2013年10月10日07時28分掲載  無料記事
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文化

パリの芸術家 〜ラルザックの夏の思い出〜

  パリ5区のモーベール広場で行われた芸術展、「Place aux artistes!」。40人の芸術家が参加したが、中には写真家もいた。僕の目を惹きつけたものに写真のコラージュがあった。それは人々がデモ行進をしている写真の切り張りだった。タイトルは「Gens en marche」(行進する人々)。ウーマンリブもあれば、移民の権利を擁護するデモのコラージュもあった。 
 
  しかし、中でも目を引いた1枚の大行進の写真の中には「ラルザック→パリ 710km」という幕が掲げられていた。ラルザックとは何だろう?多くの人々が野原を行進している。何かの抗議運動に違いない。 
 
  写真家でコラージュを展示したのはニコル・ペシュキン(Nicole.Peskine)という年配の女性だった。僕はペシュキンさんに聞いた。「ラルザックとはあなたにとってどんな意味があるのですか?」と。すると後日、ぺシュキンさんからメールが届いた。 
 
  「1971年以後、フランス各地でラルザック闘争委員会が創設されました。芸術家、知識人らも情熱を持って参加しました。その頃、私は教師をしていたのですが、空き時間に写真を撮っていました。学校ではラルザックの話で持ちきりでした。1974年の夏、農民たちは人々に支援を求め、ラルザックの高原に呼び寄せました。フランス政府がラルザックで軍事基地を拡張しようとする企てを阻止するためには絶えず新たな闘争を提起する必要があったのです。 
 
  私もその夏、友人たちとラルザックに行きました。2日間でしたが、その間、キャンプをして写真を写しました。何か新しいことがそこで始まっていました。フランス中の人々が、農民と労働者、知識人、芸術家が集まって官僚が決めた決定に反対したのです。それは無駄な施設の建設から、自然を守るためでした。 
 
  私は思い出します。ラルザックの高原を。朝、演説を聞くために多くの人々が歩いていました。みんな長い行進に沿っていました。農民たちは参加者に、狭い通路をそれないでくださいと注意していました。なぜなら、その脇には羊の食料源となる草が生えていたからです。もちろん、誰ひとり、行列を乱す人はいませんでした。ラルザックに集まったのは子供を連れた家族も、あるいは外国の人々もいました。私は英国人、ドイツ人、オランダ人に出会いました。そして、座って演説を聞きました。とても暑くて、できるだけ夏の日差しから身を守ろうとしました。飲料水を蓄えたブリキの缶もありました。みんな真剣に耳を傾け、そしてとても幸せだったのです。各地の委員会の人々が話しました。 
 
  私は8歳の小さな娘を連れていました。娘も熱心に討論に耳を傾けていました。そしていくつものグループが集まり、みんなで討論を始めました。みんなでラルザックの歌を歌いました。ところどころは南部方言のオクシタンで歌いました。「De gre, de force, gardarem lo Larzac!」というような歌です。 
 
  夜、リーダーたちは草を大切にすること、紙や瓶などを土地に捨てないことなどを注意していました。トイレも仮に作られていました。地面に穴を掘ってあけ、天井をつけたものです。「緑の茂み」(軍隊用語で仮説便所の意味)と読んでいました。夜はとても静かでした。みんな屋外で一日中、話をし、歌い、歩きました。だから疲れていたのです。 
 
  翌日、みんなが帰るとき、テントがあった大地には一枚の紙切れも、瓶もありませんでした。ある人々は新たにやってきて、別の人々は帰っていきました。ラルザックのあの夏、何万人もの人々が続きました。私は生きている限り、あの夏の暖かな人間の関係を忘れることはないでしょう。 
 
  日曜日、パリでこの展示をしていたとき、一人の紳士が私の写真の前に立ち止まり、長い間、ラルザックの行進を見つめていました。その男性の顔に、涙が流れました。彼は私にこう言いました。 
 
  「私もこの場にいたんですよ。これは私の人生の中で最も美しい一日です!」 
                             」 
 
 
 
■ウィキペディア「ジョゼ・ボヴェ」(農民運動家)より 
 
  ラルザックでは、1971年からNATO軍基地拡張に反対する農民の闘争が起こっており、ボヴェは一支援者としてこの闘争に参加する。この時期、技術社会批判で知られる思想家で、ボルドー大学で教鞭を取っていたジャック・エリュールから少なからぬ影響を受けている。1976年には、妻アリス・モニエ、長女マリーとともにラルザックに定住した。同年6月28日に14人の農民と8人の住民とともにラルザック基地に突入し事務所を占拠する闘争を行う(この闘争でボヴェは懲役三週間の刑を受けている)など、反基地運動の先頭に立っていくことになる。ラルザックの基地拡張計画は、1981年ミッテラン・フランス社会党政権の誕生により、白紙撤回され農民たちが勝利する。 


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