2012年08月30日00時10分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(64)原爆被爆下の広島で詠い闘った深川宗俊の歌集『広島―原爆の街に生きて―』を読む(2) 「被爆の痕(あと)暗く遺す父の骨ありといわれ焼場の熱気するどし」  山崎芳彦

 深川宗俊さんの短歌作品を読みながら、この連載の初めのころの回で触れたが、筆者は一度だけ、ほとんどすれ違うようにだがお会いしたことがあったことを、改めて思い起こしている。すでに40年以上も前のことだが、原爆の被爆二世のこと、広島の被爆者の実態や、文化運動について深川さんに取材したのだった。その頃、筆者は短歌に特別の関心を持たなかったので、短歌についてお聞きすることはなかった。 
 
 深川さんの短歌作品を、意識的に読み始めたのは、筆者が10年余前から作歌をはじめた後で、所属する会の歌誌で、深川さんの、 
 
「わたらねば帰れぬ一つの橋ありき夜に入り雪となりしひろしま」 
 
 という1首について書いたのがきっかけであった。 
 しかし、深川さんの個人歌集はすでに入手が困難になっていて、さまざまなアンソロジーから見つけ出して読むという時期が続いた。 
 
 そして昨年夏以来、この連載を始めてから、いま読んでいる『日本の原爆記録17』所載の作品に出会い、さらに国会図書館から歌集『連祷』(1990年8月6日発行、短歌新聞社刊)を借りて地元の図書館で数日かけて書き写して読むことができた。それらを、この連載の中で記録している。 
 
 深川さんの歌人、詩人、原爆被爆者としての核廃絶運動の推進者、反戦平和運動家としての、多岐にわたる足跡と業績の全容をとらえることは容易なことではない。歌人の相原由美さんが記した「師、深川宗俊の思い出」と題する文章がある。(石川逸子編『ヒロシマ・ナガサキを考える』復刻版掘臭⊇蠎 「雲雀」第8号・2008・8・広島花幻忌の会より転載) 
 
 この相原さんの文により、深川さんの足跡をたどりたい。要約となるが不備があればお詫びしなければならない。 
  「師、深川宗俊の思い出」(相原由美)より 
 
 「広島の原爆を詠い、戦争の被害加害を詠い続けた歌人、深川宗俊さんが、去る(2008年)4月24日、87歳で亡くなられた。 
 1980年以来、深川さんを短歌の師として仰ぎ、発行する短歌誌「青史」の編集を終刊まで手伝ってきたので、師は私にとって近しい存在であった。近いせいでかえって、深川さんの全体像をよくつかまないまま、その関わっておられたさまざまな運動にも、ただ懸命についてきた年月だった。 
 ここに三省堂2000年刊の『現代短歌大事典』という大部の一冊がある。この中の『深川宗俊』の項(を)・・・書き写してみる 
 
 深川宗俊(ふかがわむねとし)1921〜 
  広島県広島市生まれ。本名、前畠雅俊。横須賀砲術学校卒。1945(昭20)年7月、三菱重工業広島機械製作所に就職、朝鮮人徴用工の指導員として勤務中に被爆。49年10月、同工場勤務中、レッドパージされる。印刷業を経て、広島共立病院勤務で定年。高松日赤病院で胸部疾患療養中の43年ごろから作歌を始め、『真樹』『アララギ』に、後『新日本歌人協会』や『鍛冶』に入会し、『清流』(後、『尖塔』)や『青史』を創刊。占領軍による検閲の時期は、岡野富夫の筆名で作品を発表。被爆体験を基底に、優れた反戦、平和の作品を創造し、『新日本歌人』選者等を歴任。第四歌集『連祷』(90・8 短歌新聞社)により渡辺順三賞受賞。詩人、ジャーナリストとしても活躍し、歌集の他に『鎮魂の海峡』等の著書がある。 
 代表歌 <わたらねば帰れぬひとつの橋ありき夜に入り雪となりしひろしま>(『連祷』)〔山本司〕」 
 
 この記述に加えなければならないのは、広島の戦後の重要な運動のひとつである反戦詩歌運動を推し進め、原爆詩人峠三吉らとともに『われらの詩の会』を結成し、『われらの詩』を発刊したメンバーであったことである。 
 深川さんはこのような形で短歌文学の世界に在りながら、70年代以降を朝鮮人徴用工、在韓被爆者の問題に深くかかわっていくことになる。それを自身の生涯の課題とされた。 
 寝食をともにしながら指導した朝鮮人徴用工の241人が広島で被爆したあと、自身が広島駅まで見送って帰国させたにもかかわらず、故郷に帰りつかなかった事実、それを追跡しながら、韓国に遺族会を作り、徴用工同志会を立ち上げた。そして、ちょうどその年代の深川さんに、私はついて歩いたのだった 
 80年代は、そのことを日本政府や企業に質し、賠償責任を追及することに孤軍奮闘が続いた時代だった。 
 ある時は、広島の三菱重工業機械製作所の門の前で、入場を拒否されて、一緒に座り込んでいた。またある時は、厚生省(現・厚生労働省)に訴えに行くために、カンパを仲間から集めた。理不尽なことに立ち向かうとき、ふだんの柔和さからは想像もできないような鋭い語気で切り込む様子を、幾度となく目にしたのだった。 
 そんなことを繰り返しながら私は時々、深川さんをこれほどまでに突き動かしているものは何なのだろうと茫然とすることがあった。こんな方法では、まるで巨大風車に槍で立ち向かっているようなものではないか、と思うこともあった。 
 日本はやっと戦争の被害から立ち直って高度成長の後期を突き進んでいた時代で、戦時中の日本の加害の責任までを考える世論は少なかった。そのなかで活動を進めながら、自分の立つ場所を短歌に詠っていくことを選んだ深川さんだった。この頃に発表した作品に次のようなものがある。 
 
砂丘(すなおか)に出でしあまたの人骨の光りまぶしむごとき眼窩は 
青年の骨還すべく閉ざされし冬の季無援の海峡越ゆる 
 
 (略) 
 深川さんが歩いてきた道をたどってみると、戦後の混乱期に起きたいわゆる冤罪事件の数々に、広島から調査団の一員として参加していた軌跡が見つかる。 
 松川事件、八海事件、白鳥事件、そして仁保事件、それらをルポし、小冊子にまとめられたものが残っている。多くの事件を見つめてきた目が、戦後20年以上過ぎてからも帰って来ない家族を待つ、韓国の遺族の思いをしっかりと受け止めることになったのだろう。そしてそれは行動する中で、なお強固な思いとなっていったのだろう。 
 90年を迎えて、世論が急に韓国の被害者の問題に対して高まりを持った。深川さんは勢いづいて精力的に動いた。韓国のMBC放送が取材に広島に来た。深川さんを主人公にドキュメンタリーが制作された。 
 厚生省との折衝に上京する。韓国の遺族会との連絡に渡韓する。そんな中で秋になり、韓国人徴用工問題の講演に招かれて大阪に行き、新大阪駅近くで倒れた。脳梗塞だった。右半身の麻痺と失語症が残った。 
 それからの18年間は、失語症を克服するための言語リハビリを続けながら穏やかな日常だった。深川さんが先鞭をつけた在韓被爆者、徴用工への賠償責任の問題は若い人々に引き継がれ、裁判が起こされ、大きな成果を生むことになった。 
 (略) 
 穏やかなご臨終であり、やさしい死に顔だった。その10日あまり前の外出に付き添ったときは、身ぶり手ぶりながら、次にご一緒するときの約束をしたのに、もう永久にかなわないこととなってしまった。 
 深川さんは、ペンネームのもととなった故郷の広島市安佐北区深川のお寺に、自身の歌を彫り込んだ墓を用意しておられた。墓石の一首は 
 
ふるさとの寺の祭りにわれよりも若かりしははの声を聴きおり  宗俊 
 
 母を恋う歌である。 
 (深川さんの四十九日忌を前に)」 
 
 以上、相川さんの心のこもった深川さんをしのび、その足跡を記した貴重な文章である。一部を省略させていただいたのは、心ないことであるがお許しを願うしかない。 
 
 深川さんの『広島―原爆の街に生きて―』の作品を、前回に引き続いて読む。 
 
 
▼亡びゆく民 
赤き月暗く落ちゆく地は貧しちりぢりに光りて死の灰が降る 
 
戦争の惨めさは身に沁みて知る君にて「アンネの日記」に泣きし 
 
ビキニの灰かむりて危うしという日々よ祈りはつねに貧しきもののうえ 
 
九月二十三日十八時五十六分原子灰に曝されし久保山愛吉死にき 
 
日本の漁夫ついに死にきとつたうれば私孤りの座は捨つるべし 
 
漁夫の死に涙流せし夜のそこい亡びゆく民とも言いて怒りき 
 
列島はひそかに降りつぐ原子灰におののきつつ生きる日々を惨めに 
 
死の灰を降らしつづくる環礁の空の暗がり果てしなかりき 
 
  ▼環 
高杉の一樹をめぐり降る雨の冬の序章のごとき韻(ひび)きよ 
 
中学生幾百死にきと碑はつたえ川面に寒し一すじの雲 
 
茫々と翔(た)ちゆく絮(わた)の重みにて冬十年をなお死するこえ 
 
原爆の後遺症もつ少女の雪降る窓に原紙切りており 
 
爆心地に実をむすび鳴る枯草の群落はすでに冬日反さぬ 
 
冬のおと裸の木々が鳴らす径木の実は枯れたままでした 
 
閃光にただれし裸形の一群が幻に顕つよ環の列なして 
 
奴隷のごとくいくさに追われし日々なりき草の芽摘みていのち生きし 
 
きおい征き還らぬ幾百万のいのちかと港に立てば白い冬の日 
 
  ▼喪の川 
広島の空みだしゆく爆音よ静かなる川の流れは暗く 
 
バイブルのビラ持ちて立つ外人の声やさしきにうつむき歩む 
 
水面に靄低くかげる道にいでルイ・アラゴンのことまたくりかえす 
 
平和擁護大会に参加してはならぬと警察自動車のマイク夜の街に 
 
侵略する車の動きをあばきたるビラ撒かれひそかなる白日の街 
 
緋をかざし一つの意志に動きゆく拳銃に護られて行く群列に 
 
ひそかなる地熱よ燃えよ街上にビラ撒きて囚われ行く一人の少女 
 
  ▼黄に咲く花(抄) 
画面(スクリーン)の声平和の敵とののしれどたたかう兵のさみしき影 
 
幼な子を戦の路傍に泣かしめてその声はああ画面に響く 
 
武器執りてあい争えば惨めなり列なして逃がれ行く朝鮮人群衆 
 
原爆被災十一年を語りつつ苦しければなおと立ち上がる母 
 
幼らとともに遊ぶさえはばかるとケロイドの若き母がマイクに 
 
子ら群れて沙魚(はぜ)釣りておりかの日には死体渦巻きし川の分岐点 
 
熱線にいのちさらして人間の陰影(かげ)ふかき怒りこの石にあり 
 
閃光にいのちを断ちし人影のうすれゆく日々の暗きに生きる 
 
蒼白のペトンのただれいまもなお死を呼ばう声凝(こ)りて放てり 
 
十二たびめぐる季節よ広島の川越えて草の絮(わた)光りつつ 
 
爆心地の崩れし壁に火は映えて冬夜声なく浮浪者は棲む 
 
閃光に地にひれ伏せしもののこえ日々むすばれていのちにひびく 
 
額の母の見下ろす位置に骸(むくろ)あり白布とれば父の苦しまぬ顔 
 
原爆を受けしこと多く語らざりし父の骨黒々と焼けて眼の前 
 
被曝の痕(あと)暗く遺す父の骨ありといわれ焼場の熱気するどし 
 
ジグザグのデモ終えし君が胸につけし薔薇はずませてかけよりきたる 
 
いのち打たるる土民のこえを地に埋めてこの海の果てとどろく原子雲 
 
  ▼蒼白の壁(抄) 
す枯れゆく草にはくさのいろありて熱線を受けし壁の蒼白 
 
原爆に潰(つい)えし街に十二年さびさびとドームに昏るる日がある 
 
満ち潮の動かぬ川を沿いいくに原爆受難の碑は冬草のなか 
 
さくら隊原爆受難の碑の前にたずさわりきて愛ふかめゆく 
 
原爆被災者吉川夫妻の店見えて芽吹く柳に青める風 
 
墓石のみ整然としてあることに救われてゆく爆心地のほとり 
 
爆心地近き聖地にもついたみ土に影ふかく立つ植樹林 
 
ひとりの少女の死をこえいまなりし「原爆の子」ブロンズ像 
 
高くかざす両手ひらきしをすくいとしきみ去りがたく立つ像の前 
 
少女一人の死につながりしうずきありさすごとく訴うる核武装阻止 
 
この岸に火を逃れしと焼跡に家つくり薔薇植えてはたらくきみ 
 
形象(かたち)なしてケロイドのいたみせまるとき深さましつつ暗くなる川 
 
広島の空を見上げいし幾千の眼に追われてわれの生きざま 
 
火の跡の少女いちにん骨となりさみしき音をたてて崩れき 
 
被爆のいたみ踏絵の前に立つごとく死にゆく者の数をしるしゆく 
 
                        (つづく) 


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