2015年03月18日15時06分掲載
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文化
【核を詠う】(175) 『角川短歌年鑑平成27年版』から原子力詠を読む(2) 「汚染され除染されそして放棄されなほ生きをらむ咎なき土は」 山崎芳彦
東京電力福島第一原発の事故から4年が過ぎた。短歌界でも、この国では未曽有の原発事故によって引き起こされた事態に大きな衝撃を受け、とりわけ深刻な被災を受けた福島の地の歌人をはじめ、原発列島化してしまったこの国に生きる現実を改めて思い知らされ、将来にわたって暗い霧の中にあるような不安を抱かざるを得ないことに気付かされた全国の歌人がさまざまな短歌表現をもって、詠う者としての姿勢を示してきた4年であったと思う。直接的なテーマとして詠わないでも、いまを生きる人間として原発・原子力の影を何らかの形で背負いながらの作歌は、生きる時代を離れて詠うことはできないのだから、原子力とのさまざまな向かい合い方や意識を映す作品を生んでいるだろうと思う。筆者には捉えきれない作品の背景や作者の意図、翳を読み切れないままに、たとえばいま読んでいる『角川短歌年鑑』に載っている短歌作品からも見過していることが少なくないに違いない。
まして、いま全国各地で生み出されている多くの短歌作品に接することはできるはずもなく、かつて誰かが「原発万葉集が編まれなければならない」と言っていたことを、改めて思う。短歌人がさまざまに貴重な取り組みをしていること、広く世に知られなくても営々として原子力詠を紡ぎ重ねている歌人やグループも少なくないだろう。この連載の中で記録している原爆短歌についても同じように思っている。筆者の非力を無念に思う。
「うた新聞」(いりの舎、月刊)3月号が「阪神淡路大震災より二十年、東日本大震災から四年」の企画を組んで発行されたが、その中で、この連載のなかでも何回かにわたって登場いただいている福島市在住の歌人・波汐国芳さんが「起つ心での復興への参加」と題する文章を書いている。その中で、「三・一一東日本大震災と同時発生の東京電力福島第一原発事故から四年の歳月が流れるが、同じ震災の岩手県や宮城県に比して復興が大きく遅れている。それは原発事故が重くのしかかっているからである。」として、原発事故の解決は何十年も先になるだろうこと、行き場所の決まらない除染土が居座り、原発事故で土地を追われた十五万人ほどの人々が県内外に避難しその多くが帰れない状態であること、仮設住宅が立ち並ぶ団地で被災避難者が寒さを忍んでいることなど現状を記し、「福島県に住む限り私を含め原発石棺に閉じ込められている日常」と表現している。そのうえで、「歌人としての我々の使命は、福島の今における真実を前向きに歌い、感動を創造することを通じて復興に参加することであると考えている。」と書いている。もちろん、ここでの「復興」とは政府や東電などの言う「復興」とは違う人間の基本的な生活や心の本当の意味での起ちあがり、現状を超克するために起ちあがる姿について言っておられるのだと、筆者は思う。
また波汐さんは、「作歌に当たっての視座」として、「事後の現象つまり見えるものを歌う、あるいは手に触れる確かな事柄を歌うという作歌の途」もある一方で、「先取りに見えないものを歌うという途もある」という見解を語っている。その中で波汐さんは、
「貧しさ故に押しつけられた原発ではあるが、その安全神話が罷り通り、大震災が起きていない時期においても、チェルノブイリやスリーマイル島での原発事故は知られており、我が国においては各電力会社の原発事故隠し問題が相次ぐなかで、スマトラ沖地震による大津波の襲来が予想できないことではなかった。もし大津波が来た際に原発は絶対に安全なのかが問われるべきであった。」と言う。福島原発事故が起きた後ではなく、つまり事後の現象としてではなく、原発事故をとらえる途があったことについて述べているのだ。
「短歌の世界においても意思的・創造的に原発の惨を詩的現実として歌いあげることは文学の課題の一つであるといえる。つまり、見えない世界の把握である。」という指摘は、大切な視点である。短歌や詩の作品として早くから原発の事故について警報を発してきた作品がないわけではなく、波汐さん自身もそのような作品を持っているが、いま改めて短歌界に問題提起をすることの意味は大きい。原発問題にとどまらず、いまの時代が抱えている深刻な様々な分野にわたる問題、見えなくされているが、本当は見えるはずの事柄を、敏感に、確かにとらえて短歌表現する役割を引き受けることの自覚的な意識を短歌人、短歌界が持つことは、必要であろう。かつて、戦争に突入した時代に短歌界を代表するような歌人が何を歌い、どのような役割を果たしてしまったかを思い起こさなければならないとも思う。
前回に続いて『角川短歌年鑑平成27年版』に所載の短歌作品の中から、筆者が原子力詠として読んだ作品を抄出させていただく。今回は同年鑑の企画である「作品点描」で取り上げられた作品と、月刊「短歌」が毎号行っている「公募短歌館」への応募作品から選者により特選として採られた平成26年の作品それぞれを記録したい。筆者なりに年間に収録されている多くの作品の中から原子力詠として読み取った作品を抄出したつもりであるが、作者の意に添わない不適切があることを恐れるが、お許しを願う。
◇作品点描(抄)◇
○安全は絶対なりと信じがたき事言ふなれば口速(くちはや)に言ふ
(北沢郁子)
○放射能の雨に育ちし翁草をりをり思ひ三年の日々を
(大河原惇行)
○汚染され除染されそして放棄されなほ生きをらむ咎なき土は
(伊藤一彦)
○丸三年経ちて3・11を語れり生きている人たちは
(沖 ななも)
○おもひきや核被爆国日本が放射能汚染源になるとは
(田宮朋子)
○フクシマは沖縄と同じ構造と言ひ切りしのち暫し黙(もだ)しき
○地震(なゐ)の震度テロップに流れ抱き直すメルトダウン後に生れし嬰児
○フリルレタスちぎりつつうたふ時花唄(はやりうた)、線量をもう誰(だあれ)も言はず
(3首 渡 英子)
○大雪の東京の夜に母は問ふ原発ゼロで凍え死なぬか
(栗木京子)
○シドニーの空の青さを言ひよどむは日本の空の汚れしゆゑか
(一ノ関忠人)
○東電に家奪われた憎しみをいまだに言える映像を見る
○逃げること籠の鳥には許さぬにとっとと逃げる人間ならん
(2首 岩井謙一)
○夢の中のバイキングにて食材を気にする我はキノコを避ける
○あの世には持っていけない金のため未来を汚す未来を殺す
(2首 俵 万智)
○ふぐしまの桃はうめえぞかぶりつき胸を濡らして桃食ふ我は
○白さぎのごとくふる雪 ふくしまの冬の真土に香ひけるかも
(2首 本田一弘)
○粛々と掘ることもまた祈りなれ除染土を深く埋めるための
○逃げるとは生きること温き泥の中おたまじゃくしはわらわら逃げる
○避難先よりひとりふたりと戻り来て子らは名前を書けり大きく
(3首 斎藤芳生)
(以上が「作品点描」1〜13の中に掲載された作品から原子力詠として読んだ作品である。点描をされた歌人のお名前、評言を省略しているのはまことに申し訳ないことであるが、お許しをいただきたい。筆者)
◇公募短歌館特選作品集(抄)◇
(月刊「短歌」誌の平成26年各月号の「公募短歌館」に応募の入選作品の中から原子力詠と筆者が読んだ作品を抄出させていただく。)
▼奥村晃作選
○廃炉まつフクイチ四基の爆弾を抱きゆく歳月 地震が怖い
(1月号 神奈川県・松並善光)
○テロルなど容易(たやす)かるらむドブネズミ五匹も放てば電源止まる
(3月号 東京都・小島 守)
▼久々湊盈子選
○原発とロシアンルーレットどこか似るスリル愛する民族我ら
(2月号 山形県・島田高志)
○纍纍と置かるるタンク困厄の極みのごとき汚染水入れて
(3月号 福岡県・山�� 碧)
▼松坂 弘選
○原発の冷却装置を停めたのがネズミだなんてヒトは愚かだ
(4月号 茨城県・志賀和彦)
▼秋山佐和子選
○除染済み撒かれし砂地の庭隅に葱埋(い)けている夫と私は
(4月号 福島県・伊藤敏江)
○放射能のなかに三年(みとせ)を晒されゐし三十袋(たい)の米盗まれてをり
(5月号 福島県・吉田信雄)
○故郷を追われし啄木その心持ちて生きおり福島を出でて
(6月号 宮城県・渡部千鶴子)
▼川野里子選
○爆発は何号機から起こったかうろ覚えなり さくらばな見ゆ
(4月号 岡山県・滝口泰隆)
▼三井 修選
○なり止まぬテレビの音が四日目と近所らが言ふそれが孤独死
(9月号 福島県・児玉邦一)
▼来嶋靖生選
○丈高き泡立草は繁茂して原発の地に闇をなしをり
(10月号 福島県・吉田信雄)
▼花山多佳子選
○くさひばりいつまでも鳴く安穏を一時帰宅の部屋に聴きをり
(12月号 福島県・児玉邦一)
『角川短歌年鑑平成27年版』の原子力詠を読んできたが、今回で終る。
次回も原子力に関わる短歌を読み、記録させていただく。 (つづく)
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