2013年03月21日22時34分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(95)岩井謙一歌集『原子(アトム)の死』の原発短歌を読む<1>  山崎芳彦

 岩井謙一氏の歌集『原子(アトム)の死』が刊行されたのは2012年9月であり、発売後遅くない時期に、筆者は購入した。同歌集については、早くから少なくない歌人が論評を行なっていた。筆者もこの連載の中で何度か岩井氏の脱原発に反対し、敵意さえ感じられる作品、言説について触れてきたが、率直に言ってあまりの無残ともいうべき作品や言説を、正面から取り上げたくないと考えてきた 
 
 しかし、3月13日の衆議院予算委員会での日本維新の会・西田譲議員の原発、放射能などについての質疑を聞きながら、岩井氏の作品や言説を思い出して、やはり、岩井氏の作品、言説を筆者なりに論じなければならないと考えた。西田議員は原発事故の放射能汚染について、低線量セシウムは無害であり、福島原発周辺の地域からの避難は不要であり、強制避難は全面解除せよと政府に迫った。何を根拠にしているのか、実態をまるで把握していないのか、原発事故・放射能問題についての被災者の反応は、過剰どころか無用なものだったと、浅薄きわまりない「医学」「科学」についての「論拠」を並べて論じていた。聞くに堪えない軽薄さが、他の議員の苦笑、失笑を買っていた。答弁する側も、困惑しているようだったが、曖昧な答弁を繰りかえした。これは、原発再稼働方針の政府にとっても、「贔屓の引き倒し」と鼻白んだ風情を見せていたが、除染不要論ともいえる西田質問に厳しく対応することも無い首相や環境大臣たちの姿勢には、政局がらみの維新頼みも絡んで無様な姿と言うべきものであった。 
 
 この西田議員の主張と、岩井謙一氏の原発詠や言説は、共通するところが多いと、筆者はあまりにも乱暴かつ粗雑な国会審議を聞いて思った。 
 
 岩井氏の歌集から、原発詠を抄出しておこう。歌集には、直接に原発、核放射能にかかわらない作品が数のうえでは多いが、この歌集を取り上げる意図は、岩井氏の原発事故、原子力エネルギー、放射能にかかわる短歌作品を論ずることなので、それに沿った抄出とならざるを得ない。岩井氏の立てた見出しごとにまとめる。 
 
 
  ◇放射能◇ 
原発は巨大消費が造りたり恩恵忘れ消されゆくもの 
 
広島と長崎選ばれ福島も人知を越えて選ばれたらん 
 
癌によりわが母は死になつかしき写真にあらぬ放射能なり 
 
シーベルト変動すれば母たちが一喜一憂蟻が笑うよ 
 
放射能7000ベクレル身体に保有している人間も核 
 
希望ある未来ありしころ「原子力時代」と書きし井上靖 
 
動かざる樹木被曝し恐れずに生きて立ちつつ芽吹き続ける 
 
放射能癌のリスクを微量上げ日本国中をびびらせている 
 
放射能怖いと逃げし母と子は地球水没すればどこへ 
 
放射能エゴイズムを喚起して怖い東北捨てられてゆく 
 
日本にはあったはずなる自己犠牲「私たちだけ助かればいい」 
 
遺伝的影響の無き真実を被爆二世が教えてくれぬ 
 
マタイ伝身を殺しても魂を殺し得ぬもの恐れるなとあり 
 
母子避難ありて夫は置き去りに理性にあらぬセンチメンタル 
 
わが子さえよければよきか狂いたる母性本能深く冷たし 
 
アブラハムナイフ振り上げわが子なるイサク殺さんとせし星の下 
 
人のためわが子イエスへ十字架の死を与えたる母なる神よ 
 
時代など選ぶすべなしわが娘もっとも怖きは人間と知れ 
 
限りなく素直であれよ美しく信じることで強さを持てよ 
 
脳内に踏み絵をを踏まぬ覚悟あり浮遊している海馬あたりに 
 
 
以上「放射能」を見出しとする一連を読んだが、冒頭の一首に岩井氏の原発観が明らかである。この歌を作ったであろう時期に、福島原発の事故による惨禍と人々の苦難、現実と将来不安が、福島のみならず全国的に広がっていたし、原発周辺地域は核放射能の危険から避難地区に指定され、生活の基盤が崩壊し、居住地を失い、生活の糧を失い、生命と健康に対する放射能の影響につよい不安を持っていたことを、いかに宮崎の地にあったとしても、福井氏が知らないはずはなかっただろう。 
 
 そのときに、原発が巨大消費のためのエネルギー源として作られ、社会に「恩恵」をもたらしてきたのに、事故を起こしたために消されてゆくことに、彼は危機的な感慨を覚えたのだろうか。そういえば、岡井隆氏に「原発はむしろ被害者」と「小さな声で弁護してみた」の一首があるが、岩井氏はさらに積極的に原発の「恩恵」と詠うのである。 
 
 「原発は巨大消費が造りたり」の認識には、日本がどのような理由と歴史的経過を辿り原発を導入し、どのようにして拡大を続けたのか、などということは、彼にとって思考の対象外なのだろう。ここに、岩井氏の原発詠のスタート台がある。 
 
 2首目にも驚く。広島・長崎への、戦時下とはいえ、国際法に違反する無差別大量殺戮を目的とした米国による原爆投下、同じ核を利用する原発を福島に作った国と電力企業及び関連企業について、「人知を越えて選ばれたるらん」、広島も長崎も福島も「人知を越えて」選ばれたはずはないのに、岩井氏は「人知を越えた」、おそらくは岩井氏が信ずる「神」の選択だとでも言うのだろうか。それにしても、それぞれの被害地の悲惨を無視した暴言ではないだろうか。 
 
 そのような、岩井氏の視点からは、福島原発の壊滅事故がひきおこした現実、人々の苦難が、視野、思考対象の外になるのもむべなるかなとは思うが、そこから短歌が産まれ出ることの異様さを拭いきれない。 
 もちろん、詠うことに他者が枠をかけることがあってはならない。しかし詠う以上は読者の解釈、感想、批評に対して真摯である事を求められるのは当然だろう。 
 
 抄出した作品一首ごとに感想、批評を述べることは難しいので、この一連のうたについてすこしまとめて述べたいが、氏の思考と表現の脈絡の混乱、理解しにくさには困惑させられる。 
 
「癌によりわが母は死になつかしき写真にあらぬ放射能なり」 
 
 氏には放射能というと癌が反射的に結びつくのだろうか。放射能が人間の健康に与える影響が癌に限定されるとは、氏が少しばかりは読んだであろう、いかなる文献にもなかったろうに、放射能=癌に囚われていることは他の歌にも出てくるが、さて、この一首で「癌で死んだ母のなつかしい写真に放射能はない」、これは何を表現したいのだろう。癌死=放射能など、常識とされていないのに、このような歌が生まれる岩井氏の思考回路は怪しむに足る。 
 
シーベルト変動すれば母たちが一喜一憂蟻が笑うよ 
 
放射能7000ベクレル身体に保有している人間も核 
 
放射能癌のリスクを微量上げ日本国中びびらせている 
 
放射能怖いと逃げし母と子は地球水没すればどこへ 
 
放射能エゴイズムを喚起して怖い東北捨てられてゆく 
 
日本にはあったはずなる自己犠牲「私たちだけ助かればいい」 
 
母子避難ありて夫は置去りに理性にあらぬセンチメンタル 
 
わが子さえよければよきか狂いたる母性本能深く冷たし 
 
 
 この連の中の作品だが、岩井氏の、歌人と言うより人間としての感性、人間観、言語感覚の本質の醜悪さを感じないではいられない。事実認識への真面目なアプローチの欠如、理解力の貧困が集中的に現われている。 
 岩井氏の核放射能に関する認識、低線量被曝、内部被曝などについて、どのように学び理解しているのだろうか。あとがきに当る「リスクのない世界」なる文章で、「福島第一原発の直近の立ち入り禁止地域は別として、他は低線量の被曝だけである。その何が怖いのだろう。放射能による癌の発症であろうか。」「私は医学の専門家ではないので文献の知識しか持たないが、低線量の放射線による癌の発症は確率的な問題だということは理解できた。東北地方における放射能の低線量被曝を受けても将来的に癌を発症する確率は限りなく低く、癌を発症したとしても放射能が原因であると言い切ることは不可能であるということである。」などと書いているが、文献名も明らかにしないし、今研究や健康診査が行なわれていること、チェルノブイリの放射能による被害の実態と現在の状況、日本の広島・長崎の原発投下によるさまざまな形での被災者の健康被害の研究、調査、臨床医の診断によるデータなどについての、岩井氏の勉強の努力の跡はまったく見えない。そして現実の福島原発事故によってひきおこされた実態もふまえず、ひたすら低線量放射能被曝の無視ともいえる認識によって、詠っているのだ。 
 
 その作品に使われている言葉は、放射能の危険性に脅かされ、対策法も情報も与えられないなかで日々の生活に取り組み、さまざまな工夫をし、行動を選択している人々、特に子を持つ母親達にむけた冷酷で乱暴な、不条理なものであることは、読むものに耐えがたい感情を湧き起こらせ、怒りをも持たせる。短歌の形を持った人身攻撃のことばの投げつけであると筆者は思った。岩井氏が、彼なりの放射能認識を持つのは、その正当不当は別として誰にも止められないが、岩井氏は「作品」として公にしたのだから、その作品に責任を負い続けるべきだろう。それにしても、たとえば大口玲子さんのお子さんを連れ、夫を宮城県に残しての避難行を批判的に論じるなら、大口さんが原発事故以前に歌集『ひたかみ』に詠った原子力・原発に関する優れた作品群を読んだ上でのことかと、問いたい。 
 
 シーベルトの変動に一喜一憂する母親たちを「蟻が笑うよ」と言う。蟻にとって迷惑ではないか。岩井謙一が笑っていると詠うべきだ。 
 
 人間が体内に取り込んでいる、たとえばカリウムなどの自然被曝をあげて、「人間も核」とは悪い言葉遊びだ。 
 癌のリスクが微量でも上がれば「びびらせ」られるひとがいて何かおかしいか。 
 
 放射能が怖いと逃げた母と子は地球水没すればどこへ、とは何のことだろうか。岩井氏が地球温暖化問題に強い危機感を持っている(自身は自動車マニアらしくスピードを上げたり、ヘアピンカーブで魂を飛ばしアクセルを踏み込むなど、二酸化炭素排出空気汚染は気にしないらしい。この歌集に「車」の一連が収載されている。)そうだが、そもそも「地球水没」とはどんな状態だろうか。言葉をいい加減に使っている作品が多い。 
 
 放射能によって生活基盤を破壊され、仕事を失い、農業が困難になり、米作も畜産も果樹もその他の職業もさまざまな被害を受け、避難せざるを得なくなった人々は「放射能エゴイズムを喚起して怖い東北捨てられてゆく」と詠われることをどのように読めばいいのだろうか。 
 「日本にはあったはずなる自己犠牲」と「私たちだけ助かればいい」を繋ぐ岩井氏の言葉はなんだろうか。 
 
 「わが子さえよければよきか狂いたる母性本能深く冷たし」と岩井氏は詠うが、「狂いたる」「深く冷たし」の句はそのまま岩井氏に返されるべきだろう。これが歌人の表現かと疑う。放射能禍をおそれ、苦悩し、必死になっている母親たちに向けた、ここまで悪意に満ちた作品を他に読んだ覚えがない。 
 
 岩井氏の原発短歌の特徴は、「原発をなくしてはならない。」とする考え方、人間生活にとって電力が必要である以上、原発を失うことは出来ない、電力=原発との認識が基本にあり、また放射能についての、現状ではよほど不勉強であるか、意図的にその人間の健康に対する影響を過小に評価する学者の学説に拠っての認識に基づいていると言うしかない、というのが筆者の感想である。 
 
 それに加えて言えば、この歌集に収載されている原発短歌の数々に、自分の思い込みのみを詠い、詠うべき対象についてはきわめて限定的で、原発を詠いながらその事故がもたらした状況、人々が背負った苦難、福島だけではない全国的にひろがっている諸問題、福島原発事故が投げかけた社会的な課題などについて目を向けようとせず、さらには東電や政府、原発関係者などの3・11以後のありようについては、作品でも、あとがきに当る「リスクのない世界」という文章でも触れようとしないのは、いささかどころか、とても奇妙に感じる。 
 
 次回にも岩井氏の作品について書きたい。 
    (つづく) 


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