2014年11月10日15時51分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(167) 小島恒久歌集『原子野』の原子力詠を読む(1) 「講義初めに被爆体験語ること慣ひとし来て四十年経ぬ」 山崎芳彦

 今回から小島恒久歌集『原子野』の原子力詠を読ませていただく。前回まで小島さんの第二歌集『晩祷』の作品を読んできたが、今回からの『原子野』は順序はさかのぼるが2005年1月に短歌新聞社から刊行された第一歌集である。作者が40年余にわたる長期の作歌の中断を経て再び作歌を再開した1996年以後の作品によって編まれたこの第一歌集について作者は、「歌集名は『原子野』とした。長崎での被爆体験は、その後の私の生き方の原点をなしたし、この歌集でも原子野をたび重ねて読んでいる。そうした私の鎮魂と平和への思いをこめて歌集名とした。」とあとがきに記している。 
 
 この歌集に、作者はかなり長い「あとがき―思い出すことども―」を書いて、その若い時代から歌集刊行時までの道程を明らかにしている。病気、戦時下の学生時代、そして1945年8月6日の長崎における原爆被爆とその後遺症に苦しんだ自らの体験について記し、その被爆体験がその後の生き方の原点になったとしている。小島さんは18歳、長崎高商の学生時代に短歌の創作を始めているが、原爆以後も活発に作歌活動を続け、九州大学経済学部に入学後もアララギに入会して、同大学大学院に進んでからも旺盛な文学活動を続けたという。大学院に入学してから、マルクス経済学者の向坂逸郎教授の指導を受けたが、一年後に肺結核に侵され療養、入院生活を余儀なくされる苦難もあった。 
 
 1953年春には大学院に復帰、病気で休んだにもかかわらず教授の推薦で特別研究生後期に進むことができ、研究生活に集中したこともあり、短歌から離れ、作歌の長い空白期に入ったという。 
 1955年に大学院を終り、九州大学、大学院で講義を担当し日本の近現代経済史を中心に学究生活に取り組んだが、研究室に閉じこもることなく、三池炭鉱の労働者の三池闘争の渦中にあって「向坂教室」の一員として三池労組の学習活動に参加し、「60年安保闘争」とともに闘われた三池闘争の修羅場を体験し、その経済学者としての学識に、研究室では得られない多くの実りを加えたことを、「忘れがたい体験」という小島さんは、その後も一貫して労働運動、社会運動、平和運動と経済学者としての立場を統一した、志を持続した。海外留学中のマルクス、エンゲルスの足跡の探報、1968年ごろからの学園紛争の嵐の中での体験などについても、「あとがき」の中で触れている。 
 
 権力、権威におもね、時の支配層に寄り添う「学者」としてのあり方を厳しく拒否して、しかも自らの学者としての生き方を貫いた小島さんが、40数年の空白期を終えて、再び短歌を始めた時、その作品は空白期の体験をも含めて、発展の時として実りをより豊かなものにしたのだと、筆者は考える。 
 小島さんは、あとがきに記している。 
「四十年という空白は長すぎた、という後悔は今も消えることはない。だが、前には歌えなかったものが、今度は歌えるようになったという発見も他方にあった。たとえば原爆のことがそうである。以前の私は、被爆者の多くがそうであるように、被爆のことには触れたくないという気持ちが強く、被爆者手帳も長く筐底にしまいこんだままであった。それが今度は、そうした気持ちからふっきれて、抵抗なく歌えるようになっていた。」 
「私もすでに七十歳をこしたし、身内に腫瘍をかかえるようにもなった。今のうちに被爆の体験を詠み、次の世代に伝えてゆかねばという思いが強くなった。だから、折にふれて、時には孫をともないながら、被爆地・長崎、さらに広島をたずねて、原爆の記憶を詠んできた。今年はちょうど被爆六十年目である。この年にこの歌集を出すのには、親しかった学友をはじめ、原爆で亡くなった多くの人に捧げる私のささやかなレクイエム(鎮魂歌)という思いがある。」 
 
 そしてさらに、核の悲劇、第五福竜丸、原発事故、劣化ウラン弾などについて詠み、また戦争の悲惨を訴えてくる沖縄をたずねての作品、そして戦争や人権問題にかかわりの深い国内、国外の地を訪ねて作歌している。戦争や、歳月を経ても癒えない傷痕や苦悩、そして今も新たな犠牲者を生みつつあるさまざまな国内外の社会の動きも短歌作品で表現している。 
 「社会詠、時事詠は、ともすれば難解になりがちだし、抒情性に欠ける憾みを持つことになる。だが、それをあえてしても私は、現に生きつつある今の時代を歌い、そこに生きる私の思いを伝えたいと思った。そうした、短歌の形式をもってする、ひとりの人間の生きた記録として、この拙い歌集は編んだ。」との述懐に、筆者は深い共感と敬意を抱いている。そして、この歌集から原爆詠に限って抄出することに、いつものことではあるが、無念、心残りを痛感する。補う方法はないものかと考えてもいるのだが、いまは原子力詠の抄出にとどめざるを得ない。 
 
 原子力にかかわる作品を読んでいく。 
 
 ◇原子野◇ 
遁れ来し夜の山中におびえ見き街々なめて燃えさかる火を 
 
瓦礫の下に救ひもとむる声あるに術(すべ)なく過ぎき今に夢見る 
 
母は死に抱く子は生きて乳さぐるを見しがその後の生死を知らず 
 
医薬なく臥す被爆者のなか行けば足引く人あり水を乞はれき 
 
友探し原子野さまよふわが傍を死屍積むリヤカーいくつか過ぎにき 
 
友さがし探しえざりし原子野にあきつ飛びゐき幻のごと 
 
被爆地より遁れ還りて母と寝し月射す蚊帳(かや)のやすらぎ忘れず 
 
夜半覚めし隣り間に母らささやきゐきわが原爆の症状危ぶみて 
 
原爆症におびえ臥しつつ故里に国破れたる詔勅聞けり 
 
 ◇母を憶ふ(抄)◇ 
被爆地より還りし襤褸(らんる)の吾を抱きし母の腕(かひな)の温み忘れず 
 
脱毛にはどくだみの葉が効くと聞き母が摘み来し被爆後の日々 
 
しばしばもさびしと日記に書かれをり何つくししか母の老後に 
 
 ◇定年近く(抄)◇ 
講義初めに被爆体験語ること慣ひとし来て四十年経ぬ 
 
 ◇最終講義(抄)◇ 
身に浴びし核体験を結語とし最終講義の壇を下り来ぬ 
 
 ◇被爆死の友◇ 
半世紀経て原爆症になほおびゆ歯ぐきより血のにじむ折節 
 
乞ふ水を汲みに行きし間に血を喀きて友は死にゐき被爆三日目 
 
ヴァレリィ詩集われに遺して原爆に逝きし面輪の今にさやけき 
 
被爆死の友らは永久(とは)に若くして古稀のわれらのアルバムに笑む 
 
征く友がわれに遺しし『万葉紀行』見れば立ちくる送別の夜が 
 
新調のわが制服を盗み売りし友ありき征きて還らぬ一人 
 
 ◇爆心園◇ 
乞ふ水を与へえざりし悔い秘めて爆心園に噴く水見つむ 
 
やがてわが名も記されむ死没者名簿爆心園の日に干されをり 
 
節だつ手にロザリオをくり浦上の御堂に長し媼の祈り 
 
まなこ欠けし被爆のマリアが御堂の隅に核の悲惨を問ひてひそけし 
 
子二人と如何に住みしか如己(によこ)堂は二畳一間に厠つくのみ 
 
死の八日前まで博士は『乙女峠』の筆をとりしかこの二畳間に 
 
雲厚き小倉は遁れわが街が灼かれしかの日の還るなきIF(イフ) 
 
ナガサキの鐘鳴り反戦誓ひし日に日の丸君が代の法案通りぬ 
 
原爆の翌春早もアララギの歌会開かれ吾も連なりき 
 
被爆国日本の援助する国が核持ち民がそれに歓喜す(インド・パキスタン) 
 
無抵抗説きて斃れしガンジーよりかなしきは核に歓呼する民 
 
 ◇ヒロシマの碑◇ 
ピエタのごと斃れし子を抱く女教師の碑に読む篠枝の「さんげ」の歌を 
 
プレスコードに死をも覚悟し原爆歌集密かに出せる戦後を忘れじ 
 
「夏の花」遺し自死せる民喜の詩碑小さくひそけしドームの陰に 
 
「過ちは繰り返しませぬ」と刻むこの碑訪ひし彼の国の大統領なし 
 
天皇陛下万歳と叫び原爆を浴びて死にし子のあはれを今日聞く 
 
式典には反核説けど被爆者に会ふ用なしと総理は去れり 
 
広島に原爆投じし機長は言ふ「正義の戦争など世にはなし」 
 
原爆を投じし国にて吉永小百合切々と読む三吉(さんきち)の詩を 
 
 ◇生検のカルテ◇ 
生検のカルテを見つつこの次は妻連れ来よと若き医の言ふ 
 
被爆との因果はわからね半世紀経て出し腫瘍を若き医の告ぐ 
 
輪切りの瓜に似るCTの画像を見医は指すわれの腫瘍の箇所を 
 
生検の結果にくぐもる思ひ秘め「無言館」の絵を見ゆく切なく 
 
観ゆく人みな「無言」なり妻を母を描きし戦没学徒の絵の前 
 
 次回も小島恒久歌集『原子野』の原子力詠を読む。   (つづく) 


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