2013年09月02日12時53分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(120)大口玲子の短歌「さくらあんぱん」(月刊歌誌「短歌」2012年6月号所載)他を読む 「いくたびも『影響なし』と聞く春の命に関はる嘘はいけない」 山芳彦

 大口玲子さんの3・11以後の短歌作品を読んでいるが、その間、福島第一原発の放射能汚染水のきわめて深刻な流出、漏出の問題が、海への流出拡大もあって、原発事故による放射能の環境に対する汚染が引き続いていること、それに対する対策が極めて不透明かつ有効性を欠くことなどもあり国内にとどまらず、国際問題ともなっている。日刊ベリタ上でも、諸氏がこの問題についての解説記事を書かれている。筆者は改めてこの問題について立ち入らないが、福島の原発事故は今もなお続いている、そしてさまざまな事象が明らかになってきているし、これからも何が起こるか予測しがたい厳しい状況にあることを、確認しておかなければならないことを改めて思う。原発の壊滅的な事故がいかに深刻な事態を将来にわたって引き起すものであるかについては、チェルノブイリの経験からも、いまなお進行中である被害の実態を学ばされているのである。 
 
 福島で起きていることは、福島だけのことではない。全国各地に原発をはじめ関連原子力施設がある以上、いつ何処で原子力に関る事故や大小を問わない故障が起き、核放射能が外部に排出される事態があっても不思議ではない。すでに、原発が導入されて以降の「原発事故史」を調べれば、一歩間違えればというレベルの危機を孕んだ事故や機器の故障、人為的なミス、施設・機器の損傷・磨耗による危うい状況の連続であり、そしてそれを政府機関や電力企業が隠蔽しあるいは虚偽の報告を重ね、人の命に関わる放射能被曝の検査や、その記録や、かかわった作業員のフォロー、下請けの末端に至るまでの労働者の健康管理などをいい加減にしてきた、その暗黒の「原子力ムラ何番地」はまだまだ表に出てきていないのだろう。 
 
 いま大問題になっている放射能汚染水について、もどかしいほどのペースではあるが、情報があきらかになり、その実態が解明されればされるほど、この国の政府や電力大企業、原発関連大企業(不動産、土木、建設、機械製造、その他多岐にわたる事業者が関り、利益を貪ってきた)、そして関係する学界なども含め、福島原発事故以前はもとより、事故後に至ってもなお許し難い無責任な姿勢で、人びとを苦難のなかにおいているのが、明らかだろう。これから起こる可能性のあるさまざまな危険な事象について、これまで誠実に、長期にわたって原子力について研究し、調査し、知見を明らかにしてきている各分野の研究者や、関係者の英知を結集して、福島の現状への有効な対応とともに、原子力エネルギー依存からの根本的な脱却へのプログラムを作り上げる取り組みがこの国の当面する最大課題の一つであるはずだと思う。 
 
 しかし、この国の首相は原発プラントの海外への輸出をめざすトップセールスマンである。国内においては景気回復・経済成長に不可欠なエネルギーとして原発再稼動の推進者である。 
 彼は海外への売り込みに当たって「わが国の原発技術は世界の最先進のレベルを持ち、貢献できる」と高言して歩くのだが、福島原発事故とそれへの対応、各地の原発の抱える諸問題を考えれば、彼の原発売り込み工作は「詐欺商法」というべきものではないだろうか。いまも、国内大企業の幹部を引き連れて、セールス行脚を続行中であるが、このような政権を選んでしまった失敗のつけは、測りようもなく大きい。原子力問題だけについて、いまは言っているのだが、安倍政権の打ち出している政策、その政治姿勢の根底ある「思想」を考えると、この国の主権者がいまできることは何かを考えて、目の前が眩むほどである。 
 
 書いていることが混乱している。原発にかかわる短歌作品、原発事故による核放射能の危険にさらされ、先を見通すことが難しい現在を生きながら、詠う人の作品を読んでいる。今回は大口玲子さんの作品を読んで来ての一区切りになる稿である。しかし、もう少し、別のことを記させていただく。お許し願いたい。 
 
 高木仁三郎著『チェルノブイリ―最後の警告』(1986年、七つ森書館刊)という一冊がある。同書はチェルノブイリ原発事故をうけてまとめられた高木さんの貴重な著書であるが、その中に、「核文明と自然としての人間」(1986年8月執筆)の項がある。筆者にとって心打たれた内容だが、その一部を引用させていただきたい。ごく一部にとどまるが、深い洞察力に満ちた文章がつづられている。 
 「今日、人は自然との間に、ほとんど和解ができないような対峙関係をつくり出し、そのことがまたこの地上の人びとのすべてを、抜きさしならない危機へと追いこんでいる。ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故といったことに遭遇してみれば、私たちは等しくその危険の大きさを感じとり、問題の大きさにあらためて愕然とするのである。決定的な破局が到来するまでに、私たちに残された時間はいくばくもないのではないか、と。」 
(筆者 この25年後、高木さんはすでにいないが、私たちは福島第一原発の壊滅的な事故に遭遇し、その被災下にある。事故はなお進行中である。) 
 
 「・・・。しかし、しだいに私の心の中には、問題の本質は、原子力発電技術の危険性についてのあれこれの事柄よりも、各技術というようなことを通して自然と向き合わざるを得ないところの、我々の自然に対する向き方の姿勢にこそある、という考えが強くなった。」 
 そして高木さんはこの文章の中で、『いま自然をどう見るか』(1985年 白水社刊)を著わしたことを述べ、そのなかの「私たちの自然観は、科学的・理性的なものと、感性的・身体的なものとにするどく引き裂かれてしまって・・・私たちは自然とのトータルな結びつきを失っている。この状態から私たちの精神を解き放つ努力を抜きに、現代の危機の根源に立ち向かうことはできないであろう。」「・・・ある意味では、人間はこの引き裂かれた状況の間を狡猾にわたり歩き、二つの自然観を巧みに使い分けてきたともいえる。すなわち、一方で私たちは自然の征服者として、するどいメスで自然を切りきざみ,その同じ人間が一方であたかもその補償行為として、さながら自然の美を称えるような文化を発達させてきた。しかし、・・・私たちが直面する深刻な自然と社会の危機は、この二元的な私たちの精神の内部で引き裂かれた自然観を、より新しい観点で統一的に把握しなおすような根源的な作業なしには、克服されないのではないだろうか。」という文章を引用している。 
そして、「自然との和解」についての西ドイツのキリスト者の声明について触れ、刺激を受けたことなどについても述べている。 
 
さらに、自然と人間の関係の危機についての現状認識に関係して、核の問題についての考察をする。 
「核技術というのは、いわば天上の技術を地上において手にしたに等しい。・・・核反応という、天体にのみ存在し、地上の自然の中には実質上存在しなかった自然現象を、地上で利用することの意味は・・・深刻である。あらゆる生命にとって、放射線は、それに対してまったく防御の備えのない脅威であり、放射能は地上の生命の営みの原理を撹乱する異物である。」 
「私たちの地上の世界は、生物界も含めて基本的に化学物質によって構成される世界である。生物が生きるということは、物を食べ酸素を呼吸し、物質やエネルギーを合成し、また排泄によって環境に戻すという循環の流れの中に身を置くことで、生きるというのは基本的に『(自然と)共に生きる』ということ以外ではあり得ない。・・・そしてこの循環は、基本的に化学物質の結合と分裂といった科学過程(科学の言葉でいえば、原子を構成する電子の反応)の範囲で成り立っているのである。」 
「核以前の技術はこの原理を超えたことはなかった。・・・ところが、核というのは、・・・これまでの自然界にはまったく異質な物質と原理を、まったくそれに対して備えのなかった地上に導入したのである。 
そのことの恐ろしさの一端を、我々はチェルノブイリ事故によって目の当たりにすることになった。一瞬の爆発によって、世界中が放射能の恐怖に見舞われた。・・・地上のあらゆる生の営みが、ヒトという生物のちょっとしたボタンの押し間違いといったことによっても、一瞬にして灰と化しうることを、あらためて私たちに悟らせた。この破局の一瞬はいつ訪れるか知れない―チェルノブイリがそうであったように。」(筆者 本質的に同じことが福島にも起きた。) 
 
「核文明は、そのように破滅の一瞬を、いつも時限爆弾のように、その胎内に宿しながら、存在している。・・・。さらにまた、放射能は・・・食べものや空気や水を汚染し、命が脅かされていることを、私たちは痛感した。しかも、その脅威の相手を、誰も見ることも感じることも味わうこともできず、そのことによって一層、不安がつのることになった。・・・しかもそれによってもたらされる死すら私たちは容易にみることができない。チェルノブイリの被害は・・・これから何十年とかけて現われる。おそらくは何十万人というレベルに達するであろうガン死や生態系の広範な破壊であるが、そのような『緩慢な死』と『緩慢な破壊』は、・・・可視的になってからでは遅いのである。」 
 
「チェルノブイリ原発事故の悲惨は、厳重に閉じ込めておかなくてはならないはずの放射能が、環境に漏れてしまったことに由来している。しかし、かりにそのような事故が起こらなかったとしても、放射能は地上に残り続けるのである。この問題―放射性廃棄物問題は、ある意味で原発事故以上に、地上の物質とは異なる異物がもちこまれてしまったことの深刻さを、切実に私たちに突きつけるのだ。・・・残された放射性物質が、何万年何十万年、さらにそれ以上の時間にわたって、環境中に漏れ出さないなどと考えるのは、人間の社会や技術的能力についての無知か傲慢以上のものではないであろう。問題を日本の現実にひきよせていえば、日々発生している放射性廃棄物の一部、いわゆる低レベル廃棄物と呼ばれるものは、ドラム缶詰にされて、地中に捨てられようとしている。」(筆者 福島原発事故の25年前の文章である。) 
「・・・。(青森県六ヶ所村について 筆者)人びとが生活し、漁をし、農作物を育てる場所から遠くない土地に、放射能が埋め捨てられつつあるのである。・・・その土地は、地下水位が高く、地下水の汚染は目に見えている所だ。蓄積する放射能の矛盾は、将来の世代といわず、現代に生きる人たちに犠牲を強いようとしているのである。」 
 
 もっと多くのことを高木さんは書いているのだが、この時点で、状況の緊急性、より根源的な転換の必要性を強く述べている。 
 
 福島原発の壊滅的事故をいま現在経験しつつある中で、しかし政治・経済を支配する勢力は原発の維持、再稼働、海外への輸出などを進めようとしているとき、「関心の深まりはあったが、危機意識は少ない」(チェルノブイリ事故についての日本での反応についての高木さんの見解)では、すまされないだろう。そして、それでは何ができるか、しなければならないかということが問われるていることを、主体的に思い、一歩を動くことの具体を確かめたいと思うのである。 
 
 この稿の本題である大口玲子さんの短歌作品を読む前に、ひどく未整理なことを書いてしまった。お詫びして、大口さんの作品を記録する。 
 
 
  ◇「さくらあんぱん」(歌誌「短歌」<角川出版2012年6月号>)◇ 
 
悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。(申命記十六章第三節) 
 
▼宮崎より遠望すれば<東は未来>といふスローガンは今もまぶしき 
 
「東北振興」「不羈独立」といふ社是を月に二度われも噛み締めゐしを 
 
引越しの荷物とともにトラックで北上し妻となりし日思ふ 
 
東北をまだ見尽さず白河の関越えてより十年過ぎぬ 
 
  非常勤講師として短い間通った 
▼晩春の福島大学キャンパスに雨降り続く映像を見つ 
 
週一度新幹線で通勤し日本語教へゐし新婚のころ 
 
  非常勤講師控室 
▼「専門は和算」と微笑む老紳士とデスク共有せし記憶あり 
 
ホームでひとり上りの電車を待ちゐしは東北本線金谷川(かなやがは)駅 
 
  「生まれたいのちは生きられるだけ生きたい」(吉野せい「私は百姓女」) 
▼いくたびも「影響なし」と聞く春の命に関はる嘘はいけない 
 
仙台を離脱したるゆゑ仙台から目を背けることできなくなりぬ 
 
 仙台から宮崎へ移住した八十二歳の女性を訪問 
▼「戦争より酷い」と涙声になる人の悲しみに触れ得ざるなり 
 
宮崎のイントネーションを持たぬわが聖書朗読のつるつるを恥づ 
 
一年前もレンゲ畑を眺めゐき息子の掌(て)つよく握りしめつつ 
 
 震災後宮崎へ来た避難・移住者の会あてに、寄付やさまざまな支援の申し出をいただく。 
▼「福島のお母さんに」といただきし百キロのヒノヒカリ分配す 
 
「福島の人は居ませんか」(福島でなければニュースにならない)」と言はる 
 
  福島市内から母子で福岡へ移住したと言う。 
▼「福島を返せ」とさけぶほかなしとデモに三人子(みたりご)を伴ひ来(きた)る 
 
復活祭・花祭り重なる日曜日去年(こぞ)はせざりし花見に疲る 
 
まだわれに声あらば声あぐるべし春の虹立ちたちまちに消ゆ 
 
震災後八日で仙台を離れたるわれが震災の日を語りをり 
 
報道さるることなき数値に春の土汚れてゐると伝ふるメール 
 
 移住先に迷っていた一年前 
▼「長崎まで来てなぜ宮崎に来ないか」と言ひくれし伊藤一彦の声 
 
精神科の診察券と服薬が宮崎へ来てから不要となりぬ 
 
宮崎へ来て一年を記念する晩餐のパンに塩添へられて 
 
三歳の息子に大方とられたるバルサミコ酢のチキン南蛮 
 
仙台に留まらざりし判断に迷ひはないかと言はるればなし 
 
燻製のハムと一緒に届きたる絵本の冷えを子は喜べり 
 
ゆく春のべパン屋に売れ残るさくらあんぱんよもぎあんぱん 
 
 二〇一二年五月五日 
▼日本の全原発が停止する日は十五夜と確認したり 
 
 
 ◇「キャンドルナイト」(歌誌「短歌研究」2012年9月号より抄)◇ 
 
大口さんは、月刊歌誌「短歌研究」(短歌研究社発行)の2012年9月号に「キャンドル・ナイト」と題する作品30首を発表しているが、この一連も宮崎市に移住してからの作品である。そのなかから原発・原子力放射能にかかわって詠われていると読んだ作品九首を抄出しておきたい。 
 
▼夏木立ゆきつつ聞けり唐突に「ないぶひばく」を言ふひとの声 
 
甲状腺ホルモン異常の可能性淡々と言はれ頷きしのみ 
 
 宮崎でも外食産業は「産地不明・ブレンド米」が多い 
▼放射能気にしない方がカッコイイ現実をナナメに泳ぎゆく 
 
無用な被曝避けて暮らせと言ひくれしたつたひとりと振り返るなり 
 
 六月二十九日「内部被ばくを生き抜く」上映会夜の部 
▼会議室に百人集まりSkype(スカイプ)で官邸前デモの中継を聴く 
 
官邸前八万人をこえたると聞きたるのちに電気を消して 
 
「内部被ばくを生きる」ではなく「生き抜く」としたる心を思ひみるべし 
 
壊れたる1F映り「へーこれがゲンパツかー」と息子は言へり 
 
放射能がDNAを撃つときの効果音つづき吐きさうになる 
 
 
 大口さんは、2011年3・11以後の作品を数多く発表している。筆者は出来る限り読んでいくつもりだが、さらに機会を作ってこの連載のなかでも記録していきたいと考えている。歌集『トリサンナイタ』から今回まで4回にわたって大口さんの3・11以後の作品を読んできたが、ここまでにとどめ、さらに他日を期したい。 
 次回からも、原発・原子力にかかわる短歌作品を読んでいきたい。 
 
(つづく) 


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