2017年08月06日15時07分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(240)『昭和萬葉集』から原子力詠を読む(5)「この年もものぐるほしくなりにけり八月の空夏雲のたつ」山崎芳彦

 今回読むのは『昭和萬葉集』の巻十四(昭和39年〜42年、1964〜1967年)、巻十五(昭和43年〜44年、1968〜1969年)の原子力詠だが、1950年代から後半から激しさを増したアメリカ、旧ソ連、イギリスの核実験競争が、大気圏内実験から地下核実験へと形を変えながら続き、さらにフランス、中国も核保有国として名乗りを上げた時期でもあった。同時に、東西対立の中であわやと思わせる核戦争の危機もあり、アメリカ、旧ソ連による核兵器のそれぞれの陣営各国への配備がおこなわれた。日本について言えば、アメリカは米軍統治下にあった沖縄への核ミサイル配備など「沖縄の核基地化」、日米安保条約の下での核を積んだ艦船、原子力潜水艦の寄港、通過を実質的に自由に行うことを認める核密約を結ぶなどアメリカの核戦争政策・態勢への協力をすすめた。広島・長崎・第五福竜丸をはじめとする日本漁船のビキニにおける被爆を経験したこの国では、原水爆禁止運動、原子力潜水艦の寄港反対闘争が高まり、複雑な、政治勢力間の対立・矛盾・分裂による困難の中でも「核戦争反対・原水爆禁止」の声はやまなかった。巻十四、巻十五に収録された原子力詠に示されている。 
 
 しかし、兵器としての核に対する世論の高まり、運動の展開がある中でも、「原子力の平和利用」、その中心としての原子力発電の導入に向けての政治的・経済的な動き、具体化が進んでいたことへの危惧、危機感は少なく、「原子力は平和のために」キャンペーンが、1950年代後半から保守・革新を問わず「原子力の平和利用」歓迎の宣伝とともに強まり、1960年代に入ると日本では原子力発電の急速な拡大の準備が進められた。1953年12月のアメリカのアイゼンハウアー大統領による国連総会での[平和利用のためのアトムズ・フォア・ピース]演説以後の動きを振り返ると、1954年・保守三党(自由党、改進党、日本自由党)提案の原子力予算案成立、1956年・原子力委員会(正力松太郎委員長)発足、原子力産業会議設立、科学技術庁発足、日本原子力研究所(原研)発足、1957年・原研の研究炉が臨界(日本で初の「原子の火」)、日本原子力発電(原電)発足、1962年国産原子炉第1号(原研の研究炉)臨界、1965年・日本の商業炉第1号の原電東海1号機が初発電、1967年・動力炉・核燃料開発事業団(動燃)発足(原子燃料会社が母体)…そして1970年代に入ると次々と原発の営業運転開始が急ピッチで進むのである。 
 
 このような日本の原子力発電導入について、『原子力と冷戦 日本とアジアの原発導入』(加藤哲郎・井川充雄編 花伝社、2013年3月刊)は精密な分析を多様な視点から論述しているが、同書の「あとがき」(加藤哲郎)から断片的に引用させていただく。筆者の勝手な引用であることをお断りしておきたい。 
 
 「2011年3月11日の東日本大震災、とりわけ福島第一原発事故は、20世紀日本の達成・歴史的遺産がいかなるものであったかについて、大きな問題を提起した。広島・長崎の原爆直後に敗戦を迎え、ビキニ水爆第五福竜丸被爆も経験して、『唯一の被爆国』と自称してきた国が、なにゆえに地震列島の上に54基もの原子力発電所を林立させてきたのか、海外から『ヒロシマからフクシマへ、なぜ?』と問われたように、もともと『核アレルギー』症状をもつと診断された国が、いつの間にか深く原子力エネルギーを取り込んで免疫を失い、『軍事利用』のみを『核』とよび、『原子力の平和利用』を当然としてきたのはなぜか、といった課題が浮上してきた。/本書は『ヒロシマからフクシマへ』の衝撃を受けて集った研究者たちの、ネットワーク型共同研究の所産である。」 
 
 「…『原子力への夢』から『平和利用』を歓迎したのは、日本ばかりでなく世界的な流れであった。世論において『核戦争反対・原水爆禁止』と『平和利用の原発歓迎』が両立したのも、世界的な現象であった。日本の原発導入の特異性は、広島・長崎の原爆被害を10年前に体験していたにもかかわらず、また1954年にビキニ水爆実験の第五福竜丸被爆で『死の灰』が問題になっていたにもかかわらず、いやそうであるがゆえに、『原水爆禁止』と『原発歓迎』の感度が他国に比しても高かったこと、原水爆禁止の国民運動と『平和利用への熱狂』が同時並行で出発し長く共存したことである。」 
 
 「日本の原子力発電は、高度経済成長のエネルギー源として、1970年ごろから本格的に稼働する。この点ではフクシマ以降、田中角栄内閣期1973年の電源三法による原発立地への補助金散布による供給地・需要地関係がクローズアップされているが、本書の視角からすると、1957年岸信介内閣における『自衛権の範囲内であれば核保有も可能である』という憲法解釈を背景に、佐藤栄作首相のもとでの核四政策(非核三原則、核兵器廃絶・核軍縮、米国の『核の傘』下の抑止力、核エネルギーの平和利用)が重要になる。1964年米国原子力潜水艦シードラゴン佐世保寄港、66年東海発電所営業運転開始を機に、日本政府は『核アレルギー』払拭に乗り出した。内閣調査室・外務省・防衛庁などで、秘密裏に日本の核武装の可能性が本格的に検討された。…外務省外交政策企画委員会は、1969年9月25日付極秘文書『わが国の外交政策大綱』をとりまとめ、『当面核兵器は保有しないが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持し、これに対する掣肘を受けないよう配慮する』と、核政策における潜在的核兵器保有能力の保持、『フリーハンド』論を確認していた。『非核三原則』や沖縄返還核密約も、これを前提としていた。/そしてその同じ時期に、敦賀第一、美浜第一、福島第一などの本格的稼働が始まる。…核燃料サイクル政策が具体化したのも佐藤内閣期である。高速増殖炉など『平和利用』のためとして、1982年中曽根首相と米国レーガン大統領とで合意した日米原子力協定改定でプルトニウム大量保有の道が拓かれ、日本は今や原爆5000発を製造可能なプルトニウム大国、潜在的核保有国となった。」 
 
 「世界が3・11以降『フクシマの行方』に注目するのは、福島周辺の放射能汚染や日本のエネルギー政策についてばかりではない。21世紀に『核なき世界』を実現する上で、日本が『軍事利用』と『平和利用』の境界線上にあり、原爆と原発の双方を含む欧米からアジアへの核拡散の結節点になっているからである。」 
 
 長い引用をしてしまったし、それでも断片的で論者の意図を正確に伝えていないことをお詫びしたい。示唆に富む『原子力と冷戦』の各論考を読むことで、昭和萬葉集の原子力詠を読むうえでも、筆者にとって大変貴重な勉強をさせてもらったことをありがたく思っている。 
 
 『昭和万葉集』巻十四、巻十五の原子力詠を読んでいく。 
 
 ◇世界の中の日本◇(『昭和萬葉集巻十四』より) 
 ▼原潜寄港 
辞書になき言葉またひとつ載る新聞をつば飲みて見入る原潜の文字 
                        (石戸宏明) 
 
「入港を拒否せよ」塀に電柱にポスター貼られ原潜近づく 
                        (常葉ヨシ) 
 
騒立(さわだ)てる佐世保に向かふシードラゴン号をめぐりて白き波の勢(いきほ)ふ 
                        (山口槻子) 
 
幾度も画面に映す黒き影明日原潜の入港伝えて 
                        (前田道夫) 
 
原子力艦入港するともみあひて若きいくたりかが又も傷つく 
                        (中山さち子) 
 
病みて起てぬ妻残し行く動員に原潜憎しデモ隊憎し 
「原潜に所在を明示せよ」指令受け年末休暇に入る 
                        (2首 熊沢正一) 
 
原潜阻止何処に叫びてゐむ誕生日主なく祝ふ窓に雪降る 
                        (伊藤汐子) 
 
たかぶりて宵より夜半(よは)に語り止まぬ佐世保の三日は老を立たしむ 
                        (鈴江幸太郎) 
 
民の声無視して黒き原潜は佐世保に入りぬ雨降る中を 
                        (橋本清三) 
 
息つめて岬に立ちぬ原潜をむかへし潮は底見せず黝(くろ)し 
                        (森井正子) 
 
広々と白波立てて原潜ゆくを人もわれも息つめて見つ 
                        (源田多美子) 
 
つね貧しき反戦の歌シードラゴン出航の沖暗夜のごとく 
泊りこみの抗議に毛布運べるは女子学生ら階に行き交う 
「原潜阻止」に加わらぬ夜の君たちか疲れて教う疲れ学ぶに 
幾たりか卓にうつ伏す教室にシュプレヒコール夜の風に乗る 
                        (4首 近藤芳美) 
 
 ▼激動の中国(抄) 
蒸し暑く曇りし昼に中共の水爆実験のニュースを聞けり 
                        (牛窪又一) 
 
水爆を得しに勢(いきほ)う民衆の顔あらはなる写真措(お)きて立つ 
                        (佐野四郎) 
 
中共とソ連のあらそひにうれひあり今日も夕日は赤くしづみゆく 
                        (関 せん) 
 
 ◇戦後二十年◇(同) 
  ▼原爆の記憶 
静寂 無風無音ただ蝉のこゑそのときかの日の一瞬がある 
                        (佐藤 正) 
 
夜の更けをたぎつ湯釜よ被爆後のわれの耳鳴る耳のごとくに 
きのこ雲のぼりしかの日も暑かりきその日よりつづくわが耳鳴りは 
核停論争対立に項垂(うなだ)れて原爆症乳癌検査手術跡を見つむ 
                        (3首 正田篠枝) 
 
被爆者が左手あげて空に書く水と云ふ字をただに見たりき 
                        (脇水聖子) 
 
殺せとふ哀願の声耳にありトラックに乗せし幾人(いくたり)死にき 
                        (田中義昭) 
 
臭気充つ仮救護所にくばられし握飯一つむさぼりて食ふ 
                        (木下隆雄) 
 
原爆に火傷(やけど)せしどろどろの掌(たなごころ)トマト欲しいと子らいいて死す 
                        (楯石英子) 
 
原爆に焼けゆく街を父の骨ブリキの罐に入れて歩みし 
                        (小野裕子) 
 
天高くかかる銀河の美しさを爆後二日目の夜に仰ぎたり 
                        (山下寛治) 
 
石のうへ灼きつけられむ一瞬のひかりとおもひ子と並ぶ影 
                        (日比野義弘) 
 
原爆の死の影と同じ姿勢にて銀行の前に男バス待つ 
                        (大西敏子) 
 
原爆を子が受けし時刻ひくく鳴る鐘も素直にきく老いとなる 
                        (松岡敏夫) 
 
憎しみを祈りに変ふる二十年喪の列は原爆ドームに集ふ 
                        (今泉勇一) 
 
親子縁者なくせし隣り向ひ家悼みて今日は香を焚くなり 
                        (大野桂子) 
 
原爆のケロイド腕にきざみゐて従妹(いとこ)はひとりの過ぎゆきを負ふ 
                        (城野由利子) 
 
三月目で死の灰あびし胎児いま二十歳(はたち)となりて幼き絵を描く 
                        (橋之口登士子) 
 
被爆ののちのながき昨日に死にゆきし少女らの幻の薔薇なる恥骨 
                        (水落 博) 
 
放射能浴みし玲子もすこやかに働き吾に銭を呉るるも 
                        (宮本茂雄) 
 
十幾年ぶりかと思ふ原爆の傷あとの無き母を夢にみぬ 
                        (赤川昭子) 
 
太陽をおそれ生ききし二十年かの日原子の光浴びてより 
                        (土屋 覚) 
 
被爆者の語韻うとまし十九年手垢と厚み増すわがカルテ 
                        (小田富江) 
 
掌(て)のなかに熱ばむ被爆者手帳あり採血の順を待つのみに暑し 
                        (早川 桂) 
 
変形をしたるガラスに焦げつきて跡をとどめしあはれ人の手 
                        (古賀 雅) 
 
焼け瓦に人骨混り固まれり原爆資料館のケースにありて 
                        (影山正子) 
 
長崎に 原爆の洗礼あたへしは キリスト教徒なりしを 忘れじ 
                        (栗栖昂庵) 
 
神々は抽象にして裁かねばクリスマスの島死灰浴びつつ 
                        (武田露二) 
 
万という流燈あわれひろしまの沖にながれてはてて声なし 
流燈の群れさまよえば焼けただれ川を埋めてありしまぼろし 
                        (田邊耕一郎) 
 
この年もものぐるほしくなりにけり八月の空夏雲のたつ 
                        (秋月辰一郎) 
 
 ◇昭和元禄◇(『昭和萬葉集巻十五』から) 
 ▼沖縄で(抄) 
B52・原潜阻止のバッヂ胸に修学旅行生本土へとたつ 
                        (古宮芙素) 
 
鉄柵の網に覗けば原潜のデッキに立てる兵の眼と遇ふ 
原潜はいま発(た)ちゆくと那覇港に土嚢の如き重き波生まる 
「B52撤去」と書かれしプレートを胸につけつつ首席執務す 
                        (2首 (阿波根昌輔) 
 
なんの鳥か沖縄の鳥は B52にあふられて 石藪をひくくとぶ 
                        (金子きみ) 
 
 ◇ベトナム戦争と国民◇(同) 
 ▼エンタープライズ阻止(抄) 
警棒の痛さ知りゐるわが夫と視てゐるテレビ声なくうごく 
                        (石川不二子) 
 
刻々に近づく艦のたくらみを深夜の床に怯(おび)えつつ寝る 
                        (長山不美男) 
 
傍観のわが泣きどころに触れてくるテレヴィにうつり撲(う)たるる青年 
                        (浜田陽子) 
 
警棒に打たれ倒るるわかものをいたましき日本の良心とせん 
                        (前田 透) 
 
ジグザグのデモくり返す学生をビルの屋上に米兵ら見る 
                        (新堂喬仁) 
 
〈佐世保橋〉きしむさまみゆわが未知に架けし論理のひとひらもみゆ 
                        (三枝昂之) 
 
されど明日へビラいくつもが飛んでゆく 佐世保橋をこそ越えゆけよ論 
                        (福島泰樹) 
 
風のまにまに青い兜の波さざめけば越すに越されぬ佐世保橋 
                        (佐佐木幸綱) 
 
〈原子力船寄港反対〉のプラカード掲げて迅(はや)きわれらの戦後 
棍棒を奪ひてわれもうたむとす人を撲つなと母は教へき 
たふれつつ噴き出づる血の鮮しさ若き論理を祖国はうてり 
                        (中川 昭) 
 
病院の玄関に追ひつめられし学生等警官と対決する悲しき佐世保 
                        (緒方作次良) 
 
角材もち学生に続かぬ我の老い戦争も核の恐怖も深く知りゐて 
                        (田代俊夫) 
 
命かけて佐世保にむかふ級友にわが子の心揺れてあるらし 
                        (桑原廉靖) 
 
折目なきズボンの一つが残されてエンプラ阻止を叫び行きし子 
                        (谷口初子) 
 
朝のテレビにまざまざと見つエンタープライズ滑るごとく港に入りくるさまを 
                        (西  賢) 
 
行動を思想として見よといひ傷つきて三たび佐世保へ行けり 
                        (江嶋寿雄) 
 
アメリカの空母浮きゐる水清き佐世保湾頭はニッポンのもの 
                        (金子清明) 
 
 (『昭和萬葉集巻十五』の脚注には、エンタープライズについて「高性能・高速の飛行機をより多く搭載するとともに燃料補給・航続力の観点から空母護衛艦ともども原子力推進を図るため、米国は1961年秋原子力空母エンタープライズを完成させ、原子力推進の軍事的効果を実証した。」〈筆者要約〉と記している。 
 また「佐世保闘争」として「米原子力空母エンタープライズの佐世保入港にあたって、日本社会党、日本共産党、総評、全学連などの組織は全国ではげしい入港阻止または反対の運動を展開した。佐世保では昭和43年1月15日から社会党・総評系の組織、共産党系の組織をはじめ、公明、民社各党、反代々木系全学連など警察側の資料で延べ約6万5000人が動員された。反代々木系全学連は全国から動員を行ない、約4000人が基地周辺で警官隊と衝突をくり返した。17日には平瀬橋〈佐世保橋〉周辺で衝突がおこったが、このとき警官隊は催涙ガス液を大量に放水したため、近くの市民病院に被害が及んだ。また警察官が一般市民や報道関係者などにも警棒で攻勢をかけ多数の負傷者を出し、過剰警備として問題となった。」〈筆者要約〉とも記している。) 
 
 ◇戦争の傷跡◇(同) 
 ▼被爆の記憶 
足も趾(あしゆび)も生きのさながら原爆に焦げし嬰児を瓶に収むる 
                        (江嶋寿雄) 
 
子を負いて逃れし被爆の街の空今なお赤く眼裏(まなうら)に燃ゆ 
                        (中嶋喜代子) 
 
爆裂に児を死なしめし壕の跡風吹けばつよく夏草匂ふ 
                        (田中米子) 
 
鬼となりて歩みたりしぞ神谷町相老橋土橋(かみやちやうあひおひばしどばし)白炎のなか 
二十年かにかく生きて原爆を使ひ得ぬ戦(いくさ)われ傍観す 
                        (2首 吉田三郎) 
 
年を経て消し難き原爆の恐怖あり雲なき空より光る幻覚 
原爆に焼けしかぼちやもむさぼりて食ひつつ我の生き来し記憶 
とどろける炎に降りつぐ黒き雨傷つきて吾はいく時を経し 
                        (3首 竹内一作) 
 
原爆のあとの堅き芋掘りてたべ白血病怖れ過ぎし二十二年 
                        (高松知佐子) 
 
原爆に傷つき病みて死ぬるまで書きし幾万の南無阿弥陀仏 
                        (守護待人) 
 
原爆特別手帳掌の上に黄にありこれみにたよるたよる日も来む 
                        (秦 美穂) 
 
原爆者手帳受けぬまま日々衰へて病名きまらず死にてゆきたり 
                        (堀 敏夫) 
 
焼跡のわが家へ向ひ這ひゐしと原爆に死にし姉を伝ふる 
                        (赤川昭子) 
 
爆死せる姉に代りて給料を受けし日の悲しみ甦るなり 
                        (平田品江) 
 
(この項には『原爆歌集ながさき』の16首が採録されているが、この連載で同歌集の全作品を読んでいる〈特別編2〉ので、省略した。筆者) 
 
 ▼原爆の傷跡 
原爆投下されて二時間後に降りしといふ雨滴(うてき)の跡が壁に真黒し 
一瞬に眼鏡のふちの焼けおちしを訴へてケロイドの人形が立つ 
                        (2首 宮坂万次) 
 
原爆にあとかたもなき医科大学吾が子が骨も拾ふすべなし 
                        (樋口美登) 
 
その朝を出でて帰らぬ面かげの幼きままに来る原爆忌 
めぐり来る忌は年々に早くして遺骨なき汝(なれ)の墓に詣づる 
                        (松尾富雄) 
 
わが内耳溶かさん夜々の 響きとも こころしずめ聴く 冬弥撒(ふゆミサ)の鐘 
                        (豊田清史) 
 
めぐり来し八月六日水を先ず捧ぐべし水は鎮魂の餐(さん) 
                        (吉田三郎) 
 
わが家のありたるあたり校舎のあたり返されし原爆のフィルムにみる 
講堂一杯にうづくまりゐし被爆者は写さず建物のみを写せり 
                        (2首 赤川昭子) 
 
原爆のあと帰るなきふるさとの夜の川映るに眼据ゑて見ぬ 
                        (石川一美) 
 
ただ黒く焼けはてし街長ながと白きは逝きやまぬあの太田川 
                        (白木 裕) 
 
原爆中心地この岡の町ひまはりの花には日毎蜜蜂が来る 
                        (久間一人) 
 
爆心地に妻死なしめし君とゐて宥(ゆる)さるべしや冬の明るさ 
鶏肉(がら)のやうなドームが冬を呼ぶあさかいのち消去(せうきよ)のあとの風吻(す)ふ 
                        (2首 生方たつゑ) 
 
 次回も『昭和萬葉集』から原子力詠を読み、記録していく。 (つづく) 


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