村さんのご意見通りの反応を見せてくれたのが、ドイツです。ドイツでは現在福島の原発事故への関心がとても高まっているそうで、爐海了期速やかに『長い時間をかけた人間の経験』(林さんの作品で2000年9月に講談社刊、同年12月に第53回野間文芸賞を受賞‐筆者注)を出版したい瓠ΑΑΔ肇疋ぅ銚貊佝任凌醜みがありました。事故以来、さまざまに報じられるニュースを聞きながら、日本は被爆国ではなかったのか、とあまりの学習のなさに絶望していましたので、この申込みに私は救われました。世界には判ってくれる人がいる。物事の基本で考えられる人がいる。本当に救われました。書いていてよかったです。」と応じている。 
 
 問いかけの的確さと、応じる内容に感動したし、「原発は原爆だ」の思いから原爆短歌を読み続けてきた筆者としては励まされた。 
 
 また、林さんは、世界で初めて核兵器の実験が行なわれたアメリカ・ニューメキシコのトリニティ・サイト(当時アメリカが保持していた2発のプルトニウム原爆のうちの1つの実験が1945年7月16日にこの地で行なわれ、それと同じプルトニウム原爆が8月9日に長崎に投下された)を1999年に訪れた時のことに触れて次のように語る。 
 
「・・・この世紀初の原爆実験に使われたのが、長崎と同型のプルトニウム爆弾である、とあった。そういうこともあって、実際の投下実験が行なわれたトリニティに行きたくなったのです。それと同時に、もういい加減に8月9日から逃げ出したいという気持ちがあったので、とにかく被爆の原点である『故郷』を一まわりして終わりにしようと思って行ったのです。・・・歩いていくうちに、私、全身がガタガタ震えてきて・・・。子供の時に泣きじゃくることがありますよね。一生懸命こらえていますから、声は出ませんけど、あの泣きじゃくる状況です。みっともないからと思ってこらえてこらえて。なぜこういう感情になったか、自分でも分からないのです。 
果てしなく広がる広野に立木一本ない。まったく音がない、風がない、草の実がはぜる音もしない。大地が死んでいるという実感でした。・・・そうか、ここは半世紀の間ガラガラヘビさえも生きられないほどの、死の大地になってしまったんだと思ったんですね。ガラガラヘビさえ愛しく思えました。」 
「その時、犹笋亘槓の被爆者になってしまった瓩隼廚辰燭里任后9日から抜け出すつもりで行ったんですけどね。どうあがいたって核は人類と共存出来ないと言うことが一人の被爆者としてはっきりわかった。ここまで大地を駄目にしてしまった人間は―私は神様という言葉しか知らないので神様と言いますが―その神様に対しての大いなる反逆ですね。人間はそこまで不遜なことをやってしまっている・・・。私は書きたいんです。人間とは何か、生きるとは何か、命とは何か、相対する神とは何か。でも、神さまは身の丈にあって在るので、私にはやはり無理ですね。」 
 
 林さんは1930年生れ、15歳で被爆してから今日までを生き抜いてきて、福島原発の深刻な事故によって突きつけられた核の脅威とそれを生み出した時代、人間の本質について語っている。その言葉の深く重いこと、被爆体験と生きる意味を問い続けてきた文学者の真面目と思う。 
 
 ここで、一旦、正田さんの短歌作品に戻りたいが、その後、また林さんの言葉を聞くことにする。次回になるかもしれない。 
 
 
 泰山木 
去年の秋傷つきし頸の傷なお癒えず泰山木の咲く日々となる 
 
被爆後を服(の)みしどの薬も効(き)かざりき十八年は長く短かし 
 
わが胸の乳房の間(あわい)赤き色十三年前の増血機能検査の跡 
 
湯も水も息をしてさえしむ歯ぐき痛し痛しと告ぐるひともなく 
 
歯の根もとはげしく痛めば死の近きあがきの如しアロエすりこむ 
 
足痛み立ちい振舞うたびごとによっこらしょっと言わねばならぬ 
 
腰背骨氷置くがに冷たくてアンカコタツに入りては見るも 
 
こうしてはおられずと思う怠惰はね立ちて気おおてみるも意のまま 
ならず 
 
痩せ細る足頸流す仕舞(しまい)風呂壊れしセメント背に痛しも 
 
話すれば病の悪くなるゆえにおとなしくせよと主治医はのらす 
 
来客に十分だけよと言いきるはすげなきわざと知りて言いきる 
 
硫黄なる臭いが胸にほのめきて嘔吐もよおす死ぬのだろうか 
 
ひそやかに仕舞の風呂に流しいつ息引きしあと誰が拭う身か 
 
手擦れたる辞典と老いの眼鏡追い歩むわが部屋に病床(やみど)いすわる 
 
初物の青き蜜柑を街に見てみごもる嫁に買いて帰りぬ 
 
地球儀をお中元ですと嫁くれぬ遠くへ消えたきわが夢知れるや 
 
死の覚悟しっかりせよと弟がうるむまなこにホームで言いぬ 
 
心萎(な)え語れば涙あふれ出る泣くな泣くなと弟が叱る 
 
病むわれに永遠の別れかいや知らず外遊の弟羽田に見送らんと思う 
 
かたことの言葉言いそむ初孫よ悲しき世紀の死の灰降らすな 
 
美奈ちゃんと呼べば這いずり寄りて来て小さき両手差し出す孫よ 
 
楽しみはみかんあるときみかん呉れと二人の孫にみかんやるとき 
 
孫美奈が話があると室に来るもの心つく日まで生きたし 
 
 
 原爆後遺症に病みながら生きる日々は、やがて来るであろう終の日を意識しないではいられないときが多かった様子がうかがわれる。そんななかで、早くに実母をなくして寄り添い助け合った弟の誠一との別れを詠った作品がある。小学時代から秀才といわれた誠一は旧制広島高等学校時代に左翼活動の疑いで治安維持法違反により逮捕された経験もあるが、後に九州大学教授になり、広島県立病院で乳癌と診断された篠枝が九大病院で改めて乳癌の検査手術を受けたとき、病院への紹介者となり、やはり乳癌であり余命も半年との検査結果を涙ながらに篠枝に伝える役割を担った。その誠一が文部省の在外研究員としてイギリスに出発することになったときの歌であるが「死の覚悟しっかりせよ」と言い「泣くな泣くな」と叱る弟を詠っているが、羽田に見送りすることは叶わなかった。弟の帰国を待たずに篠枝は亡くなった。また、長男の槙一郎の妻と子(篠枝の孫)を詠った歌もある。苦しみ、喜びの生活の中に、原爆被爆後遺症の陰が色濃い一連でもある。 
 
 
 わが師わが友 
生き給え死に給うなと願いしに今日は悲しき知らせを受けぬ(杉浦翠子師) 
 
在りし日の師の葉書とじ重要の箱に納めぬ雪のつもる夜 
 
仏法を仰ぎて生きるわがこころ翠子先生に告げたかりけり 
 
これの世に翠子先生在られぬをひとり泣く子が広島に居る 
 
翠子師のいのちあるとき勉強をなぜなさざりき悔いのこのごろ 
 
吉田多輝子に逢い別れ涙にじみぬやさし美しきばかりにあらず 
 
シャコサボテン八十蕾がついたとて圭子嬉しげ愛子(まなご)のごとく 
 
匂いなき造花に圭子ジャスミンを放ちくれしか夜の部屋に香る 
 
くるみ種子はぐくみ育ち葉はみどり幹の根元に苔の置きあり 
 
木に彫りて形見にせんと刀持てどかすむまなこに遂にあきらむ 
 
「耳鳴り」を買い求め来てサイン乞うひとに拙き文字書く今宵 
 
メノン、クマールさん一万二千粁行進し来訪すまなこで心通じわれ合掌す 
 
わざわざに暑さのなかをお見舞に来られて告げず帰られし人 
 
豆炭をおこすも上手になりたるやリエという名を愛(いと)しむわれは 
 
泣きいるやうるみ血ばしり動かぬ目われ見つめられたじろぎたりき 
 
真実はいずこにあるやまたたきもせざる思いでまなこみつむる 
 
またしては死の言葉でる老いの逢い鳴くは何かと耳澄ます夏夜 
 
みつめあい車窓へだてる逢い終る握らざる掌を見えぬまで振る 
 
このわれをこてんこてんにやっつけて叱ってくれるひとが欲しいの 
 
ひと知らぬひなびた里のほとけさま共にさぐりたし暮れなずむ秋 
 
いまだ見ぬひとより生きよ死ぬなよと言葉を聞けば逢いたかりけり 
 
中村孝也先生の賜いし家康日課念仏の写真は常にわれのかたえに 
 
ふるさとにいざ帰らんとのらします孝也先生に涙ぐむわれ 
 
これの世は縦横無尽に道がありその道開くと師はのたまえり 
 
病むわれは病むひとのこと思わるるわが窓の月この世にひとつ 
 
紅椿咲きたりにけん旭浦山坊や加わる家族(うから)偲ぶも 
 
荒川の堤の草に菅子来てひとり寝そべり泣きたりしとう 
 
朝起きに直ぐ足袋(たび)はけとのたまいて体いとえと足袋くれしひと 
 
送られしエポメアの種土に埋めぬ花咲くころに君よ来ませよ 
 
広島は何とて見するものは無しわれの哀(かな)しき生活みせなん 
 
 
 葛飾の宿 
安らかに眠るあかときせわしげにわれ呼ぶ声に今日も目覚めぬ 
 
葛飾に起き伏し思う下まぶた垂るるわが身よ若くはないぞ 
 
なにゆえに帰りたくない広島か今日は七通手紙届けど 
 
筆ダコかペンダコなるかわからねど旅にしあれば皮のやわらぐ 
 
 
 花の店 
阿佐ヶ谷の通院馴れて花店と本屋をのぞく楽しみ覚ゆ 
 
乗り換えを四たびの通院慣れ始めて本屋をのぞくことも覚えぬ 
 
癒えてゆく心地してますと告ぐれども癌の転移かうずけば沈む 
 
健康な体にならんと笹の汁昨日も今日もまじめに飲みぬ 
 
 
 正田さんの師であり、歌集『さんげ』の出版を励まし、序文を寄せて作品を高く評価した杉浦翠子の死は1960年2月のことであり、その百か日法要に、篠枝は上京した。その際、平凡社から刊行することになっていた『原爆歌人の手記・耳鳴り』の出版の打ち合わせもした。月尾菅子との交友を深めたのもその時であり、その三年後には菅子の配慮により上京して蓮見ワクチンによる乳癌治療をし、また三十万名号書写に取り組むきっかけになった中村孝也氏を紹介したのも菅子であったことは前に触れた。それらのことを詠った作品や、1964年6月、戦争抵抗者インターのインド会員のメノン、クマール両青年の訪問を受けたことを詠った歌も採録されている。 
病中ながら、正田さんが懸命に生きた姿がうかがわれる作品群である。 
 
『百日紅』に採録の短歌作品も、残り少なくなってきたが、次回も読み続けたい。 
 
(つづく) 


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