2016年12月31日20時57分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(特別篇2)『原爆歌集ながさき』を読む(7)「ケロイドを人に晒して叫ばねば平和忘れる乾きたる国」   山崎芳彦

 「かつて、やはり長崎で被爆した林京子の『ギヤマン・ビードロ』を読んで、原爆体験が文学表現に結晶するまでに三十余年の時間が必要だった意味を納得させられた。原爆被爆者は、被爆を思い出とすることはできない。原爆は被爆の時から被爆者の体内に棲みつき、彼や彼女が生きる限り原爆もまた生き続けるからである。思い出とはならない体験。思い出ならば美化されてゆくこともあろうし、また、風化してゆくこともあるだろう。だが原爆被爆の体験は、美化とも風化とも無縁にひたすら深化されてゆくのみである。時間とは、そこでは深度なのであった。」(佐佐木幸綱、竹山広第一歌集『とこしへの川』の「竹山広論 序にかえて」より 『竹山広全歌集』2001年刊に拠る) 
 
 『原爆歌集ながさき』を読むのは今回が最後になるが、この歌集を読みながら、筆者は長崎の歌人・竹山広の歌集『とこしへの川』(『竹山広全歌集』2001年版に所収、『とこしへの川』は1981年に刊行されている。)を読み返し、同歌集に寄せた佐佐木幸綱氏の序文に強い印象を改めて受けた。佐佐木氏は竹山広歌集『とこしへの川』について述べているのだが、『原爆歌集ながさき』の作品にも相通じるところがあると筆者は思うのである。あくまでも筆者の感想であり、佐佐木氏の竹山広論の本旨だというのではないが、原爆が人間にとってどのようなものであるのか、被爆者の苦しみの本質を確かにとらえた佐々木氏の言葉に共感を改めて強く持ったということである。 
 佐佐木幸綱はこの文章のなかで『とこしへの川』から多くの作品を抽いて、竹山広論を展開しているが、抽かれている作品の何首かを筆者の独断で記したい。 
○かの日わが頭上に立ちし原子雲の外景をけふ仰がむと来つ 
○爆央の渦暗紅の雲となるその刻刻の地(つち)を見しめよ 
○死の前の水わが手より飲みしこと飲ましめしことひとつかがやく 
○追ひ縋りくる死者生者この川に残しつづけてながきこの世ぞ 
○くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川 
○あはれかの炎天の下燃えしぶる肉塊として記憶するのみ 
○人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら 
○言ひ残しゆきし名ひとつ平穏に忘れむことも宥したまはず 
○被爆二世といふ苛責なき己が呼名わが末の子のいまだ知らずも 
○貧血のみなもと突きとめむにも思ひはかへるわれは被爆者 
○原爆の歌いくつわがよひよひに苦しみ詠めば賞め給ふなり 
 
 竹山広の第一歌集となる「とこしへの川』が刊行されたのは、1981年8月で竹山さんは61歳である。竹山さんは25歳の1945年に長崎市で原爆に被爆し、惨憺たる状態の中をさまよい、被爆した兄を看取ったという。そしてすぐに歌を作ろうとしたが被爆死した人々、傷ついて苦しむ人々一人一人の顔が浮かび、夜も眠れず、詠うこともできず、以後十年沈黙せざるを得なかったこと、1955年には大喀血をして入院したがストレプトマイシンの大量投与などにより死を免れ、その年から作歌を再開してかつて夢に脅かされ作り得なかった原爆詠を作ったことを述懐している(角川書店刊月刊歌誌「短歌」平成十八年八月号)。 
 『とこしへの川』の「まえがき」には「本集には昭和三十年から五十九年に至る作品の中から、四百九十五首を抄出し収録した。…敗戦直後から昭和三十九年春までの十九年間を、私は生れ故郷である長崎県北部の田舎町で、原爆に生きのびた代償のやうにつきまとふ病魔と貧困に苦しみながら過ごした。…頭上に原爆の閃光を見てから三十六年の歳月が過ぎた。美しく復興した長崎の街々に原爆の残滓は何ひとつない。観光の人群に賑はふこの街で、三十六年前のあの凄まじい炎の日を歌ふことは、癒え去った傷痕をひけらかすこけおどしの類と思はれる虞れさへなしとしない。今日なぜ原爆かといふ問ひに答へることは容易であらう。しかし、いま私の願ひは、自らの作品自体がそのやうな問ひかけを宥さないことである。歌集名の『とこしへの川』は『くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川』の結句からとった。忘れられゆくあの日の死者たちへの鎮魂の祈りをこめてのことである。」と書かれている。竹山さんは、この第一歌集に始まり第十歌集までを遺して、2010年3月に享年九十で逝った。 
 
 話は一変するが、筆者は今から50年近く前に、広島の原爆被爆者を取材してつたないルポルタージュを書いたことがあった。その時の取材メモに「原爆は瞬時に大量殺戮、破壊しただけでなく、いまも生き延びた人びとの中で爆発し続けている。」と記したことを思いだして、古びた掲載誌を読んだが、そこには「たしかにその一発の広島への投下が二十数万の人の生命を奪い去った威力は、原爆以前のいかなる兵器も持たぬものであった。しかし、その残虐さのより深刻な特徴は、生き残った被爆者、残留放射能を浴びた二次被爆者、そしてその子どもたちにまで、いつ"爆発"するかもしれぬ"原爆"を背負わせたことにあるのではなかろうか。その"原爆"はいまもなお"爆発"をつづけている。」と書いてあった。この取材の日々に多くの人々と会い、被爆二世の高校生の死を知らされたり、さまざまな体験をしたことを、鮮明に思い起す。いま数えてみると、これを書いたのは、『原爆歌集ながさき』が発行された2年後のことだったが、同歌集があることも知らなかった。短歌とは無縁の筆者であった。『歌集廣島』さへ知らなかった。 
 
 私事を記しながら、もうひとつのことを思い出した。筆者が中学三年生のとき、農村の小さな学校であったが、運動会のプログラムにクラス別の仮装大会があり、級友に図って「原爆反対」と題して原爆被爆者(記録写真を参考にした)に扮して校庭を行列行進したことがあった。確か、アメリカのビキニ環礁における水爆実験が大きな問題になっていた時代だった。田舎の小さな中学校の運動会で生徒が自分たちでこのような企画をすることが出来たのだった。教師からも父母たちからも非難されることはなかった。 
原水爆禁止署名運動が広がりはじめたころだったが、いま年表を繰ってみると、日本政府が突然原子力予算(原子炉構築補助費)を計上した年でもあった。この年から60年を過ぎて今、筆者は『原爆歌集ながさき』を読んでいる。アメリカのトランプ次期大統領がツイッターで「米国は核能力を大いに強化・拡大する必要がある。」と述べ、また日本の安倍政府が12月23日の国連総会本会議で、核兵器を法的に禁止する「核兵器禁止条約」について来年3月から交渉を始めるとする決議に反対するという愚挙を行っている今である。 
 
 ひどくまとまりのない筆者の記憶について記してしまった。お許しを願いながら、今回が最後になる『原爆歌集ながさき』の作品を読み、記録させていただく。 
 
 ◇悲しみの天使 横田英子 
滄浪と山に入りしを見しとのみ被爆K教授のその後を知らず 
被爆せし面輪ひっそりと立つ像の「悲しみの天使」よ永久に訴ふ 
信じ合ふ友尽く爆死しぬ仮借なき笞夫にも降りて 
がらんどうの廃墟の学舎友も亡せし大学に夫ふたたび還る 
白血症とおぼしき蒼白の顔せるは清き若者ゆゑに傷まし (長崎原爆病院にて) 
寡婦として堪へし年月に研がれしや原爆への怒りを君すでに云はず 
被爆後の二十年は如何に長かりし、ケロイドの烙印に君よく堪へて 
後絶たぬ後遺症治療に取り組める夫ゆゑとりわけ原爆をにくむ 
原爆の無慙何にて証さむか落下の地ただ標柱一基 
夏雲は彼の日の如く輝けど永久に憶はむ八月九日 
 
 ◇クルスの光 故 阿多純義 
水爆への憎しみ越えて祈るとふケロイドの乙女のクルス光りて 
 
 ◇原爆忌 有浦 卓 
あの日より二年めぐり今日今をしのびて手向く 標(しるし)立つ地に 
すざまじき日はめぐりきて十一時五分すべては黙し 霊を 弔う 
十一時五分 ああ忽ちにしてあたらしき生命 散らしし 同胞(とも)数あまた 
原爆のもなかの標 立つ丘に簡易住宅 並みて建ちけり 
あはれにも八・九あの日のあつき日にいためる姿 見るも かなしき 
 
 ◇茸雲 池田敏起 
一瞬を苦しみまししかあほむけの姿勢に焼けし父と母の骨 
屋根瓦の表一瞬に熔けし跡この熱のため死にたる父母よ 
放射能が犯せし硝子のインク壺うすくれなゐの色に融けゐつ 
茸雲に似たる白雲動かぬに亡き父母の顔まざまざとたつ 
健康に吾は生きつつ父母が爆死せし地帯を見つめて居たり 
 
 ◇平和 岩崎美瑳子 
ケロイドをうち深く抱き祈りゐる人らせばめてあゝ赤旗たつ 
人間の言葉少く「平和」とただに刻めり「あの子らの碑」よ 
救急車のサイレン遠く鳴り止まず被爆の丘のあつきたそがれ 
 
 ◇原爆のあと 植木 孟 
原爆の爆(は)ぜたる直下花垂りて百日紅は悲願のごとく 
ケロイドを人に晒して叫ばねば平和忘れたる乾きたる国 
 
 ◇被爆 大倉一郎 
三山の谷の川瀬に身を洗ひ青柿みのる家にかへれり (被爆して) 
焼場でる時津街道山峡を越えてつづけり長崎の町 
 
 ◇吾の一生 田平栄子 
原爆にて吾の一生をつくりたるあやまちおほきこの二十年間 
 
 ◇人体の一部 椿山登美子 
冬になればひび割れやすしケロイドの手をさすりつつさりげなき友 
人体の一部なまなまと保存され人佇たしむる被爆資料室 
南京黄櫨紅葉づる道を下るなり被爆資料館見めぐりて来て 
花かげの酔歌さびし日見遠く被爆聖像立ち給ふ園 
桜咲く原爆落下中心地に酔ひ痴れ歌のこゑの寂しさ 
 
 ◇姉の遺品 原 鶴 
被爆死の姉の遺品に語りつつ縫い目美しき羽織を解きぬ 
被爆の日ともに遁がれし白猫が梅雨の半ば遂に帰らず 
 
 ◇原子野の緑 深川鶴子 
ケロイドの人に会ふも稀れとなりぬ長崎に住みて十七年の歳月 
妻子逝かしめ老いの身に孫ら生(おお)したる翁の顔の清く尊し 
原子野を緑覆ひて家満ちぬつつましき倖よ続け明日の日も 
 
 ◇亀裂 故 松本令子 
天主堂に来りて想ひ新たなり亀裂の間(あひ)の青空の色 
 
 ◇白道(びゃくどう) 山下辰子 
原爆に死せずと生きて焦熱の原爆忌来る忘ろうべしや 
生死超え思うは悲しひよわなる人体に原爆が落ちしそのこと 
胸えぐるおもいにチャイム鳴り渡る浦上の空夕映えもせず 
ひょうひょうと白道(びゃくどう)を求(と)め生き来しと言い切れず寂し死を前に我は 
首折りてうなだれている我にしも平和を祈る願い一すじ 
 
 ◇原爆詠 島内八郎 
うごめかむ気力なきゆゑコンクリの床にたひらに臥す被爆者八百 (山里小学校二首) 
泣き呪ふ人ら看とりつつ明け近し蚊も蠅もゐぬ虚無の如き夜 
水飲まばこと切れむものを馳け通る吾に必死に乞ふ八万の声 
ひらめきに羽焼け失せし鳶佇きと遁れ来し男つけ加へ言ふ 
原爆に焼くる街家の火の中になほ落としたる焼夷弾の光 
きのふのごと自然は朝日掲げたり一瞬に緑奪はれし山に 
安らぎて救護に励まむ今は早襲ふ価値なきこの廃墟ゆゑ 
大悪は罪無きに似たり一瞬に命絶たれし無辜の市民一万五千人 (即死) 
長崎市街地獄絵なして燃えつぐを夜は丘の墓地にひそみ見下す 
打水にも光沢顕たぬ庭石に対ひをり原爆は石も殺しぬ 
 
 ◇長崎市立高女合同慰霊祭(長歌) 須田伊波穂 
 学徒とふ誇り匂はし 眉あげて職場職場に いそしみし事や空しき 励ませし事ぞ甲斐なし。にほひづる花のかんばせ あやなせる襷千切れて ぬばたまの黒髪すらも ちりぢりに哀れをとめて むくろなす噫学徒群。 
 い照る陽の八月九日 夏雲の白雲がくり 飛行機の爆音ありと うち仰ぐ瞳射すくめ ピカリとし光る閃光 すはこそと面うち伏せ 諸手もて塞げる耳を圧し揺りて グワンと轟音。 渦巻きて起こる旋風。一瞬に機構は崩れ 生けるものの息の根止めて ありとある物ぞ焼けつつ 詩の都長崎あはれ。 
 くねくねの鉄柱蔭ゆ 焼板のくすぼる下ゆ 凄じき瓦礫搔き除け うち嵩むむくろが中ゆ 救ひ出(で)しあまた女生徒つぎつぎに果ててゆきたる。 はらからの看護(みとり)受けつつこと切れし人もありけむ。 更に又行衛も知れず運ばれて命終りし子もあらむ 吾子の如くに。 
 うら若く花の蕾の か弱なるをみな子ゆゑに いまはなる様ぞ思ほゆ。絶えだえの息をあつめて 声かぎり母を呼びけむ。 父われを求めやしけむ。咽喉(のど)涸れて水や欲りつつ かにかくにこと切れけむと 親ごころ想ひ切なく 不憫さや限り知られず。 
 今日ぞその合同慰霊祭。在りし日の子の学校(まなびや)に 華やぎて並ぶ子見れば 相睦み語らふ聞けば いづべにも交らぬ吾子の 影追ひて泪湧き出づ 分ちたる同じき運命(さだめ) その父母の歎きも吾に移し歎くも。 
 
 反歌 
なきがらも見せず終りし娘ゆゑ心の隅にあきらめがたし 
何処(どこ)からか生きてひよつこり来る如き錯覚に居て今日も暮れたる 
淋しがりの娘なりしが梟鳴くこの月の夜を何処に泣くらむ 
畑苞(はたけづと)わが持つ茄子の美事さをよろこびしこゑ猶耳にあり 
原爆に姿とどめず果てし娘のなきがらとせむ細き臍の緒 
 
 ◇原子雲抄 故 松本松五郎 
  (八月九日唐八景山上) 
閃光・轟音のむた勃発の弾雲膨脹しつつかがやきわたる 
おそれつつ仰天すれば白光の聳ゆる雲となりにけるかも 
山のごとき爆雲うごき煌々と海港都市にのしかかる 
光景やたどきは知らずしかも思ふ軍事工場の女学徒隊の上 
にぎやかに修羅は過ぎたるごとも見ゆ長崎市街ころがりながら 


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