2012年03月21日14時09分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201203211409233

文化

【演歌シリーズ】(25) 番外篇 あれから一年 福島市から“原発”発言(2) ―元祖「Mr.100ミリシーベルト」の死に想う―  佐藤禀一 

 12行のベタ、顔写真なし、小さな死亡記事であった。『朝日新聞』全国版に載った訃報であった。重松逸造(しげまついつぞう)享年92歳。いま、政府がよりどころにしている“放射線医学”の基(もと)をつくった人である。細野豪志原発相の発言がその内容をシンボリックに表している。 
 
◆元祖ミスター100ミリシーベルトの死 
 
 「(被曝量が)100ミリシーベルトを上回れば疫学的にがんの発生率が高まる。その以下なら他の要因に紛れ疫学的な数字として表れないくらいリスクは小さい。20ミリシーベルトのところで生活しても実際の被曝量は4〜5ミリシーベルトとされている」(2012年12月18日『朝日新聞』の単独インタビュー) 
 
 野田佳彦首相が12月16日、福島第一原発事故の“収束宣言”を行った。誰もが首を傾(かし)げた。そのフォロー発言の一部である。“重松グループ”が発してきた内容をなぞったにすぎない。 
重松逸造は、1986年、IAEA(国際原子力機関)のチェルノブイリ原発事故の被害調査団の団長となり、「放射能の害は成人には見られなかった。むしろ放射線ストレスの方が深刻だった。放射能ではなくアルコール中毒で死んだほうが多かった」と報告、全世界から顰蹙(ひんしゅく)を買ったことは、よく知られている。 
 
 WHO諮問委員会委員、国際疫学会理事でもあった。さらに、スモン病、イタイイタイ病、川崎病などの研究班長となり、「公害・薬害発生の原因物質をいずれも“シロ”と判定し、“疫学犯罪”と呼ぶべき行為を重ねてきた信じ難い人間」(広瀬隆・明石昇二郎著『原発の闇を暴く』集英社)でもある。そして、1981年放射線影響研究所(放影研・広島)の理事長に収まり、年間100ミリシーベルト以下は、無害と言い募(つの)り、原発推進を強力に後押ししてきた。 
 
◆ICRPへの疑問 
 
 ICRP(国際放射線防護委員会)勧告の年間放射線限度量は、1ミリシーベルト。文科省は、4月19日、それを20ミリシーベルトにして通達を出した。20ミリシーベルトという数は、ICRPが例外として、止むを得ず原発放射線業務従事者(原発労働者)や医療X線取扱者らに認めたものだ。4月29日に、小佐古敏荘(こさことしそう)東大教授が「この数値を乳児・小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と涙ながらに抗議し、内閣官房参与の職を辞したことは、記憶に新しい。“原発ムラ”に属すると見られている学者の涙を見て、これはやばいと感じ、子どもを避難させた家庭が増えたと伝えられている。 
 
 誰がどこでいつこの提案をしたのか。重松逸造の弟子で放影研臨床研究副部長の久住(くすみ)静代が、臨時原子力安全委員会の席で、4月4日に提案。「年間100ミリシーベルト以下は、健康に影響がない。ICRPも、緊急時被曝の際は、年間20〜100ミリシーベルトに定めているし、今回は継続する慢性被曝だから影響が少ない」というのが理由である。先に紹介した細野原発相(政府)発言、これまでの重松発言と重なる。 
 
 私たちは、宇宙や大地など自然界から放射線を受けつづけ(年間平均1.5世界平均2.4ミリシーベルト)、太古の昔から折合いを付けてきた。「放射能は、いのちと相容れない物質」という時の放射能は、自然界にプラスした人為的放射能のことである。自然界に存在しない、放射能は、最も問題になっているセシウム134、同137、ヨウ素131、ストロンチウム90、プルトニウム239など。 
 
 “重松グループ”は自然界のそれを超えるまたは存在しない放射能が、少なければ少ない程良いと言う一方、100ミリシーベルト以下は、“無害”リスクがあるとは思わないと言いつづけている。でも、彼らは、政府ともども限度線量を100ミリシーベルトにするのははばかられたのかICRPの“緊急時被曝線量”20〜100ミリシーベルトの一番厳しい数字を採用したと言っている。 
 
 ICRPは、1954年ビキニ環礁の水爆実験で日本の鮪漁船第五福竜丸が、死の灰を被った年に暫定線量を勧告、度々修正を加え今日に至っている。政府も“重松一派”もICRPの勧告にへへーっと平伏している。まるで黄門様の印籠のごとくだ。 ECRP(放射線リスク欧州委員会)がICRPを批判している。 
 
「原子力産業に極めて近い団体であり、功利主義的な損益計算に基づいて被曝を正当化し、環境への放射線放出を認めている」 
 
 ICRPは、こうした声に耳を塞(ふさ)ぎ、体内被曝に目を覆っている。また、「放射線を低線量で長期的に受ける方が、一挙に多量に受けるより人体への影響大だ」という指摘にも一顧だにしない。 
 
 米国が、初めて原爆実験を行ったのは、広島・長崎に投下された原爆の被害の惨状が生々しい1946(昭和21)年7月。1950年代は、米国が52年初水爆(エニウェトク)、54年第2回水爆(ビキニ環礁)、57年大陸間弾道弾(ICBM)、54年8月ソ連水爆、57年5月英国水爆(クリスマス島)、同年ソ連大陸間弾道弾と大気中の核実験時代で世界中に放射能がばらまかれた。1960年2月に仏国が第一回原爆実験をサハラ砂漠で行っている。ICRPはその真っ只中に、IAEA(国際原子力機関・大スポンサー米国)からの助成金により組織された。“緊急時被曝線量”は、<核戦争>を想定したのでは…そう指摘する科学者・ジャーナリストは決して少なくない。 
 
◆“重松グループ”が20ミリシーベルトにお墨付き 
 
 昨年12月15日、「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(内閣府有識者会議)が、発足からわずか1か月で、20ミリシーベルトの妥当性を認めた報告書をまとめた。「健康リスクは他の発がん要因と比べ低い」と付されている。グループの中心的な共同主査の一人が、長瀧重信長崎大名誉教授である。重松逸造の後を継いで、放影研理事長をつとめた。 
 
 福島医大副学長・福島県放射線リスクアドバイザーに収まっている山下俊一は、長瀧の弟子である。長崎大学大学院医歯薬学総合研究科教授の肩書を引っ提げ、昨年3月18日、新幹線を始め交通機関がストップしている時、福島県に現れた。本人の言によると、県知事・福島医大理事長からの要請とのこと。3月20日いわき市を皮きりに、県内各地を「年間100ミリシーベルト以下では発がんリスクは証明できない。だから、不安を持って将来を悲観するよりも、今、安心して、安全だと思って活動を」「マスクなんかしなくても空気いっぱい吸って、気持を明るく持ちましょう」と、山下と同じ肩書きを持つ高村昇と神谷研二(広島大学原爆放射線医科学研究所長)の二名が途中から加わり、講演して歩いた。おまけに山下は、「放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます。」とまで言って歩いた。 
 
 <Mr.100ミリシーベルト>は、彼に付けられたやや侮蔑的な呼称であり、その元を辿れば重松逸造に辿り着く。政府も“重松一派”の考えを採ったのは、福島を、いや日本を失いたくなかったからだ。日本学術会議会長金澤一郎の発言に明らかだ。「1ミリシーベルトという平常時の線量基準を維持するとすれば、おびただしい数の人が避難しなければならないこと」になる。福島市のこの3月11日の放射線量毎時0.76マイクロシーベルト、年換算すると6.6ミリシーベルト。福島市が避難でスッポリ消えると福島県が無くなる。それを防ぐため年間積算放射線量を20ミリシーベルトにした。郡山市も二本松市も……。福島市民は、捨てられた、そう想っているのは、私だけではない。(敬称略) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。