2014年10月05日14時26分掲載  無料記事
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文化

手と足をもいだ丸太にしてかえし 反戦川柳人鶴彬碑前祭に参加して 笠原真弓

 鶴彬は(1909〜1938)、第2次世界大戦中に投獄され、赤痢に感染して29歳の若さで、手錠をベッドにくくりつけられたまま、病院のベッドで死んだ、プロレタリア川柳人である。また、日本無産者芸術連盟の会員でもあった。9月14日、鶴彬の生地、石川県かほく市で碑前祭があった。 
 
手と足をもいだ丸太にしてかえし  (1937年・28歳) 
 
軍神の像の真下の失業者 
 
地下にもぐって春へ春への導火線  (1935年・26歳) 
 
貞操を為替に組んでふるさとへ 
 
吸いに行く 姉を殺した綿くずを 
 
 など、どれもが鋭く息苦しくなる。 
 
 鶴彬の命日である9月14日に、石川県の彼の生地、かほく市高松で行われた碑前祭に参加した。同行者は、レイバーネット川柳班と「東京鶴彬顕彰会(鶴彬の終焉の地近くに、句碑を建てる)」、11月に鶴彬のお芝居を上演する俳優さんたちの10人である。 
 
▼碑前祭 
 
 碑前祭の行われた高松歴史公園には、鶴彬の20句を超える句がロープに下げられ、句碑の前には遺影が置かれている。 
 
 碑に刻まれた句は、 
枯れ芝よ団結をして春を待つ   (1936年・27歳) 
 
 である。 
 地元の鶴彬を顕彰する会会長に続き、親族代表として甥の喜多義教さんの挨拶とすすむ。 
 
 驚いたのは、市長の挨拶があったこと。 
 
文明とは何骸骨のピラミッド 
 
万歳とあげて行った手を大陸において来た  (1937年・28歳) 
 
屍のないニュース映画で勇ましい        (1937年・28歳) 
 
 こんな句を吐く人の碑前祭に、埼玉の「梅雨空に九条守れと女性デモ」という俳句が公民館報への掲載を拒まれるような右傾化していく自治体の多い時勢の中で、代読とはいえ、市長が言葉を寄せている。やはり、地元の名士として、誇りに思っているのだと勝手に思う。しかし、あとで聞けば、市長の挨拶をもらえるようになったのは近年のことで、市民の合意がないとできないと言われていたそうだ。昨年から川柳を公募したり、小学4年生と中学2年生に、授業として川柳を作る指導をしたりして、少しずつ市民権を得てきたという。学校では、作文と違い、短い言葉で言いたいことを凝縮することが、国語の読解力につながり、全体の成績にも影響してきたと聞いた。 
 
 鶴彬の碑前祭は続く。公募した鶴彬川柳の大賞の発表が姪の城戸寿子さんからあった。 
 
大賞 
自衛権軍靴の響き近くなる  池永 龍生 
 
優秀賞、佳作が読み上げられた。 
 
 続いて、句碑に刻まれた句の、献吟が行われた。5名の地元吟詠会の朗々とした声が、汗ばむほどの秋の空に昇っていった。参会者による献花のあと、同時代のしかも同じ29歳で特高によって殺された小林多喜二の映画『時代を撃て・多喜二』が上映された。古い映画だが、素晴らしいもので、見ているうちに、名前も似ているし(鶴彬の本名は、喜多一二)、二人の生涯がダブってしまい、頭の中がごちゃごちゃになったのには、困った。 
 
▼生家跡訪問・交流会 
 
 すぐ近くの生家跡を尋ねる。現在は喜多義教さんが住んでいらっしゃり、玄関脇には、母を詠んだ句碑がある。 
 
可憐なる母は私を生みました      (1925年・16歳) 
 
 とある。 
 
 「可憐なる」と言う言葉に、塊が喉につっかえる感じがしたのは、なぜなのか。 早くに父を亡くし、母の再婚で8歳できょうだいとともに伯父に引き取られた彼の気持ちを思う。新聞にデビューした15歳の時の3句の中に、母を読んだ、このようなものもある。 
 
皺に宿る淋しい影よ母よ  (1924年・15歳) 
 
 この後行われた交流会は、地元の鶴彬を顕彰する会と11月に上演する鶴彬のお芝居の役者さんと私たち、レイバーネット川柳斑で和やかのうちに行われた。会場は、その日にあわせて開会した鶴彬資料展。展示内容は、ほとんどコピーだが、短冊や家族の写真など、1週間で終わってしまうのには忍びない充実した内容の展示だった。 
 
 宿への道すがら、そぞろ歩いていると、門前に明かりの灯るところが。それが、もうひとつの句碑 
 
胎内の動き知るころ骨がつき      (1938年・29歳) 
 
 のある浄専寺だった。 
 
 この句は、1938年11月に『川柳人』第281号に掲載された遺作である。その数ヵ月後(その年の12月とも年が明けてからとも言われている)永久の旅路についたのである。 
 
 その明かりは、8月のお盆の行事、万燈会のミニチュアを用意してくださっていたのだ。私たちもまだ灯っていない灯をともし、境内に現れた「和」という文字などを楽しむ。 
 
▼金沢市内で遺品に触れ卯辰山の句碑を見る 
 
 翌朝、金沢市内の石川近代文学館を訪ね、鶴彬の直筆葉書や写真などの遺品を見せていただく。ほとんど遺品のない中、川柳仲間(?)の渡辺尺蠼が保存していた鶴彬の手紙類が、鶴彬の温もりを感じさせた。就職の斡旋依頼だったり、生活苦の訴えや、寄稿の礼状など、彼の生活が、手に取るようにわかるものだった。 
 
 そのあと、鶴彬が入隊した第九師団金沢歩兵第七連隊のあった金沢城址をめぐり、最後にもうひとつの句碑のある卯辰山公園に行く。全く道標もなく、わかりにくいところだったが、緑に囲まれて私たちを待っていた。刻まれた句は、 
 
暁を抱いて闇にいる蕾  (1936年・27歳) 
 
 蕾が抱く暁は、希望なのか絶望なのか、憲法の解釈を変えて、戦争の出来る国にしようとしている国で咲く花はなんなのだろう。 
 
 2日にわたり、鶴彬を尋ね歩くうちに、文字でしかなかった鶴彬が、世の中の不平等を正したいとの思いで赤い血潮をたぎらせていた実在の人として、私の中に入り込んできたのだった。 
 
 碑前祭を主催した鶴彬を顕彰する会のメンバーの中に、自民党や民社党、共産党の方々と、もちろん支持党を明言なさらない方など、超党派のあつまりであることも、鶴彬というプロレタリア文芸人を、地元の誇りとしていることが伝わった。 


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