2016年04月24日16時28分掲載  無料記事
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文化

大川周明と「日本精神」の呼び出し1 〈大正〉を読む 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)

  大川周明『日本文明史』を読む 
 
  「日本は断乎として落日の欧羅巴に対する従来の過当なる崇拝、畏怖を止め、深く日本精神に沈潜し、無限の努力によって一切の至貴至高なるものを日本の魂其ものの衷より汲取り、一貫徹底これを内外に実現せねばならない。」(大川周明『日本文明史』) 
 
 
1「日本精神」という語 
 
  「精神多年の遍歴の後、予は再び吾が魂の故郷に帰り、日本精神其者のうちに、初めて長く得ざりし荘厳なるものあるを見た。」これは大川周明が『日本精神研究』[1]の「はしがき」の冒頭でいう言葉である。大川の多年の精神的遍歴の後に「日本精神」は再発見されるのである。やがて十年後の昭和の人びとの耳に猖獗をきわめるほどにこの言葉は注ぎ込まれることになるが、大正末年のこの時には「日本精神」は大川に再発見される言葉であった。「はしがき」の終わりに大川はいっている。「精神復興は、震災このかた随所に唱えらるる題目である。而も予の見る処を以てすれば、其の提唱せらるる復興策は、悉く第二義に堕して究極の一事に触れない。・・・予は予の自証する処によって信ずる、精神復興とは、日本精神の復興であり、而して日本精神の復興の為には、先ず日本精神の本質を、堅確に把持せねばならぬと。」「日本精神」が再発見されるのは、関東大震災後の「精神復興」が叫ばれる日本の社会的危機の時代においてである。 
 
  ところで「日本精神」という語を題目上に記した刊行物は、大正13年に大川が刊行したものが最初であったようである。文部省思想局によって編集印刷された思想調査資料『日本精神論の調査』[2]という冊子がある。表紙に□内に秘の字が印刷されている。「本調査は日本精神の至醇なる発揚に資せんがために、主として昭和の初より今日に至るまでの間に顕れた日本精神論の内容を調査することを目的としたものである」とその「凡例」でいっている。「日本精神」という語が標語として国民の間に急速に伝播するようになったのは、大体昭和6(1931)年秋の満州事変以後のことだと、その「序」でいっている。では「日本精神」という語そのものは、いつだれによっていい始められたのか、それを知ることは不可能であるが、しかし多少なりとも社会的影響力をもちうる刊行物の名としてその語が用いられるにいたったのは大正12,3年以前ではないと「序」の筆者はいい、刊行物の題名上に「日本精神」の語をもったものは、大川の社会教育研究所における講義録『日本精神研究第一 横井小楠の思想及信仰』(社会教育研究所、大正13年1月)が最初であろうといっている。この講義録『日本精神研究』は第九巻まで順次刊行され、後に一冊にまとめられ『日本精神研究』として文禄社から昭和2年5月に刊行された[3]。 
 
  これは「日本精神」という語の成立をめぐる十分な書誌学的研究といえるものではないが、文部省の思想統制的眼差しは「日本精神」という語の刊行物上の登場時期を大正12,3年以後としているのである。この指摘は重要である。「日本精神」という語はその登場の〈時〉をもっているのである。冒頭に引いた「はしがき」で大川は関東大震災(1923年9月)後の「精神復興」が叫ばれる時をいっていた。だがこれは大川における「日本精神」の呼び出しをあえて震災後の「精神復興」の気運に結びつけた物言いである。大川における「日本精神」の呼び出しは、第一次世界大戦後すなわち1917−20年の大川における「世界史」的危機認識の深化と〈時〉を同じくしている。「日本精神」は猶存社[4]時代の大川によってすでに呼び出されているのである。 
 
2 「世界史」と「日本精神」 
 
 大川の猶存社時代の著作に『日本文明史』がある。これは大正10(1921)年に大鐙閣から刊行された。「総じて之を言えば、亜細亜一切の理想が、如何に日本に於て摂取せられ、日本の国民精神が、大陸の影響を蒙りつつ、如何に自己を実現して来たかを知らねばならぬ。かくて日本精神の本領を把握し、其の種々相を綜合統一して一貫不断の発展を、組織的に叙述するもの、即是れ日本文明史である」(傍点は子安)とその「序」にいうように、『日本文明史』とはすでに「日本精神」の実現の種々相を日本文明の発展史として叙述したものである。とすれば大川における「日本精神」の呼び出しをめぐる私のこの論は『日本文明史』から始めねばならないはずである。だが大川が『日本二千六百年史』(第一書房、1939)を『日本文明史』の改訂版として出版したことから、前者の影に隠れてしまって後者は容易に見ることさえできなくなってしまった。『大川周明全集』[5](第一巻)でさえ『日本二千六百年史』を載せて、『日本文明史』を割愛してしまっている。 
 
 私は国会図書館のデジタル・ライブラリーで『日本文明史』を見ることができることを知った。目次を対比しながら『日本文明史』が『日本二千六百年史』と異なる箇所を探していった。決定的に違うのは「序」以外に結論の諸章である。『日本文明史』は「第二維新に面せる日本」(第26章)、「世界戦と日本」(第27章)、「世界史を経緯しつつある二問題」(第28章)の三章を終章としてもっている[6]。この三章は全部で約40頁にも及ぶ長い論説からなるものである。だが『日本二千六百年史』の終わりには「世界維新に直面する日本」(第30章)というわずか9頁ほどの一章があるだけである。両者におけるこの違いは何を意味するのだろうか。恐らくそれは「日本精神」をいま呼び出そうとする大川における「世界史」的認識がもつ精神的緊迫度の違いである。 
 
 1920年の大川に『日本文明史』を書かしめ、「日本精神」を呼び出さしめているのは、「世界史」だといっていい。大川において「日本精神」が呼び出される〈時〉とは、「世界史」が彼に強い緊迫度をもって認識される〈時〉であるのだ。その〈時〉とは世界戦争(第一次世界大戦)がロシア革命とともに終わり、ヨーロッパ中心の世界秩序に激動が生じた〈時〉である。この〈時〉、「世界史」が日本知識人の歴史意識に〈世界史的な自己認識〉の要請とともにはじめて登場したのである。 
 
 「世界史的立場と日本」という〈悪名高い〉という修飾語が必ず付される座談会が高坂正顕・西谷啓治らによって開かれたのは昭和16(1941)年11月26日である。それは「大東亜戦争の大詔渙発に先んずる十三日」であった。「我々はもとより情勢のそれほどまでに緊迫せるを知る由もない。しかし世界の日増しに感ぜられる実にただならぬ気配は、自ら我々をして世界史とそこに於ける日本の主体的位置の問題に論議を集中せしめた。かくてその夜の座談会の記録は、後に「世界史的立場と日本」と題せられた」とその記録『世界史的立場と日本』[7]の「序」に記されている。私がここで大東亜戦争を哲学的に意義づける座談会「世界史的立場と日本」をもち出すのは、大川によってはじめて現代日本の歴史的自覚として喚起された「世界史」概念の二十年後の行き着く先を見るためだけではない。「東亜」が、そして「日本」が呼び出される〈時〉とは、「世界史」が日本知識人に呼び出される〈時〉でもあることを確認したいがためである。 
 
 大川は『日本文明史』の最終章で「世界史を経緯しつつある二問題」(第28章)を提示する前に「世界戦」(第27章「世界戦と日本」)について語っている。「世界戦」とは第一次世界大戦である。それがはじめての、日本も参戦した「世界戦」であった。この「世界戦」はヨーロッパに未曾有の物的、人的な被害と損失とを与え、ヨーロッパの世界史的な没落を決定づけるものとなったと大川はいう。「世界戦は、其の胎内に社会革命を孕み、露国の社会主義国家を生んだ点に於て、重大なる意義を有するのみならず、侵略劫奪の欧羅巴没落を暗示する新ペロポネソス戦争として、特殊の重大なる一面を有する」と大川はいっている。世界戦によるヨーロッパの世界史的な没落が、ヨーロッパ中心的な世界史に代わる真の「世界史」の立場を日本知識人に自覚させるのである。大川の『日本文明史』はこの「世界史」の最初の成立を記すものであるだろう。そして大川における「世界史」の成立の〈時〉とは、「日本精神」の成立の〈時〉でもあるのだ。「世界戦と日本」の章の末尾で大川はこういっている。 
 
「世界戦は是れ新ペロポネソス戦争、日本は断乎として落日の欧羅巴に対する従来の過当なる崇拝、畏怖を止め、深く日本精神に沈潜し、無限の努力によって一切の至貴至高なるものを日本の魂其ものの衷より汲取り、一貫徹底これを内外に実現せねばならない。」 
 
 
著者による注 
 
[1] 大川の『日本精神研究』は昭和2(1927)年に行地出版部から出版された。私が見ているのは明治書房刊の普及版(1939)である。なお大川の著書からの引用に当たっては、漢字・かな表記は現行の用法に従っている。大川以外の著者の場合も同様である。 
 
[2] 『日本精神論の調査』文部省思想局、昭和10年11月、思想調査資料特輯。 
 
[3] 社会教育研究所刊の『日本精神研究』は講義の順序に従い、「横井小楠の思想及信仰」(第一)、「佐藤信淵の理想国家」(第二)、「平民の教師石田梅厳」(第三)、「純情の人平野二郎国臣」(第四)、「剣の人宮本武蔵」(第五)、「近代日本の創設者織田信長」(第六)。「上杉鷹山の政道」(第七)、「戦へる僧上杉謙信」(第八)、「頼朝の事業及び人格」(第九)の9巻からなっている。これは単行本『日本精神研究』の目次をなすものである。 
 
[4] 大川は満川亀太郎らとともに大正8(1919)年8月に、「中原還また鹿を逐い、筆を投じて戎軒じゅうけん(軍事)を事とす、縦横の計就らざれども、慷慨の志猶存す」の気概をもって猶存社を結成した。日本国家改造の具体案をもつ北一輝を上海から呼び戻し、大川・満川とともに三位一体的組織を構成した。同人には鹿子木員信、安岡正篤、西田税らがいる。 
 
[5] 『大川周明全集』全7巻、大川周明全集刊行会、岩崎書店、1961−70。 
 
[6] 『大川全集』は『日本文明史』の結論のこの三章だけを第四巻の「時事論集」に収録している。 
 
 
子安宣邦 ( 近世日本思想史 大阪大学名誉教授 ) 
 
※本稿は子安氏のブログからの転載です。 
 
 
■子安宣邦さん 
  思想史家として近代日本の読み直しを進めながら、現代の諸問題についても積極的に発言している。東京、大阪、京都の市民講座で毎月、「論語」「仁斎・童子問」「歎異抄の近代」の講義をしている。近著『近代の超克とは何か』『和辻倫理学を読む』『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社) 
(子安氏のツイッターから) 
 
■子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ- 
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/49587022.html 
 
■大川周明と「日本精神」の呼び出し 2  〈大正〉を読む   子安宣邦 ( 近世日本思想史 大阪大学名誉教授 ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201604241637430 
 
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