2013年09月02日21時37分掲載  無料記事
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文化

「カメラマンとは何か」〜フィルムからビデオへ〜

■カメラマンの基本スタイル 
 
  カメラマンとは何なのか。愚問かもしれない。だが、テレビの映像はカメラで撮影される。だからカメラマンの技術や感性が問われる。しかし、近年、誰でも手軽に撮影できる民生用のビデオカメラが普及して、カメラマンとは何なのか、その存在が改めて問われているように思う。そのことを考えるために、テレビの始まった当初のフィルム時代の話を往年のカメラマンに聞きに行った。フィルム時代とビデオ時代でカメラマンの仕事も大きく変わったのではないか、と思われたからだ。 
 
  1973年、4月。南ベトナム。当時ベトナムを南北に分断していたのが北緯17度線。その手前に立っているのが日本電波ニュース社のカメラマン、石垣巳佐夫氏、当時、32才。微笑みにはまだ青年のあどけなさが残る。脇の標識はベトナム語で「非武装地帯」。あたりは地雷源だ。北ベトナムのハノイ支局からベトナム戦争を撮影してきた石垣氏だが、1973年3月末に米軍が撤退し、後に北ベトナム軍は南に進撃を始める。 
 
  「手にしているのが16ミリカメラで、首からぶら下げているのはスチルカメラと露出計です。スチルカメラは新聞用です。」 
 
  これが石垣氏のフィールドでの基本スタイルだ。 
 
■アリフレックス 
 
  手にしている16ミリカメラはドイツ製の「アリフレッス(16S)」。 当時、ドキュメンタリーや報道の現場で使われた代表的なカメラの1つだ。アリフレックスは基本的にはサイレントカメラ、つまり音声が録音できない。そこでナグラという録音機材を同時に使っていた。映像と音声を編集で合わせるために、カチンコを使う。あるいはナグラと、別のBL型アリフレックスをケーブルでつなぎ、カメラの信号をナグラに伝える方法もあった。これらアリフレックスとナグラの組み合わせはW方式と呼ばれていた。 
 
  しかし、このW方式だが、カメラマンが撮影を始めた時、録音スタッフがナグラのスイッチを入れているとは限らない。ドキュメンタリーではいつ撮影が始まるかは状況次第のことが多い。だからしばしば録音のスイッチが間に合わないのだ。もし録音機材の始動が撮影より遅れた場合は映像の頭の部分が音なしになってしまう。こんな時はカットの終わりに「ケツカッチン」と言って、カチンコを入れていた。こうすれば後ろから音と映像を合わせていけるのだ。 
 
■ベルハウエル70DR 
 
  もう一つの報道・ドキュメンタリー用の16ミリカメラの代表格はアメリカのベルハウエル社によるベルハウエル70DRだった。石垣氏が1960年に入社した時、社内に10数台このカメラがあった。特徴は回転ターレットに3本のレンズがついていて、被写体との距離に応じて簡単にレンズが交換できることだ。レンズは標準が25ミリ、ワイドが10ミリ、望遠が50ミリか75ミリだった。 
 
  このベルハウエル70DRもサイレントカメラで、音を録音する場合は5ミリテープの録音機材で別に音を拾っていたという。1巻で2分40秒撮影可能だった。ゼンマイ式で、1回の最大の巻で持続できるのは40秒弱。つまり、1カットの最長尺が約40秒だった。1回撮影してはまたゼンマイを巻き、という具合だった。だから、漫然と撮影することは許されなかった。 
 
■フィルム時代の修業 
 
  石垣氏によるとこの頃のカメラと現在のビデオカメラの決定的な違いの1つは使用していた昔のカメラがレフレックス方式ではなかったことだ。つまり、ファインダーをのぞいても、それは実際にカメラが撮影する視角ではなかった。あくまでファインダーによる近似的な視界に過ぎない。だからレンズの焦点距離を合わせてもそれはファインダーに反映されない。今我々が使うビデオカメラはファインダーと実際に写る映像が同じだから、ファインダーを見ながらピントを合わせればそれで確かめられる。しかし、当時の16ミリカメラではそれができなかった。自分の目でピントがあっていくのを確かめることができないのだ。だから、被写体までの正確な距離を測る必要があったのだ。当時、撮影助手はまず被写体まで何メートルあるのか、正確につかむ修業を毎日行っていたという。 
 
  「あの花瓶まで距離5メートル半」 
  「柱時計まで距離3メートル」 
  「厨房の板前さんまで距離4メートル50センチ・・・」 
 
  こんな具合に日々、身の回りの人や物などとの距離を推測し、実際に計ってみて距離感覚をより正確に持つように心がけていたという。ドラマと違って、ドキュメンタリーや報道の現場ではいちいち1カット1カット巻き尺で距離を測っている余裕はない。しかも、石垣氏の場合は戦場カメラマンだった。 
 
  「ロケを終えて現像したものをラッシュの時にみんなで見ていました。監督、助手、編集者などみんなが見ている中で、もしピンボケとかだったら、とんだ赤っ恥です。でも、その頃のカメラマンは駆け出しの頃は、みんな赤っ恥の連続だったものです。失敗した場合にもう一度撮影させてもらえればいいですが、二度と撮影できないものもありますからね。それは緊張したものです」 
 
  フィルムからビデオに変わって一番ほっとしたのが現地で撮影ミスがなかったかどうかすぐにチェックできることだという。その頃はビデオエンジニア、通称VEというスタッフがいてモニターで映像をチェックしていた。だから、海外ロケでも現地で撮り直しがきくようになった。 
 
■ディレクターとカメラマン 
 
  しかし、その反面、最近のテレビの世界ではカメラマンがディレクターと撮影された映像をともに編集室で見ることはほとんどない。だから、カメラマンは自分の撮影した映像がどんな風に編集されているのか, どんな長所/欠点があるのか知る経験が少なく、ディレクターとのコミュニケーションの断絶が起きている。こうしたことも撮影についての意識が希薄になっている傾向ではないだろうか。分野は異なるが、アメリカのドラマのカメラマンを特集したインタビュー本「マスターズ・オブ・ライト」によると、ハリウッドでは撮影に入る前にしばしばカメラマンと監督が何本も様々な映画を一緒に見て、映像のスタイルについて話し合うことがよくあるようだ。そこには映像へのこだわりが濃密にあるのだ。 
 
  「ドキュメンタリーではカメラマンが主導権を持っていると思っていました。だから、カメラマンはいつ監督からなぜこのカットを撮影したのか、と聞かれてもすぐに答えられなきゃいけません。ピントを合わせる技術も大切ですが、一番大切なことは何故、何を撮影するかですよ。」 
 
  フィルム時代に使った機種にはアメリカのオリコン社の作った「プロ600」があった。これは10キロ近くあった重いカメラだった。石垣氏が米軍の空爆を避けながら、ラオスの洞窟で使ったカメラもこれだ。「プロ600」はベトナム戦争が終わるまでハノイ支局に置かれていた。1975年にはフランスのエクレールという機種のカメラを使っていた。さらに70年代後半にはキャノンのサウンドスクーピックとスクーピックサイレントを使っていた。サンドスクーピックは200フィートで5分、スクーピックサイレントは2分40秒撮影できた。こうして1980年にビデオカメラと編集機材など一式を導入するまで、フィルム時代が続いた。そして大きな変化がその後始った。カメラマンが内容を最大限理解して言葉を収録する事だった。内容のある言葉を逃さないことでもある。サウンド時代の到来はカメラマンの被写体に対する姿勢を変えることになった。小型のビデオカメラが次々と開発され、カメラマンばかりか、ディレクターや助手もまた現場でカメラを回す時代が始まった。 
 
  かつては「カメ足3年」という言葉があった。三脚持ちのカメラ助手時代が3年続くという意味である。その間に、先輩たちの技術を盗むというのがその頃の修業だった。しかし、近年、誰でも撮影できる小型カメラの普及、経費削減と取材の少人数体制化で、現場に助手が出てこれる機会がずっと少なくなっている。 
 
  「昔のカメラはまずピントを合わせたり、色を調整したりするところで随分修業を要しましたし、手間を取られましたが、今はそうした労力が減りました。それはいいことだと思います。カメラマンはもっと何を撮影するかに意識を集中できるからです。ただし、一回に撮影できるフィルムが限られていた昔に比べると、漫然と撮影している傾向が強いです。何のために何を撮影するか、映像に濃い内容が求められる、そこにカメラマンの存在がかかっていますから、漫然と映っていればいいというようなことではいけないのです。」 
 
■被写体との勝負 〜カメラマンは漁師〜 
 
  フィルム時代は16ミリフィルム代も現像代もばかにならなかった。だからフィルム時代の番組が3分の映像から1分の放送分を構成していたとしたら、今では100分の映像で1分の放送分を構成するくらいにふんだんにカメラを回せる。予測のつかないアクションを押さえる、という意味ではかつてと比較にならないほど、恵まれている。しかし、その分、何を撮るかに関して、冗漫になる傾向もある。 
 
  ここに1つのエピソードがある。社会党委員長の浅沼稲次郎が1960年10月に日比谷公会堂での演説会の壇上で暗殺されたのをスクープしたカメラマンはいつも1巻3分弱のフィルムのうち、最後の1分は撮影せず、ハプニングが起きた時に備えていたという。つまり、1つのニュース現場の撮影を基本的に2分弱で決めていたらしい。その最後の1分の予備ですら、スイッチを押すのが早すぎたら決定的瞬間の前でフィルムが終了しかねない。フィルムの時代、カメラマンは一発必中が求められ、失敗が許されなかったというのである。 
 
  石垣さんの実家は南伊豆の漁師だった。巨大なカジキマグロを銛で突くような仕事もあった。戦場でも、そうでない日常でも、カメラマンの仕事は一瞬の間を逃さない被写体との勝負なのだという。 
 
*写真提供:日本電波ニュース社 
 
 
▽戦場カメラマン・石垣巳佐夫氏〜妻をインドシナに連れていく 〜 
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