2014年01月13日11時24分掲載  無料記事
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文化

「おれは帰らなければならない」・・・ 望郷の悲しみと祈りを詩う浪江町の詩人・根本昌幸詩集『荒野に立ちて―わが浪江町』を読む 山崎芳彦

 福島県浪江町に生まれ育ち、暮らし続け、あの3・11以後、避難を余儀なくされ、いまは相馬市に住み、詩を書き続けている根本昌幸さんの詩集がこのほど刊行された。『荒野(あらの)に立ちて―わが浪江町』(コールサック社刊、定価1500円+税)である。東日本大震災、あの巨大地震と津波による被災に加えて、東京電力福島第一原発の壊滅事故によって恐るべき核災に襲われた原発立地地域の浪江町を故郷とし、理不尽にもその故郷を追われた詩人が、あの3・11以後に書き記した作品によって編まれた望郷の深い祈りと願いがこもった詩集である。 
 
 この詩集の帯には、南相馬市在住の詩人・若松丈太郎さんが次のような文章を寄せている。 
「核災によって福島県浪江町の全町民は今も避難生活を続けていて、その六割もの人びとは数年後も帰還できないとされている。望まずして町ぐるみで故郷を追われ、暮らしを失うことがどういうことなのか。根本昌幸さんの悲痛な思いが読む者の心を撃つ。」 
 
 根本さんは1946年、福島県浪江町生まれ、同地で暮らし、詩作を続けていたが、2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原発事故に被災し、現在は4箇所目の避難場所の相馬市に在住。詩集出版は、九冊目だが、今回は二十年ぶりだという。もちろん詩作は続けていたしさまざまな媒体に発表していたのだが、『荒野に立ちて―わが浪江町』の出版について根本さんは「あとがき」で次のように記している。 
 
「(略)。しかし、私には人生を大きく変化させる出来事が起きてしまった。あの平成二十三年三月十一日の東日本大震災、そして原発事故により避難民となった訳である。/その生活は今も続いている。文学どころではなかったのである。でもじっとしておることは出来ずに三カ月後からペンを取った。/本詩集に収めた作品はすべて震災後に書いたものである。」 
 「今、記録としてこの詩集を残さなければ、いずれは忘れ去られてしまうであろうと。美しい詩や面白い詩、あるいは昆虫詩人、抒情派の詩人といわれた私が、社会派の詩人といわれるようになってしまった。」 
 
 その根本さんの詩集は、序詩「望郷詩」、一章「荒野(あらの)に立ちて」(十一篇)、二章「バラバラ事件」(十一篇)、三章「柱を食う」(九篇)、四章「新しい朝に」(十二篇)の四十四篇で構成されている。 
 
 序詩「望郷詩」から、この詩集にこめられた詩人の思い、祈り、願いが、そしてそれは一人の詩人を越えた、故郷を追われ、その故郷を思い、そこに帰りたいと深く深く願う人々のこころのことばが、読む者に伝わり、改めて人が理不尽に故郷を追われるのはなぜか、誰が、何がそのような耐えがたい苦患をもたらしたのか・・・を考えさせるひびきがあると、私は読んだ。 
 詩人の言葉には、固定化された意味を持つ文字を越えて、人に伝えるこころがあるのだと私は思った。もちろん、これは序詩に続く四十三篇を読んで、もう一度「望郷詩」に還って読んだ感想である。その「望郷詩」を記させていただく。(行がえは/で示させて頂く。) 
 
おれには帰る/家がある。 
おれには帰る/山がある。 
おれには帰る/川がある。 
おれには帰る/丘がある。 
 
  おれには帰る/海もある。 
  おれには帰る/故郷がある。 
  だから/おれは帰らなければならない。/おれに故郷があるかぎり。 
  そこでおれのことを/いろんなものたちが待っているから。 
 
 根本さんの言葉には、尖って突き刺してくるような言葉はないし、意味を探さなければならないような暗喩、読むものが突き当たって困惑するような仕切り戸もない。詩集に収められているすべての作品に、ものやこと人の思いから引き裂かれた、読む人が拒絶されるような言葉やリズムがない。しみこむように、あるいは明瞭に伝えられる言葉があり、そして読む者はその言葉の中にこめられているこころを聞き、眺め、映像を見る。そして、おそらく原子力と人間が共生できないことについて、浪江町の、福島の原発事故による被災、受難の現実と未来について、多くのことを伝えられ、わがこととして受け止めさせられる。深く考え、人間にとっての故郷を観念としてではなく、現実に人が生き、息をし、人々や自然とこの身体で触れ、感じる、なくてはならない世界、として思うだろう。その世界を奪われ、追われ、帰れないのはなぜか。 
 
 根本さんの詩はふるさと浪江町を、人間のふるさとの限りなく大切な、捨てきれない世界を、読む者に伝えている。そう、読む私の故郷を失ってはならないのだ。誰も、自分のふるさとを理不尽な政治や企業の貪欲な、人々を苦しめ、悲しませ、ついには命を奪ってもやむことのない欲望の所業の犠牲者として身をさらしていては、人々のふるさとは奪われ、壊され、うしなうことになる。根本さんが詩ったようなふるさとの詩は、生れない世界になってしまう。 
 
「(略)わが浪江町。/この地に いつの日にか/必ずや帰らなければならぬ。/地を這っても/かえらなければならぬ。/杖をついても/帰らなければならぬ。/わが郷里浪江町に。」(「わが浪江町」の終連)は、序詩につながっている。 
 
 それぞれの作品についての感想を述べることは、できないが、この一冊の詩集との出会いが、ひとつひとつの詩を読んだことが、根本昌幸さんというすぐれた詩人を知り得たことが、私にとってとても大切なことであると、改めて感じている。 
 
 福島第一原発の周囲を国有化し、「除染廃棄物の中間貯蔵施設」にすることを政府は企んでいる。「中間貯蔵施設」という言葉を信ずることは出来ない。政治、大企業の権力行使は、人々の故郷、生きている心、祈りや願いを歯牙にもかけようとしない。福島の経験と現実を、この地に、この国に生きる人々のいまと未来を、考えることをせずに、原子力・原発エネルギーを「なくてはならないもの」と決めて、各地の原発の再稼働を進め、さらには新増設にも至る道すじを急いでいる。許してはならない、切実にそう思う。彼らの描く未来社会に、人間のふるさとはない。 
 
 根本昌幸詩集『荒野(あらの)に立ちて―わが浪江町』の目次を記しておきたい。 
 
 序詩「望郷詩」 
一章「荒野(あらの)に立ちて」(浪江町大字苅宿/ほたる/犬に写真を見せる/わたしすきな人ができました/孫と/待っている/瓦礫の海辺/ここから先/荒野(あらの)に立ちて/眠れぬ夜に/わが浪江町 11篇) 
二章「バラバラ事件」(バラバラ事件/歩く/津波/福島県/死んだ町/わが故郷/誰もいない/ふるさとは/ふるさとがない/帰還断念/故郷喪失 11篇) 
三章「柱を食う」(飯舘村にて/柱を食う/牛/散歩/花と喋る/しあわせな時間/殺すな/白い鳥/遠いどこかの国で 九篇) 
四章「新しい朝に」(今日も/竹の子/苦労/橋/太陽/言葉が暴力を/一度/老い入る/悶/星空/雷/新しい朝に 12篇) 
【解説】「浪江町の悲しみと祈りを書き記す人」 鈴木比佐雄 
あとがき 
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