2012年03月20日14時09分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(34)福島原発の地で詠った佐藤祐禎歌集『青白き光』の原発短歌を読む(2)「原発を知らず反対せざりしを今にして悔ゆ三十年経て」  山崎芳彦 

 東日本大震災・福島原発の壊滅事故が起きた昨年の3月11日から1年が過ぎた。東北各県はもとより全国各地で、更に世界各国の多くの都市で、大震災・大津波による死者を悼み、被災者を激励する行事・行動が行なわれ、福島原発事故の教訓から「原発ノー」「脱原発」を求める行動が広範に展開された。 
 
 なかには、政府や政財界などの開催によるセレモニー的な催しも、原発維持推進を臆面もなくちらつかせるような、そして被災者を慰撫し、具体的効果的な災害復興対策の遅滞を押し隠すようなさまざまな、言葉を飾った催しも含まれはしたが、震災・津波被災者の生活再建を目指す取り組みに心を寄せ、地道に、地べたを這うようにして連帯する人々の力も盛り上がりを見せた。脱原発、原発廃止の運動も高まっている。 
 
 しかし、こと原発に関して言えば、いま極めて危険な局面にさしかかり、原発の再稼働、復活への動きが強まっている。内閣府原子力安全委員会の検討会が、経産省の原子力安全・保安院が妥当とした大飯原発3,4号機のストレステストの一次評価審査書を確認し、近く総合的な安全性を評価する二次評価の実施を求める文書を出す手続きに入っている。後は政府の判断と地元の合意取り付けが整えば、関係閣僚会議で再稼働の正式決定、つまり福島原発の事故以後初めての原発再稼働へということになる。 
 
 夏に向けて、電力不足の懸念があり日本経済の足を引っ張ることになりかねないとして、消費税増税をどうしても実施することを至上課題としている野田政権は、経済成長の阻害要因となる電力不足回避のためにも、原発再稼働に前のめりどころか、原発の安全宣言に走り出しているのが現状だ。まさにこの一年の経過が明らかにした原発の存在そのものの危険性、原発エネルギーに依存する社会のあり方―原子力文明の破綻など一切無視して、国民のほとんどが信頼しない「原発村」の人間とシステムによる、信頼の置けないコンピュータ、机上のこれも信頼できるはずのない「想定」条件による原発の「耐性テスト」によって、耐え難い苦悩の中で原発被害のなかで生きている国民に、抜き身を突きつけるような政治判断を、政治・経済支配者はしようとしているのである。 
 
 筆者は、「福島原発事故検証委員会」(委員長・北澤宏一前科学技術振興機構理事長)の発表した「調査・検証報告書」に目を通している。原発についての「そもそも論」を外に置き、「事故を起した福島原発」が存在したことの是非、この国がエネルギーを原発に依存することの可否の検討を飛び越して、「東京電力と政府が、原発の苛酷事故に際して、『国民を護る』責任をどのように、どこまで果たしてきたのか、そこを検証する。特に原発を国策として進めてきた政府の責任の在処を明確にする」ことに「民間事故調」の意義がある、との立場で、「事故・被害の経緯」「原発事故への対応」「歴史的・構造的要因の分析」「グローバル・コンテクスト」の4部にわたって、それなりに詳細に多岐にわたって「検証」しているのだが、最終章の最後に記された部分を読んで、唖然とせざるを得なかった。 
 「東京電力福島第一原子力発電事故と被害を検証し、教訓を引き出す作業は、これからも息長く続けていかなくてはならない。 
 
 3・11(3月11日)を『原子力防災の日』とすることを提案したい。 
 
 福島第一原発事故の教訓を思い出し、原子力の安全・セキュリティを確認し、事故への備えを点検し、真剣な訓練を実施する。政治指導者は、リーダーシップと危機管理の大切さを胸に刻む。この事故を忘れてはならない。」と言うのである。なんとも虚しい言葉で結んでいる。 
 
 福島原発事故は、その解決までにどれ程の時間と被害者の苦しみと、人々の犠牲を必要とするのか、その見通しも、技術的能力も必要には程遠いのが現状であると認識しなければならないだろうが、この『調査・検証報告書』をひととおり目を通した限りでは、原発の廃止については選択肢の一つにさえ挙げていない、「原発ありき」の観点からのものと思われる。たとえは悪いが、オーナーが支配する野球球団のチームの紅白試合の、一方の試合運びを見せられた結果になるのかもしれないが、しっかりと読んでみるつもりではいる。その感想は別に稿を設けたい。 
 
 前置きが長くなりすぎた。前回に続いて佐藤祐禎さんの歌集『青白き光』の原発にかかわる歌を読む。原発短歌は昭和63年から出てくるが、昭和58年から平成10年までの2300首の中から500百首余りの作品を選んだ歌集であるから、未収録作品の中にも原発を詠った作品はあると思う。 
 
 
風に響る送電線 
べうべうと鳴る五十万ボルトの送電線けし粒程の人伝ひゆく 
 
小火災など告げられず原発の事故にも怠惰になりゆく町か 
 
聳え立つ原発基地ゆ送電塔の連なりて伸ぶ遠き山の上 
 
線量計持たず管理区に入りしと言ふ友は病名なきままに逝く 
 
原発が安全ならば都会地になぜ作らぬとわれら言ひたき 
 
放射能地球温暖化いづれ取ると原発擁護の君は激し言ふ 
 
原発事故にとみに寡黙になりてゆく甥は関連企業に勤む 
 
 
  「冷害」より一首 
冷害に稔らぬ稲田のつづくはて原発基地の夜空明るし 
 
 
  「黒き花房」より一首 
原発に勤めて病名なきままに死にたる経緯密かにわれ知る 
 
 
  第二原発 三号炉細管破断 
農などは継がずともよし原発事故続くこの町去れと子に言ふ 
 
この子らはいつまで生き得む原発の空は不夜城のごとく輝く 
 
中性子もコバルトすらも知らざらむ原発を安全と言ふ作業員 
 
一基にて日に数億を稼ぐといふ原子炉の寿命知る人のなし 
 
送電線空を狭めて連なれる原発のめぐり蜻蛉(せいれい)飛ばず 
 
原発に漁業権売りし漁夫の家の甍は光りて塀高く建つ 
 
空走る原発六基の送電線逃れぬ思ひに慣れてわが住む 
 
「この海の魚ではない」との表示あり原発の町のスーパー店に 
 
原発を知らず反対せざりしを今にして悔ゆ三十年経て 
 
 
 「ダム湖の堆砂」より一首 
この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す 
 
 
 原発健全性の説明会 
事例挙げ国との癒着わが言へば原発所員は汗ふきはじむ 
 
質問の答へは核心に触れぬまま原発健全性の説明会閉づ 
 
金属片残存許容の範囲を言ひ完全除去の言葉遂になし 
 
原発持つ町の哀れを君知らず「電気どうする」とたはやすく言ふ 
 
地元では使へぬ九百万キロワット山超え遠く首都圏へ行く 
 
原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し 
 
原発のわが知る作業員二人病名をつけられぬままに死にたり 
 
住民投票の陳情を議会は否定して三号炉再開秒読みに入る 
 
三号炉六十余本の制御棒抜かれて不安の限り無く沸く 
 
民意なき原子炉再開に沸く怒りマグマとなりて地中に潜む 
 
毒溜めてゐるとは見えぬ原発の海穏やかに鵜の浮きてをり 
 
原発の排水と荒るる大波と打ち合ひ高くしぶき立つ見ゆ 
 
 
 歌会の講師 
反原発の歌詠むわれに原発は社内の歌会の講師頼み来 
 
町道の舗装は誰のお陰ぞと原発作業員酒に酔ひて言ふ 
 
業終へて人疎らなる原発の建屋に響くタービンの音 
 
利根川と同水量を吐き出だす原発排水白く泡立つ 
 
幾千人入れてしづけき原発の建屋連なる広き構内 
 
都市なみの庁舎諸施設道路網原発諸税と言ふ糖衣着て 
 
 
 「偶成」より二首 
観念論より事例を挙げよと社教委のわれへ向けらるる質問厳し 
 
軽装備と曖昧のままいつの日かミサイル持たむ平和維持軍 
 
 
 原子炉増設 ぢり貧の町 
原発依存の町に手力すでになし原子炉増設たはやすく決めむ 
 
原発に縋りて無為の二十年ぢり貧の町増設もとむ 
 
放射能は見えねば逃げても無駄だとぞと避難訓練に老言ひ放つ 
 
原爆が多くの人命救ひしとふ論理は大国ゆゑに通らむ 
 
使用済みの核燃料積まむ貨物船潜むごと月明に接岸しをり 
 
反原発のわが歌に心寄せくるは大方力なき地区の人々 
 
リポーターに面伏せ逃げ行く人多し反対を言へぬ原発の町 
 
原子炉の寿命知らされざるままに原発ひしめく町に慣れて住む 
 
 
 佐藤さんの歌が、先に読んだ東海さんの作品と同じように、いまになって読めば、3・11福島原発事故の予言書と読まれているのもむべなるかな、と言うべき作品が多い。現実をみつめ、その奥に潜む真実をとらえて短歌の定型表現にのせて真率に訴えているからである。原発の地にあって反原発を詠うことが容易ではないことをうかがわせる作品があり、いつか原発大変が起こりうる可能性を感得し、それが原発企業のコスト優先・人間無視の姿勢とそれを許す社会の歪んだ構造からくるものであること、その下で生きなければならない悲傷が詠われているのだ。 
 
 そして、その歌集が世に出て五年後には原爆事故が現実となり、佐藤さん自身が「3町歩の水田と3反歩の畑、数町歩の山林原野、500坪の敷地と80坪の家、大きな蔵、大型農機具などを捨てて、明日をも知れぬ身」とされ、「憤り、悲しみ、絶望感をどれほどの方が分かって下さるでしょうか。しかし、それでも生きなければなりません。幸いに短歌というものがありましたので辛うじて生きることができるのかも知れません。」と語る状況に追い込まれたのだ。 
(佐藤さんは「『青白き光』を読んで下さる皆様へ」という文章を記し、原発立地になった経過や、原発が稼働し始めてからの地域の実情、原発企業の姿勢などを明らかにし、原発を詠った心情を語っている。その末尾の部分を引用させていただいた。全文を紹介したいが、別の機会にと思う。) 
 
 いま、福島原発事故について、さまざまに真偽ない交ぜの情報が報じられ、しかし破壊された原子炉の実態さえ、まだまだ明らかにならない状況だし、なお各種事故が引き続いて頻発している。冷温停止、事故の収束などの発表が意味を持たないと人々は知っている。残された問題の予測を超えた困難さも明らかだ。 
 そして、原発問題は福島第一原発の事故にとどまらず、全国にある原発、ぼう大な数の原子力関連施設の実態にしっかりと目を向けなければならない。福島原発で起きたように、その直接的な原因はさまざまであるにしても、原発そのものが事故の必然性といってもいい本質を持っていること、その結果が途方もなく深刻なものになることを学習させられている。更に原発の稼働に至るウラン鉱石の発掘から運搬そして核燃料への加工作業、使用済み核燃料の処理・・・の道筋を思う時、その過程で避けられない放射能の拡散、自然環境の汚染、事故発生の危険性。 
 
 人類のみならずすべての地球環境、生物に否定的影響を負荷する原子力、放射線の利用は、医療関係などに極めて限定的に規制し、基本的に人間の営みのための素材として利用することは禁止されるべきものだといわなければならない。「原子力文明」社会を存続させてはならない。そのための取り組みこそ急がなければならず、核兵器の全面廃棄と共に、原発エネルギーへの依存からの完全脱却こそ当面の全人類的課題とすべきだと思う。 
 
 いま、佐藤さんの原発短歌を読みながら、そのようなことを断片的に思っている。空想的だろうか。 
 次回も佐藤さんの作品を読む            (つづく) 


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