2016年10月29日11時29分掲載  無料記事
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文化

核を詠う](特別篇2)『原爆歌集ながさき』を読む(2)「草鳴りに声あるごとし原子禍を二十年経し丘風過ぐるとき」 山崎芳彦

『原爆歌集ながさき』の作品を読みながら、改めて、原爆の投下による惨憺たる苦難の中で生き延びた被爆者の短歌作品を読むことの意味を考えないではいられない。長崎で被爆した秋月辰一郎医師はその著書『長崎原爆記―被爆医師の証言』(昭和41年、弘文堂刊)を、「この記録は、昭和二十年八月九日、長崎原爆投下以来、一ヵ年の地獄のような悲惨、医学と人間の無力さを、同じその被爆地にいて書き綴ったものである。その意味で、これは被爆医師である私の一年間にわたる原爆白書であるといえると思う。」と書き起こし、「この年の夏から秋にかけて、次から次へと身近な人びとの生命が奪われていった。そして重傷者の呻きのなかで辛うじて生き残った人は、焼けあとの石ころのように、虫けらのように生きなければならなかった。」と記している。秋月氏の短歌に「おそかりし終戦のみことのりわれよめば焦土の上の被爆者は哭く」(『昭和萬葉集』巻七に所収)がある。「おそかりし」を繰り返してはならないが、いま安倍政権の原子力政策をみるとき、核兵器、核発電とこの国の今を深く思わないではいられない。 
 
 秋月氏は医師として被爆者の治療に当たるとともに、「長崎の証言」運動をはじめ反核・平和運動に取り組み、国内外にわたる大きな足跡を残し2005年10月に89歳で亡くなられたのだが、原爆被爆後の生涯は核兵器の廃絶と平和の希求のために捧げられたと言える。その中で、1990年1月に起きた本島等長崎市長を狙った右翼暴漢による銃撃事件(本島市長が1988年12月の長崎市議会で「天皇にも戦争責任はある」と答弁したことに対する保守会派や右翼の非難・攻撃が続いたなかでの事件)についての秋月氏の毅然とした姿勢を、先に記した短歌作品とともに、筆者は感慨深く思う。 
 秋月氏はこの本島市長銃撃事件について、『ヒロシマ・ナガサキ通信』に寄稿して、「生命を抹殺して言論の自由を封じようとする行為は絶対に許されない。しかし、この動きは一昨年の本島市長の天皇の戦争責任の発言以来あったものである。それを防ぎえなかったことは、これまで『平和は長崎から』と運動してきたものとして無念である。私は今大きな悲しみにある。私の原爆体験を原点とする市民の平和運動も、ただ被害者意識のみ強調されすぎてきた憾(うら)みがある。長崎平和市民の中から起きた事件として、暴力への抗議と共に平和運動を新しく追求したい。」と書き、抗議集会や言論の自由を求める長崎大行進にも積極的に参加したという。(山下昭子著『改訂版 夏雲の丘―被爆医師・秋月辰一郎』、長崎新聞社刊 2006年7月再販より) 
 
 上記『夏草の丘』には秋月氏の随想がいくつか収載されているが、その一つに「私の中の原爆」(昭和59年7月30日)という文章がある。その中で秋月氏は、 
 「私の中の原爆というより、私にあっては、むしろ原爆の中の私である。あれから三十九年、私の周りの原爆の火は燃えたり消えたりする。…三十九年、原爆のあとの原子野の焼土に佇んで、人類の地獄、滅亡の相(すがた)を予感したヒロシマ、ナガサキの人々の悲しみは、いま世界の全体、未来の危機感になっている。/今ならまだ間に合うだろう。人間を救うことが、人間が積み重ねた文明を全滅から救うことが、人間の英知の存在を再び信ずることが、今ならまだ出来る。それは核兵器を廃絶しようと人間がお互いに努力することである。…抑止論や均衡論者に言いたい。/人間を地球上の人類の何回も全滅するほどの兵器、未来を抹殺するほどの兵器を、人々のすぐ傍に置かねば人間の平和が維持されないとしたら、その事が已に人間の否定であり、人類生存の恐怖である。」…と書いている。 
 
 しかし「今」、この国の政府は内政、外交ともに核の廃絶に背を向けているというしかない状況である。国連において核禁止条約の交渉を進めることに反対している国である。憲法九条下でも、(自衛のために)「核兵器であっても、それを保有すること、使用について禁止されているものではない」とする答弁書(逢坂衆院議員、他の質問主意書に対する)を閣議決定しているのだ。(平成28年4月1日付) 核発電の推進の地下水脈に、核兵器開発、製造の能力保持の意思が流れてもいる。 
 
 『原爆歌集ながさき』を読む前に、秋月辰一郎氏にかかわってのことを記したが、作品を読みながらの筆者の秋月氏へ思いの一端ではある。 
 
 前回に触れたが、『原爆歌集ながさき』には、同歌集の編集委員会による「編集委員として」の文章が記されている。そのほぼ全文を転載させていただく。この歌集の刊行に取り組んだ編集委員の方々の思いを、やはり記録しておくべきだと考えてのことである。 
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  *編集委員として* 
「八月九日の、長崎の悲劇は、呪われた大戦の終止符を告げる歴史的大事件である」ということですが被爆地長崎は広島同様、あまりにも大きすぎる代償を払ったわけです。 
 何十年たっても、あの悲惨さは忘れられることではありません。被爆後二十何年を経過した今、表面的には「原爆」それ自体は影をひそめています。しかし「原爆」はまだ生きているのです。 
 あの悲惨さをどうして忘れることができましょう。「人間の肉体は破壊できても、人間の魂は破壊できない」ともある人は言っていますが、人間の魂に食いこんだ原爆の惨禍は、事実その体験者には生涯忘れることのできないほどの強烈さで、鮮明に灼きつけられている。でもそれだけではいけないのです。 
 たとえ、その体験者が全部死に絶えたとしても、必ずそれを受け継ぐ者がでてきて、さらにその惨を叫び、その禁止に身を投じなければならないと思います。 
 そういう意味で、このたびの、原爆歌集[ながさき]の出版は大きな意義を持つものであって、これこそ「人間の魂はいかなる力をもってしても破壊することのできない」証左になると信じます。 
 したがってこの歌集一首一首に、作歌上の技術的な不備や不足のあるものがあったとしても、それは人間の魂を曇らす難点ではないと考えましたので編集委員会では全く筆を加えませんでした。 
 出泳者は一人十首を基準として、アイウエオ順に収め、五首以下の分は、編集の都合上、そのあとにならべました。 
 八十名以上の出詠者がありましたが、これが長崎の原爆に関する短歌全部だとは思っておりません。まだまだ、ほかにも作歌しておられる方もあられるとは思うのです。しかし、期間にも限度がありましたので、ここで線を引くことになりました。 
 (中略) 
 原爆歌集[ながさき]がたとえ小さな「ともしび」でありましょうとも、再び地上が原水爆で汚されないようにとの祈りをこめて原爆を生き残ったものの義務として編まれたものであることの真意をお汲み取り願って、本歌集の出版に当たって種々ご配慮いただいた方々に厚くお礼申し上げるとともに、ひとりでも多くの方々に読んでいただきたく、心からお願い申し上げる次第であります。 
 昭和四十二年七月             原爆歌集編集委員会一同 
 (編集委員 岩本喜十、大川益良、岡本吉郎、黒岩二郎、笹山筆野、下田晃業、瀬戸口千枝、藤原秀城、前川明人 50音順) 
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 前回に続いて作品を読み、記録する。 
 
 ◇クロスの山 大島武康 
火に灼けしマリヤの像に 風寒く 昏れせまり来る 浦上天主堂 
痛ましき 記憶もいつか 消えはてゝ 平和像めぐる 諸木々の青 
原爆の 祈りさゝぐる 静もりに 聞ゆるが如し 被災者の声 
新緑に 柔く囲まる 浦上は 原爆の跡 ゆくへも見えなん 
椅子により クロスの山を 見つめいる 乙女の腕の ケロイド哀れ 
鶴の港は 初夏の日射しに 照りわたり 八月の憤り 遠き想いよ 
原爆の焰絶えたる 幾年を 平和祈念像は強く空指す 
灼け古りし 野路の祠に 祈りいる 女の髪の毛 寒々そよぐ 
灼け錆びし ロザリオがある 資料室に 被爆乙女の 悲しみ徹る 
原爆の 記憶蘇る 学徒服 古びし色に 資料室の中 
 
 ◇長崎は燃ゆ 太田治左衛門 
まひる間を夕焼けさながら山の上の空赤々し「長崎は燃ゆ」と 
一瞬に家をも親もうしないし子の子らたちよ今日よりは孤児 
トラックにて避難し来るおさならの三十余名の生きたる瞳 
山の分校へ避難して住む子等たちに神父が持ち来し真白きパン 
あまりにも小さすぎるみなし子なり笑えば吾は涙がいづる 
避難せし分校教室の教壇にて死にし子のあり父母はなく 
収容せし孤児らをひとりひとりたしかめて己が子はなし夫婦は去りし 
子らは残し父母殺す残虐もいとかんたんに戦争は犯す 
 
 ◇原爆病院 太田みね 
大君ときさいの宮のベッドちかく立ちていますは夢にはあらず 
命あればかかる日もあり病床にすめろぎのみ声ちかく聞きつる 
病床に原爆患者が手すさびのオランダ船の美しき出来 
幾年か病床にある軽症の患者がつくりし水引細工 
すすむとも癒ゆるともなく病院をわが家の如く住める患者ら 
病院の夕べはいとど淋しとて足なえし人はしづむ日を見る 
人なみの働きする日はこぬといふ患者らの末思ひなげかゆ 
夜汽車にてつきしふるさと原爆落ちし浦上附近の無気味なる闇 
原爆の災まぬかれし郷愁の目ぬき通りをまさ目にぞ見る 
ふるさとの焦土ゆすでに青きもの芽ばゆときけば心あかるし 
 
 ◇子を負ひて 大塚初枝 
阿鼻の状態目に浮かべきて二十余年吾等の心なほやすらはず 
爆死せし弟地下に眠りゐて核実験つづける国憎みゐむ 
爆弾の性能も知らず体内の臓器とけるを赤痢と思ひき 
息絶えるその刹那まで爆弾の性能問ひつつ逝きし弟 
原爆投下と知らねばあの日子を負ひて路上にありて機を見上げ居し 
一すじに願ふ祈りはとどかぬか核兵器保有の国ふゆるのみ 
廿年の歳月は澱まず流るれど心に残る傷痕深し 
薄氷を踏む思ひにて生きゆかむ上半身にケロイドを持ち 
水欲りてこの川に死にし人いくばくぞ今宵万灯は静かに流るる 
被爆者検診異状なきこと告げられて風つよき公園の坂下りゆく 
 
 ◇寒き真昼間 大塚嘉子 
被爆者の夫と吾とが並びゐて採血されをり寒き真昼間 
要精密のしるしを事もなく囲み被爆者手帳が我が手に返る 
放射能に侵されし内臓が溶け出でて死にゆく恐怖を目の前に見き 
被爆後の廿一年ケロイドの癒ゆるなく夫の横顔寂し 
上半身のケロイド赤く浮き上り酔ひて来し夜の夫は寂しき 
手術あとの創ケロイドとなりゆけりまぎれなく吾れも被爆者にして 
原爆の恐怖まざまざと蘇へる真紅のカンナ咲く頃となり 
原爆の日の近づきし浦上の丘に群れつつ鳩飛びてゆく 
帰り来て被爆者検診の無事なるを夫告げてより心安らぐ 
一瞬に数多の生命消えゆきし浦上の地にひびく鐘の音 
 
 ◇原爆二十年 岡本吉郎 
まなぶたに赤と黒との十字架のこもごも顕ち来遠きサイレン 
黙禱はわれらの力十一時二分の太陽を真向に浴び 
草鳴りに声あるごとし原子禍を二十年経し丘風過ぐるとき 
終止符をうつおもひして原爆症検針票に妻の名記す 
子を抱きし腕の汗拭く若き母いたはるごとくケロイドを圧(お)す 
原子野にミサの鐘鳴り傍へなる浦上川のせせらぎに交ふ 
原子弾落下柱の建つ原を子等は駈けをり大き声して 
ケロイドの頬すりよせて犬を抱く乙女は結句の惑ひ問ひきつ 
棚雲の上より覗く眼あるごと思ひして原爆忌の香供えをり 
隣国の水爆成功祝ぐ人ら党組みて原爆の霊に額づく 
 
 ◇運命の日 岡本閑子 
入学の折七クラスの同窓生卒業の時は五クラスなりき 
工場に出て助かりし友家にいて助かりし友運命を思いき 
一家全滅ただひとり生き残りしという級友(とも)は原爆の日より今だに会えず 
黙すれど傷の深さよ十年余浦上の地を踏まずと聞きし 
二十余年へてきし今も十一時のサイレンきけばこみあぐるもの 
気がつけば仕上げ場は床ごと傾きて地に這う四十段階段が目の下に見ゆ 
バイス台に腕はさまれて逃げられず煙にまかれて死にし級友あり 
助けんとするひとに母への伝言をたのみて死にし友は十五才 
母ひとり子ひとりの級友がかたみにと母にことづけしくさりを見たり 
刀あれば腕を断ちても連れ帰り助けたかりしと生きしは言ひき 
 
 ◇小山誉美 
黒焦げの女が壁にへばりつき悪獣めきし血を滴らす 
幼き手を抱きし象(かたち)ばらばらの骨の中にて見らねばならぬ 
わが後に従きくる女(ひと)は怨霊のごとかり焦げし襤褸を靡かせ 
夏極む空ゆらゆらに耀きて焼け焦げし木ら磔に似る 
黒焦げの屍越えゆけど逢ふ人なし逢ひなば哭かむのみなる焦土 
被爆瓦泡だちしるく寒々とわが掌にありてもの言ひたげに 
総懺悔などと美辞もつ過去がありて原爆死すら言へざりき 日本 
平和像の右手が指せる雲のゆき迅ければかの日そのままにせり 
崩え残る廃墟の御堂素気もなく見するは誰と誰の犠牲か 
死の灰のいつ降るとなき峡の空憎きまでに蒼し杳(はるか)いつまで 
 
 ◇焔の泡 落合 敬 
木切れあつめ橋下に少女の骸焼きし夜のせせらぎを今も忘れず 
燃ゆる火を墓場にのがれ土の上に子を寝かしめし母吾れなりき 
この川に業火のがれむと人も馬も焔の泡の中に沈みし 
原爆落下三日目の街人も馬も生きしままなる木炭のごと 
夫と子の在りし日顕ちて流灯に離りゆく愛のともしびを入る 
幼き子被爆のがれし夜の墓地に大き声して星かぞへたり 
朱の小花観音竹に咲くをみし被爆の日より心寄せつつ 
うとましき原爆忌きぬ墓に寝て業火燃えさかる街に泣きたる 
原爆は許されまじと検診の暑き病院に靴ぬぎ座る 
まことかと疑ひもちて長浦の浜辺に赫き十五夜をみし 
 
 ◇白血球 角川すみ子 
双の掌に象るがにも想ひ出づ齢十九にて逝きし弟 
追憶の中にては齢ゆかぬ子よ悲しみ癒えねばまたも言ひ出づ 
憤り何処に向けむ生きてあらば妻子もあらむを原爆に死にき 
校地内に慰霊碑二つ立たしめて夏草は彼の日の如く生ひたり (八月九日) 
この丘に幾千の人死にたりや朽ちし水面は夏陽映さず 
基礎医学校舎がありし丘の上寒々と夕の風が荒れ居り 
轟きて特車幾台もゆきし音澱(おり)のごと一日心に残る 
生々しく甦るおもひ振り捨てむと特車見ゆる窓固く閉しぬ 
憤りいまだ消えぬに戦を肯ふがあり戦を知らず 
白血球の数減りし妹をその夫を言ひ結局は戦に及ぶ 
 
 ◇爆薬 久間一人 
人を一人殺せば罪の重き世に数十万を焼き殺したり 
戦略に如何なる訳のあらふとも大量殺人と何も変らぬ 
人ひとり創り出しえぬくせにして狂えば市民を焼きて亡ぼす 
人類を守りきれない爆薬を科学の粋と我も思はぬ 
核保有国先進国のごと増えぬ長崎市民の我が腹の立つ 
原爆に焼きはらはれし浦上に我れ住みつきて蜜蜂を売る 
原爆に焼けたる砂を水にさらし日本春蘭を我は培ふ 
原爆にただれし鉢を捨てきれずサボテンの純白な花を咲かす 
原爆公園の雨に濡れたる敷石をせきれいは静かに歩みくるなり 
浦上の丘に家屋建ち込みて友逝きし坂は時静かなり 
 
 ◇限りなき声 久間たけの 
原爆の烈しき光に包まれて魂は抜け逃げ場を探す 
食物を探しにくれば炊事場の床板はみな飛び散りてをり 
床の下に落ちたる飯と梅干を拾ひ食べて防空壕へ走る 
燃えさかる街より帰りくる人等黒く焼けて見るかげもなし 
隣家の子供を探し街にきて焼け伏す人等に袖を千切らる 
原爆に焼けたる人等重なりて助け呼ぶ声限りなく続く 
浦上の友の住居に飲み食はず漸く着きぬ夜の八時に 
友は死せり夫と共に玄関に悲惨な姿我は悲しむ 
友を探し悲鳴の中を歩きしが彼の日の悲鳴が今も聞こゆる 
浦上は復興せしが我が友の焼けて死にたるこの丘悲し 
 
 次回も『原爆歌集ながさき』を読み継いでゆく。    (つづく) 


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