2012年09月10日13時26分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(66) ヒロシマの真実を追求し詠い闘った深川宗俊の歌集『連祷』を読む  屮▲ぅ粥爾寮室森の海をわたり沈みゆきしや祖国を前に」   山崎芳彦

 今回から、深川宗俊さんの歌集『連祷』(1990年8月6日発行 短歌新聞社刊)の作品を読むことになるが、個人歌集一巻としては異例ともいえる812首という多くの作品を収めた335頁の大冊である。この歌集について、深川さんと交友の篤かった水野昌雄氏はその著『続・続・歴史の中の短歌』(2007年 生活ジャーナル社刊)で、次のように論じている。 
 
「先日、NHKテレビで朝鮮人原爆犠牲者の問題の特集があったとき、深川宗俊氏がいろいろな資料を示しながら説明していた。原爆落下当時、深川氏は広島の造船所で朝鮮人労働者を監督する立場にあり、多くの朝鮮人被爆犠牲者が行方不明のままになっていることに義憤を感じ、長いことその真実追求のために努力を続けてきた当事者なのである。自身も被爆体験者である氏は・・・朝鮮人原爆犠牲者の場合、天皇制国家権力によって強制的に広島で働かされていたのであり、さらにそうした異郷で被爆し、しかも行方不明という経過に直接かかわるところのあった氏にとっては、まさに当為としての問題なのであった。そうした深川氏が心の底にあるものを短歌としてまとめたのが歌集『連祷』なのである。この題名は犠牲者への深い祈りを示しているとともに、人間が人間らしく生きてゆく願いをこめたものといえよう。」 
 
「この歌集は・・・その質と重みとあわせて、読みごたえのある一冊であって、これはまさに時代と激しく渡りあい、返り血を浴びながら詩とは何かを問い続けた結晶なのである。古風な花鳥風月への歌溺を拒否し、ほとばしる人間的真実への希求を貫いたリリシズムなのである。」 
「歌人深川宗俊としては、この第三歌集はもっと早くまとめて然るべきであったのだ。三十年目の歌集とはいくら平和運動家として東奔西走のめまぐるしさとはいえ、待ちくたびれさせるものだ。そうした不満をあえていうのは、戦後まもなくの歌壇において新人のなかでも際だった逸材として注目されていた著者だからである。戦後短歌史にとっても三十年ぶりというのでは不幸なことなのだ。それだけに、この『連祷』の刊行はうれしく意義のあることと思う。先週、氏は大阪で講演中に倒れて絶対安静とのことを伝えきいたが、加餐を祈るや切。ここまで来てくたばるな。深川君。闘士だ。」 
 
 水野氏の解説を多く抽いたが、これから読む深川作品のために益すれば幸いである。 
 
 筆者は、深川さんの作品を読みながら、改めて、短歌を作るということについて、思いをめぐらすことが多く、同時に自分がどう日々を生き、そのことと詠うことを繋げて行くことが出来るか、作歌の拙さは承知の上で惑うのである。そして、やはり、多くの作品を読もう、自分で成しえない作品を、少しでも多く記録し、短歌と無縁の人にも伝え遺したいと、貧しくともできることの一つとして考えて、惑う自分をなだめる。不要な私事を書いてしまった。 
 
 さらに、作品を読む前に、歌集『連祷』の、深川さんの「あとがき」について記しておきたい。深川さんが歩んだ経過を知る上で貴重な文章だと思うからである。少し長くなるが、深川さんの事跡についてまとまった記録が、知るかぎりでは多くはないと、筆者は考えているので、ここに記しておくことにも意味があるだろう。 
 
 
≪歌集「連祷」の「あとがき」より≫ 
 
「歌集『群列』(1951・8・15)を私の第一歌集と位置づけたのは、広島の原爆被爆とふかくかかわりながら、米軍の占領下にあって一途に反戦文学をもってたたかった<私の青春>が、そこに見えてくることからで、わたしの短歌の出発点としても考えたかったからである。詩人峠三吉、御庄博実、増岡敏和らとともに行動を起こし、米軍総司令部のプレス・コードによる言論報道出版等の規制のなかでの「われらの詩の会」の積極的な広島詩歌の創造活動は、『占領目的処罰令被疑事件』という形で私に返されて来た。 
 
 1944年3月ごろから三菱重工広島の2工場には、応徴士という美名のもとに朝鮮人徴用工の強制連行がはじまった。当時22歳の朝鮮人青年たちと私との出会いも、機会詩の根源に触れるものであり、その後におけるわたしの機会詩への指向を一層強めることになった。 
 この ちいさな よろこびを/この ぐんれつの/まえへ うしろへ/この ちいさなあゆみ/この ちいさなゆうきを/この ぐんれつの/まえへ うしろへ 
という『群列』の序詩は、当時の私の思いを端的にあらわしているといえる。朝鮮戦争下、トルーマン米大統領の朝鮮で核使用もありうるという声明など、きびしい情勢のなかで私の青春の歌がうたわれるのだが、それはあるいは、<ヒロシマの青春>といえるのかも知れない。 
 
 第二歌集『広島―原爆の街に生きて―』(1957・7・25)は『群列』の原爆作品につづくもので、主として<ヒロシマ>を軸に構成した。 
 
 いま思えば、第三歌集『連祷』への架橋には多くの時間をついやした。1973年のヒロシマの夏から始めた、被爆韓国人徴用工の行方不明事件を追っての調査活動にも、余りにも多くの時間を必要とした。特にノンフィクションの『鎮魂の海峡―消えた被爆朝鮮人徴用工二四六名』(1974・8・30現代史出版会)の出版後は、私の内部でも徴用工の恨(ハン)はさわだちを一層激しくした。 
 
 <強制連行被爆朝鮮人><ヒロシマ>という私の主題は、加害と被害のはざまにあってというよりも、むしろ加害者であったことへの自覚が、文学の根本に触れる問題であると思う。 
 
 機会詩として把握した作品を主軸とした『連祷』八一二首の作品が、文学としての内容と表現を持ちえているか否かについての注釈は、すでに私の領域ではない。『連祷』の読者の批評と鑑賞に、いまは謙虚にゆだねよう。(以下略)」 
 
 
 筆者は、歌集『連祷』の読後に『鎮魂の海峡』を読んだ。そして、今改めて『連祷』を読むわけであるが、改めて深川宗俊さんの真髄、文学者魂と人間としての生き様に畏敬と、底知れない人間の可能性ということについての感慨をおぼえている。深川さんの歩いた道の周りに、あとに、ともに歩いた人々、あとを追って道をさらに切り拓いている人々の姿を見ている。ヒロシマ、日本だけでなく韓国、さらに日本の軍国主義の侵略と暴虐で傷つけた国々にも、深川さんの足跡はさまざまな形で残り、その道をさらにすすめている人々がいる。 
 それにしては、短歌の世界でも、詩の世界でも、筆者の勉強不足によるのかもしれないが、深川さんについてのまとまった資料は多くはないと思う。しかし、深川さんについて語ったさまざまな人々のことばに触れるたびに、人間がなしえたことのよきことがらは、新しい人間に伝えられていくのだろうと、希望を持つ。 
 
 『連祷』の作品を読んでいくが、今回の作品は、深川さんの韓国人被爆者との関わりの中で、深川さんの身をもっての実践が生み出した作品である。日本と韓国を行き来し、行方不明になった韓国人徴用工被爆者を追い求め、在韓被爆者と共同しての行動によって、文学作品、短歌作品が、深川さんならではの文学者精神、感性により結実した作品群だと、思う。 
 
 これらの作品の背景にある歴史、とりわけ日本軍国主義の朝鮮半島に対して行なった、まさに侵略し、支配し、人間を抑圧、破壊した歴史を、いま日本の政治家や、歴史学者と称するものたちが、聞くにおぞましい言辞をもって、歪曲、隠蔽し、国会の中でさえ動いているのは、許し難いし、それが、たとえば領土問題をてこにして日本の国民に一定の影響力を持とうとしている現状を見逃すわけにはいかない。歴史の捏造、あの侵略の歴史を正当化する教育や一部ジャーナリズムの、意図的な企みで、歴史と現実への無関心という人々の「こころの闇」にしのびこむことを狙って蠢動している勢力がある。 
 
 韓国、北朝鮮、中国をはじめアジア諸国に対する日本の侵略と抑圧の歴史についての歪曲と居直りは、日本に在住する人々に対する、たとえば石原都知事に代表されるような、薄汚いどころか犯罪的な言動、あるいは少なくない国会議員の国会審議の中での発言など目に余るものがある。かつての日本の軍国主義が犯した蛮行の事実を、日本の人々が忘れる傾向があるなかで、混迷している政治、社会に乗じて危険な「ナショナリズム」を助長しようとしている勢力の妄動を軽視することはできない。 
 この国の人々、われわれは二度とかつてと同じ誤りを繰り返してはならない。「維新」などというまやかしや、「正統的日本再生」を唱える反動勢力を甘く見ることはできない。私たちのすぐそばで、もっともらしい顔つきと振る舞いで、動いている。 
 
 そのようないま、深川さんの短歌作品、ノンフィクション・ルポルタージュ作品、そこに記録されている実体験による歴史的真実を読むことにも、意味があると信じている。 
 
 
  ▼恨(ハン) 
砂丘(すなおか)に出でしあまたの人骨のひかりまぶしむごとき眼窩は 
 
アイゴーの声漆黒の海をわたり沈みゆきしや祖国を前に 
 
とよみつつ炎めぐれる炉の軋みいま灼かるるはわれかも知れず 
 
海の神祀る岬の斜面にも朝鮮人水難者埋めし証言 
 
わが受くる火刑なるべし壱岐島に韓国人徴用工の骨を灼きいつ 
 
玄海の海ひだいくつ異なれる藍ふかぶかとわが眼に熱し 
 
海越えて杳くヒロシマの声聴けり一つの楽章のなかにわが生く 
 
黒黒と湾にうかびし朝鮮人遺体を埋めしという証言いくつ 
 
埋めしとう証言いくつ指ししめす砂丘にさぶし浜昼顔は 
 
朝鮮人連行の軌跡たどりゆき壱岐島に掘る青年の骨 
 
土すくうショベルカーの軋み壱岐島に韓国人徴用工の骨を掘りゆく 
 
骨すくうショベルの軋み壱岐島の空に群るるは鴉ならずや 
 
 
 ▼法燈 
夜の潮満ちゆくきざし壱岐島の渚に点す流燈いくつ 
 
玄海の潮流とみに早まりつつ朱花まぼろしのごとき流燈 
 
恨(ハン)の文字炎に顕ちて流れゆく流燈追いて長寿(チャンスウ)の声 
 
海を渡りオモニの許に還りゆく流燈の炎汀はなれて 
 
鎮魂の長き旅なり玄海の蒼みに哭けり盧長寿(ノチャンスウ)は 
 
一本の朽ちし墓標か壱岐島に眠れり韓国人徴用工は 
 
ヒロシマを刻印なしし碑は立てり加害の火照りわが面さらす 
 
はまごうの花うす青く咲く浜べ朝鮮人慟哭の季節をなしつ 
 
 
  ▼若獅子 
わがうちのさわだちやまぬ鎮魂の旅なり遠く響灘みゆ 
 
高波はキャビンの窓にしぶきつつ深夜朝鮮(チョソン)の海峡をこゆ 
 
ゲート線いくつ越え来し臨津江(イムジン)の結氷昏らし戦火というも 
 
結氷のひだ蒼白になだれくる臨津江の流れ被爆者の死も 
 
非常処置の下に厳しき管制下銃を擬する兵に検問されつ 
 
すでに外出禁止となれる窓にふぶく雪ちりばめてジープのライト 
 
朴正熙(パクチョンヒ)弔い全斗煥(チョンドハン)就任の荘厳なりき死のセレモニー 
 
馬山(マーサン)の海血にかがよえり汝の死の烽火となりて学生の檄 
 
四・一九若獅子となりし金朱烈(キムチュウヨル)少年死せり沸騰の海 
 
権力を軍に奪られし悲しみをわかちあうソウル雪の軍政下 
 
火田民と追われし百万の声うずく山荒涼と統治下の怨 
 
飢えの腑にしたたる水や火田民の怨嗟の声は谷へなだれて 
 
着陸点に近き漢江(ハンガン)窓に見え氾濫原のごとし河口は 
 
九層のビル一月の雪ふぶきソウルの街区たちまちに消ゆ 
 
朝光にうるむソウルの街並に沿うごとく連翹(ケナリ)の黄の筒状花 
 
日本人国本として殺されし李よ獄壁に<独立>の文字 
 
ヒロシマに奪われし息子を返せというその老母(オモニ)と別れし城東(ソンドン)区街 
 
 
 ▼生きると言う意味(抄) 
被爆者のきみと歩みゆく夜のソウル戒厳令解けし街の明るに 
 
仁川(インチョン)の貧しき街区の坂のぼり露地の溜まりに被爆者を訪う 
 
母の背のナガサキヒバク明順はことば失いしままに眠れる 
 
いつまでも少女のごとき面わにて明順はいまに光怖るる 
 
仁川の街に寒波は吹き荒びひとりの被爆者と会いて別れき 
 
(1973年、4年とつづけて行方不明の被爆朝鮮人徴用工の消息を調査しつつ、在韓被爆者との面会のため韓国の地を訪れた深川さんは、韓国の人々の朴政権の圧制と腐敗に対して抵抗し蜂起を見た。光州事件、投獄されていた詩人の金芝河を詠った作品など多数があるが、一部を除いて、残念だが省略した。) 
 
これから、数回にわたって『連祷』の作品を読んでいきたい。 
 
                (つづく) 


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