2013年03月31日14時25分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(97)岩井謙一歌集『原子(アトム)の死』の原発短歌を読む<3> 山崎芳彦

 角川の「短歌」4月号に、岩井謙一氏が「歌集歌書を読む」を書いている。そのなかで、福島の歌人・横田敏子さんの歌集『この地に生きる』(ながらみ書房刊)を取り上げて紹介しているのだが、読んで驚いた。 
 
 歌集から4首を抽いて、岩井氏は次のような感想を交えて紹介している。 
 
 「本歌集のタイトルは、 
 
 福島に生れて暮らして六十余年ここがふる里この地に生きる 
 
の歌から取られている。まさに著者は福島に生れて生きてきた。そしてあの日が来た。歌集の後半は震災と原発事故の歌が中心である。福島は放射能の恐怖によって多くの方が避難した。しかし著者は留まり表現し続ける。このような非常時に人間のエゴがはっきりと現われることを深く考えさせられる。」と岩井氏は書き、次の3首も紹介している。 
 
ヒロシマもナガサキも立ち直りたればこのフクシマもと一縷の望み 
 
安全と言わるる瓦礫の受け入れの遅々と進まぬ現実はある 
 
溢れおりし「絆」の言葉薄れつつ原発事故は遠のきてゆく 
 
 筆者は、横田さんの作品を『平成23年版 福島県短歌選集』(福島県歌人会編)で読み、この連載の83回に9首を紹介したが、「この地に生きる」の1首も含んでいる。さらに、歌集『この地に生きる』も読ませていただいているのだが、岩井氏のようには読むことができない。 
 
 横田さんが福島・郡山市に、3・11以後もとどまって震災と原発事故について詠い続けている、そしてその作品が横田さんだからこその、具体的な現実の受け止めにより、原発事故や放射能についても確かに表現し、またその心情を真直ぐに詠い切っていることに、感動を覚える。 
 
 この歌集を読み、紹介するに当って、「このような非常時に人間のエゴがはっきりと現われる」と、偏執的ともいえる岩井氏の、原発事故による放射能汚染、拡散への対応として、苦悩に満ちたであろう自己判断によって避難した人々、特に子を持つ母親たちを誹謗し、貶める言辞を焦点に据えるのは、横田さんの作品を汚してはいないか、と筆者は憤りを禁じえない。横田さんの歌集の紹介、『この地に生きる』を借りて、岩井氏の「私感・主張」を述べる場とするのは、姑息に過ぎる。 
 
 横田さんは歌集『この地に生きる』の「あとがき」で次のように記している。 
 
「(三月十一日の)翌十二日からは、次々と原子炉が爆発し、日本各地に膨大な放射能が拡散した。ここ福島県民は、地震と津波に続く放射能の脅威に曝されて、被害を避けるために着のみ着のままでの避難を余儀なくされ、避難先での過酷な生活を強いられた。今現在も県外、県内を含め、約十六万人の人達が自分のふる里に戻ることが出来ない状況が続いている。 
 私は、津波に巻き込まれて救助を待っている人を、避難勧告が出たために助けに行けなくなって泣いていた消防団員の方のあの涙を忘れることが出来ない。原発事故は、全ての福島県民の心に取り返しのつかない甚大な被曝を与えたのである。 
 あの日以来、私は自分の中で何かが変った、と思うこの福島の現状を見つめ、この現状を詠んでいかなければならないと思った。 
 もしかするとこの思いは、広島や長崎の人達と同じ思いなのではないかと思う。そして哀しいことに、あの日から原発以外の歌が浮かんで来なくなってしまったのだった。『この世に生きる』は、こんな思いで詠んできた歌である。」 
 
「原発事故は、目先の幸せを求めて前のめりになって走ってきた我々に、立ち止まって生きることの意義を考える時間を与えてくれたのかも知れない。そんな気もする。私にはこの先、原発事故の収束を見届ける時間は残されていない。しかし、これからも折にふれて、この地に住む者として原発の歌を詠んでいこうと思っている。」 
 
 この横田さんの思いに心を寄せながらこの歌集の作品を読んで、どこからも岩井氏のような感想が生れようがないと、改めて筆者は岩井氏が歌人として他者の作品を読み、評するこのような姿勢を、許し難く思う。岩井氏が横田さんの作品を読んで、避難した人達を念頭に置いて「このような非常時に人間のエゴがはっきりと現われることを深く考えさせられる。」などという、「感想」を述べることは、横田さんの作品から遠くはなれて、自らの偏見を嘯いたということだろうが、このように人を傷つけてはいけない。 
 
 横田さんの歌集の作品については、この連載の中で改めて読ませていただきたいと考えている。 
 
 岩井氏の歌集の作品を前2回に続いて読む。 
 
 
◇滅ぶべき種◇ 
 
戦争の数限りなき死のリスク今の日本はまさに臆病 
 
ユダヤ人六百万を殺したるチクロンBの噴き出せる音 
 
被爆せし広島・長崎食べ物を選ぶすべなく生きてきたりき 
 
戦争で三百十万人の死者そんな時代を耐えたる日本 
 
戦争の世紀の産みし死者たちはフクシマさえも平和と感じん 
 
小国でウラン濃縮進みゆく中で歓喜の原発の死 
 
核戦争起こりてもなお食品のベクレルはかり食べぬは立派 
 
確率で計算されたる地震なりいつどこでなど誰も知らぬに 
 
千年に一度の地震予知できず止められもせぬそれが人間 
 
ハングルとともに弾道ミサイルは戴冠祝う花火となれり 
 
金(キム)というメタボの青年王となり純金のペンで黙示録書く 
 
原発が死に原爆が生き残る滅ぶべき種の人間ならん 
 
 
 以上の一連には、岩井氏の思考の回路、人間や社会、歴史との向かい合い方の特異さが示されていると、改めて思う。氏の「リスク論」−「歴史を見てみるとその時代時代にリスクというものは存在した。」として、「第二次世界大戦では、ナチズムという狂った思想によりユダヤ人が絶滅収容所で六百万人も命を絶たれた。その命へのリスクは史上最大・・・」、「日本でも太平洋戦争で多くの方が亡くなられたが、このリスクも膨大なもの・・・」で、「リスクの無い時代などないのである」のに「放射能の低線量被曝という確率的なリスクに極度に怯える現代の日本人はあまりにも感情に走りすぎ臆病である。」(「リスクの無い世界」)−の愚かといって済ませることの出来ない考え方は、どこから生れるのだろうか。「リスク」という魔物がさまざまな惨劇を惹き起こしているので、避けることが出来ない運命の中に人びとはいるのに、原発や放射能などに何を怯えるているのか、それ以外にもリスクはあちこちで魔力をふるっているのだよ・・・岩井氏の「神」の伝えなのだろうか。 
 
 もっとも、岩井氏と同じように原子力エネルギーを経済の成長戦略のため不可欠だとし、原発の維持・再稼働を進めようとしている現在の政治・経済界の支配層の本質も同様なのだ。 
 
 一首ごとに何かを言う気にもなれないで、岩井氏にとっての短歌とはなになのか、を考えあぐねている。 
 
 
  ◇未来の子(抄)◇ 
 
福島の新酒いただきありがたく味わいたれば良き酔い得たり 
 
原発の電気享受し産まれし子が核分裂を全停止する 
 
低線量の被曝の影響身をもって示し続ける福島の人 
 
福島が未来を変える報告書出し続けおり高貴なる贄 
 
宮崎は震災がれきを受け入れぬ痛みを分かつ絆であるに 
 
怖いのか震災がれきの放射能魂までは汚染されぬに 
 
一日でも長く生きるは大切か生の深さこそ問われるはずに 
 
遠きゆえわれは苦しむ分たれぬ放射能という痛みを受けず 
 
恋知らぬ特攻兵は放射能越える恐怖を浴び続けたり 
 
友のため己の命を捨てるとは最大の愛とイエスは言いき 
 
東北に留まり生きる人人は未来の子らの誇りとならん 
 
 
 以上の一連の歌の持つ「酷薄」と言うべき三十一音を、どのように読めばいいのだろうか。原発事故の被災をもっとも強く受けた福島の人々、福島の地で、あるいは避難した地で懸命に生きている人々に対して、「被曝の影響身をもって示し続ける」、「高貴なる贄」と、福島の新酒を味わい「良き酔い」を得た岩井氏は、言うのである。 
 
 「遠きゆえわれは苦しむ分たれぬ放射能という痛みを受けず」 
の歌もあるのだが、岩井氏の作品のどこに「放射能の痛み」が詠われているか。原発が排出し拡散した放射能による低線量被曝についての岩井氏の認識からすれば、この一連の歌の意は読み取りようがない。 
 
 また、「リスクの無い世界」の文章中で、岩井氏が次のように書いていることについて考えた。 
 
「最大の疑問は今これだけ放射能が恐れられているのに、核エネルギーによる殺傷兵器である原爆廃絶の声が全く上がらないことである。地球上には現在二万発を越える核弾頭が存在する。その一発が故意的にあるいは人為的ミスで爆発したなら世界的な規模の熱核戦争が起こるであろう。そのとき人類は絶滅する。なぜその絶滅リスクを考えないのだろう。唯一の被爆国であり、想定外は起こりえるのだということを日本という国は心底から学んだはずであるのに。」 
 
 「原爆廃絶」を言うことについては、全面的に賛意を表する。岩井氏の言うように、核兵器の廃絶はまさに現在の人類的課題であり、もっともっと声をあげなければならないし、その声はいまもさまざまにあげられている。さらに大きな運動がねばりづよく続けられなければならないと思う。岩井氏にも大いにその声をあげてほしい。しかし、岩井氏の原子力、核エネルギーについての認識は、核廃絶にふさわしいだろうか。氏の言説や短歌作品に、原爆と原発の本質についての把握や認識について明快な内容は示されていない。掘り下げた認識は無いようである。原発反対を言って原爆廃絶を言わないのは不思議だ、と言っているのであれば、それは違う。脱原発を主張している人々の多くが核廃絶、原爆の廃絶を訴えて来ていることを知らないとは思えない。なにやら、意図を持った原爆廃絶についての、脈絡の曲がりくねった言説であるのかと読んでしまいそうになる。 
 
 「放射能の被曝による遺伝的な影響が無いことは被爆二世の方々の貴重なデータから証明されている。」などと言う断言をしてはいけない。誰かがそのように主張しているからと言って、このような重要な事柄について、放射能の人間、生物に与える影響に関する現在までの研究、医学的な研究について、学術的、また臨床的なさまざまな見地について、岩井氏は「理性的」に、謙虚に学ぶべきであると考える。 
 
 岩井氏の原発についての作品や言説には、たとえば膨大な量に上っている使用済核燃料の管理と処理の問題、福島原発事故でなにが起き、続いているのかが未だに明確にされておらず、それでもなお各地の原発再稼動が推進されようとしていることについての認識、この地震列島が原発列島になっていることについての考え方、脱原発をめざしている人々の再生自然エネルギー技術の発展を目指し、その現実化への取り組み等について触れたものが無いようだ。岩井氏の原発信仰に添わないからだろうが、それは「理性的」な眼差しとはいえまい。 
 
 また、原発を導入し運用している電力企業や、政治に対する見解も見られず、電力=原発の短絡、低線量被曝無害論、「反原発を言うなら電気を使うな」といった俗論のみが際立つ。なかでも、原発事故による放射能被害を避けるために避難を決断した母親達への、言葉を極めた攻撃的な作品については、短歌として成立しない、「自己主張の三十一音化」とさえ言いたくなるものが少なくないと読むのは、筆者のみであろうか。 
 
 岩井謙一氏の『原子(アトム)の死』の原発にかかわる作品を読むのは今回で終る。筆者の言辞にいささか「感情的」で穏当を欠く部分があったかも知れないが、もちろん筆者としての責任は自覚している。 
 
 次回からも、原発短歌を読み続けたい。 
       (つづく) 


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