2012年02月09日15時57分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(29)正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』短歌を読む(6)「かにかくにたったひとりでほろびゆくたましい抱きたましい思う」 山崎芳彦

 正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』に収録された短歌作品を読んできたが、残るところ約四十首になった。同書には、短歌以外に正田さんの詩作品十三篇があるが、そのうちのいくつかの作品も採録しておきたいと思う。 
 
 前回、作家の林京子さんが岩波ブックレット『被爆を生きて 作品と生涯を語る』で語ったことから一部を引用させていただいたが、昨年の3・11東日本大震災の中で起きた福島原発事故にかかわって、林さんが語っていることをもう少し記しておきたい。 
 「いまの人たちは、核を燃料棒としてしかとらえていませんね。日本にはまだ、八月六日、九日の被爆者がたくさん生きています。形は違いますが、核が人類にどんな影響を及ぼしたか、学習してきたはずなんですよね。少なくとも為政者たち、専門家たちは知っているはずですよね。これだけ学習しない国って、あるのかな、と素朴にあきれています。 
 核というものは、いかなる場合にも絶対に利益には繋がらないということを、頭の冴えた人たちがなぜ分らないのか。・・・ 
 そして、.今回『内部被曝』ということが初めて使われましたね。私はこの言葉を聞いた瞬間、涙がワーッとあふれ出ました。知っていたんですね彼らは。『内部被曝』の問題を。それを今度の原発事故で初めて口にした。 
 被爆者たちは、破れた肉体をつくろいながら今日まで生きてきました。同じ被爆者であるわたしの友人たちの中には、入退院を繰り返している人もいます。でも、原爆症の認定を受けるために書類を提出しても、原爆との因果関係は認められない、あるいは不明といわれて、却下の連続です。認められないまま死んでいった友だちがたくさんいます。 
 長崎の友だちの訃報を一番多く耳にしたのは、三〇から四〇代の子育ての最中でした。上海の友だちにはそんなに若い年で亡くなった人はいません。長崎の友だちはあの人も、この人も、と死んでいる。それも脳腫瘍や、甲状腺や肝臓、膵臓のガンなどで亡くなっている。それらのほとんどが原爆症の認定は却下でした。内部被曝は認められてこなかったんです。闇から闇へ葬られていった友人たち、可哀想でならなかった。」 
 
この林さんの、体験を踏まえての言葉は、いま、まことに重いし大切な証言であると思う。特に「内部被曝」に関する指摘は重要だ。 
福島原発の事故はもとより、これまで世界では核実験が数限り無いほど繰り返され、世界中で原発が稼働しスリーマイル・チェルノブイリはじめ、幾多の大小さまざまな事故が繰り返されてきて、さらに使用済み核燃料が蓄積され続けその行き場はない。そのような環境のもとで生きている人類の現実と未来を思えば、これほどの原発事故を起してもなお、原子力エネルギーを捨てることはできない、設備としての原発の寿命は40年だ、いや60年だなどといい、また原発の輸出を促進し世界に広げていくのだと政府や財界や、学者、ジャーナリズムが公言できるこの国が、あの広島、長崎、ビキニを経験し、これ以上は無いという苛酷な犠牲を国民が払わされてきた国なのか。戦争犠牲受忍論から「経済発展」のための原発・核放射能犠牲受忍論は、ついに何処に行き着くのだろうか。この流れを断ち切らねばならない。原爆短歌はそう訴え、詠われた。それを読んでいる。 
 
 正田さんの『百日紅』短歌を読もう。 
 
  原潜寄港 
核停論争対立に額垂(うなだ)れて原爆症乳癌検査手術跡を見つむ 
 
昭和三十九年十一月十一日佐世保に原潜寄港のニュースありわれの 
日本 
 
原爆に踏みにじられし日本の佐世保に原子力潜水艦入港す 
 
しっとりと浮かぶ佐世保のシードラゴン号われら被爆者ぶきみに思 
ゆ 
 
届かない反対の声痛ましやかくして悲惨に引きずり込まるる国 
 
政治家の為(な)すことなべて腹立たしことふれもなく原潜寄港 
 
心もとな日本列島はアメリカの基地になり果て死の灰降らん 
 
アメリカの潜水艦は黒船と違うよねえと教えたれども 
 
「ポラリス型潜水艦寄港反対原水爆禁止」英字の麦藁帽子吾子はかむりぬ 
 
 
昭和38年(1963年)の第9回原水禁世界大会はソ連の核実験・米英ソ三国による部分的核実験停止条約への対応をめぐっての共産党、社会党の対立が激化して原水禁運動の紛糾につながり、社会党・総評系がボイコットし、翌年からは日本原水協と日本原水禁に分裂したが、広島・長崎の多くの被爆者・被爆死者遺族は、政党間の対立と国際的な対立のはざまにあって、苦悩を深めた。さらに、アメリカの原子力潜水艦の日本寄港、実質的な核持ち込みが常態化し始めた。 
正田さんの作品は、彼女か原爆症乳癌によって昭和40年6月に死去したのだから、耐え難い苦悩の中にあってこの約2年を生きたのであった。その時期の作品である。読んでいて辛いものがある。筆者も、この時期を「政治的」に、一方の立場の中にあった。思えば、不明の中にあることを自覚し得ない若者であった。そこからどう生きてきたか、今や老齢の中で振り返って心痛むことがまことに多い。しかし、その来し方も含めて、いまを生きながら伝え遺さなければならないことの多さも思うのである。 
 
 
 死の近き日(一) 
見舞うひとなければ淋しあれば疲れて苦しむわれがひとりの室に 
 
花かすむ比治山見つつとし子なる孫を川辺の緑地に遊ばす 
 
名号を書くひまさきて子守なす川べに立ちて水の面見つむる 
 
ピカ以来耳鳴りひどくなるばかりかもめもすずめも鳴かず飛ぶのみ 
 
生きること苦しきものと苦しみに耐えて生きいるものら語らう 
 
生き別れせし子が崇徳高校へ入学すると病床のわれに告げに来たり 
ぬ 
 
耳鳴りのひどくなりしに気付きたり孫三人目泣き声細し 
 
このわれになさねばならぬことがある四月の新芽やわらかく輝く 
 
NHKのカメラマンに頼むなり微笑し綺麗(きれい)なわれを一枚ほしいと 
 
瓶にさすフリージャの花名号を書く筆先にふれて匂いぬ 
 
現代の医学データに癌症と出ずれどわれの心は病まず 
 
わが病める癌のうずきはガス溜るためと聞きたりおならありがた 
 
ガラス戸を透して夜の川を見ぬなにゆえかくも体痛むや 
 
身の痛み耐えん思いで姿勢変えなにもなし得ず今日も暮れゆく 
 
人さまの手を借りずには起きることむつかしくなり夫(つま)欲しかりき 
 
たいぎくて墨をするのがたいぎくて紙高野切の名号薄し 
 
苦しみし冬に桜の咲くを待ちし桜便りを聞けど歩めず 
 
 
 死の近き日(二) 
遺言を書いておけよと言い給うひとがありたり死にたくないのに 
 
対象を死をもってせよと言うひとよその親切をありがたく思う 
 
死ぬまでにかたづけせんと精出せどなべて紙屑はかなきほのお 
 
寝とりんさい寝とりんさいという女(ひと)よ寝てばかりいても死には近づく 
 
整理してただ整理してと思いつつ机上混乱日々に重なる 
 
ねばっこく甘き痰出ず腫(は)れし喉死の恐怖ふとありてすぎゆく 
 
己が骨くずれゆくさまは目に見えねど死の恐怖感こころを去らず 
 
夜半目ざめわが死相をばふと思う死にし夢見しあとなるさびしさに 
 
屍(しかばね)をみせぬてう鳥けだものよ教えてほしやそのすべいかに 
 
わがいのち長く生きしもうこれでよいと思いつつ涙こぼるる 
 
わがいのち一握の灰飛び散りて見えなくなりて消え失せてゆく 
 
ぐらぐらと壊(こわ)れるごとく頭痛(ずつう)しぬ狂いて死ぬるわれかもしれぬ 
 
このいのちあるがうれしや骨々の痛み激しくうめくうめきに 
 
かにかくにたったひとりでほろびゆくたましい抱きたましい思う 
 
大川のほとりに住みて夜々を美しと思う生きたかりけり 
 
 
 
「生きたかりけり」を結句とする一首が『百日紅』の短歌の最後に置かれた。 
享年五十四歳の正田篠枝さんの短歌を読み続けてきて、この一首に至った。歌集『さんげ』、『原爆歌人正田篠枝の手記 耳鳴り』、正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』の短歌作品を、順を追って読んできたが、正田さんの遺した作品は社会思想社・現代文庫刊『さんげ―原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』によれば、「二六〇〇首あまりの短歌から収録するものの選別を行ないました。」(まえがき)と記していることからも、さらに多くの作品にのぼり、そのほか詩、童話、手記などあわせると膨大なものとなるだろう。主として原爆被爆の昭和二十年から死去した昭和四十年までの作品とすると、ほぼ20年間に、原爆被爆後遺症の厳しい健康状態、生活苦の中にあって、その晩年の数年には三十万名号書写を完遂したことなども含め、正田篠枝さんは原爆被爆者として、その証言者、表現者としての生を、全うしたと思う。いうまでもなく、もっと生きてもっとそのもてる力を発揮して欲しかったと、無念に思うのだが、筆者は、彼女の、ある意味では既成の枠を超えて作歌し、表現した作品を読んできて、その実りの豊かさ、さまざまな内実を持つ人間としての、それだからこそ人間的な、原爆被爆者の人間としての生きるたたかい、人間を否定する核の本質を明らかにしその根絶を願いたたかう姿を、超人間ではない真人間の生きた歴史を読んできたと考えている。正田篠枝という人とともに、原爆直爆で即死した人々、原爆に身体的、精神的惨苦、死の恐怖と不安を強制された人びと、その中から生きる、反原爆の思想をもって生き抜いた、生き抜いている人びとを思い続けている。 
 
『百日紅』に収録された詩を記したい。 
 
 
 死にたくない 
この世は 綺麗だな 
なんでこんなに 綺麗なのだろう 
 
空には星がまたたき 
比治山のテレビ塔は夜空にくっきりと 
赤く浮かんでいる 
 
川岸の窓の灯をうつして川の水は 
静かに 静かに 
流れていく 
 
私は死にたくない 
どんなに寂しくても 美しいこの世なんだもん 
 
生きましょう 
二月のなかば 外は氷雨に曇っているけれど 
石油のストーブ燃えて暖かく 
ひねもす電気をコタツに通じ 
病む身を床にこもっています 
 
緑の小鉢のカニサボテンは 
霜にあって枯れたけれど 
青みをおびた苔の色 
春が生まれるけはいです 
 
癌で死ぬよと言われたけれど 
癌の転移でうずきがひどく 
広がる心地が止みそうで 
癌腫がかたくしぼみました 
 
苔の如くに青みをおびて 
太陽の光と水分を受けて 
わたしの生命も細々と 
息つくような心地です 
 
苔のようなわたくしは 
花も咲かない実もならぬ 
それでも生きよとの思(おぼ)し召し 
素直に受けて生きましょう 
 
 
 山林 
わたしには 小さな山林がある 
貧しいことを知っている人が 
売りなさい とすすめにくる 
 
わたしは 手ばなしたくない 
 
強い国では 原水爆をつくり 
実験をしている 怖ろしいなあ 
 
あの山林へ 穴を掘ってかくれよう 
駄目 駄目 まっ黒こげになるんだ 
 
この地球のうえには 
かくれるところが 
ないのだった 
 
だけど なんとなく 土に雑木が 
植わっていると 
かくれられそうな 
ここちがする 
ねんねこで おかあさんに 
背負われたように 
おとうさんに しっかりと 
抱かれたように 
 
安らかな心地がする 
雑木林が おいでと招いている 
 
 
 罪人 
原爆のむごたらしさを 
わたしは見たんです 
人間の社会にこんなことがまたと 
あってはならないと 
泣いてばっかりいた友達と 
組織をつくってみたんです 
努力足らずで力無く ついに 
駄目になったんです 
そのためにひとから受けたものは 
危険なものどもという汚名 
 
白い目で見られるのも 
いいものではないけれど 
それにもまして辛いのは 
もっとも熱心なこころが 
もうひとりの熱心なこころと妥協ができず 
離れていくことなんです 
組織の外では親しく身を寄せあうことが 
できるお互いなのに 
だんだん遠くなっていくのです 
心の底の思いは始めと同じなのに 
人間の良き意志がそうさせてしまうとは 
なんということでしょう 
きっと何かが間違って 
いるにちがいないのです 
 
わたしたちがこれまで為(し)てきたことを 
痛いおもいで考え直して 
みなければならないのです 
邪慳なわたしよ 
卑怯なわたしよ 
忘れっぽいわたしよ 
もう二十年たったあの日のことをしっかり 
思い出し為(な)さねばならないことがあるんだのに 
核実験がいくたびも繰り返されているんだのに 
今日も放射能をふくんだ雨が降っていますのに 
新聞をよんでもテレビ・ニュースを見ても 
わたしは罪人のように 
だんだん言葉すくなくなっていくのです 
 
 
これらの詩について、筆者は語ることばを持たず、いや、胸奥深く沁み込ませることにしたい。私たちはどのように生き為してきたのであろうか。いま、私たちは何処にいるのだろうか。 
 
「原爆短歌を読む」の連載も二十九回目を終えた。しかし、原爆短歌はさらに読まれることを待っている。正田篠枝さんの作品は、今回で一応の区切りをつけるが、次回からは、広島、長崎の人びとの短歌を読み続けながら、現在、未来にまで思いをつないでいきたい。(つづく) 


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