2017年08月31日10時44分掲載
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終わりなき水俣
「石川さゆりコンサート」顛末記 「私たちも出来っとば見せたか」 「若かった患者の会」事務局長 徳冨 一敏
「私たちもでくっとば、見せたか」会議の席での強い口調の一言だった。
7年前、歌手、石川さゆりを招(よ)ぶ若い患者の会の活動を追っかけたドキュメンタリー映画『わが街わが青春〜石川さゆり水俣熱唱〜』の上映会とその時かかわったメンバー7人(渡辺栄一さんは体調不良で欠席)とまだ存命だった原田正純先生、映画の助監督を務めた西山正啓監督らによるパネルディスカッションを開催した。その実行委員会(水俣ば生きる会)の席で冒頭の言葉は出た。日頃このような会議の席では発言しないメンバーの吐き出すかのようなこの言葉に勝手にいろんなことを考えてしまった。如何にその人にとって輝かしい思い出としてそのことが自信につながっていると感じるとともに、周りに対する憤りじゃないかと感じた。以前もそうであったろうし30年以上の時が過ぎ障害が重度化するにつれ、その時以上に周りから介助されることが多くなった。周りがいろんな手助けしてくれることは必要なことなのだが、それが過ぎると「あなたは、何も出来ないんだから……」と聞こえてしまう。そんなことを感じた。そして、このことが私の中で今回につながっていく。そして、もう一つこの会議中に私の携帯が鳴った。石川さゆりさんのマネージャーからだった。上映会をするうえで、なにかコメントをいただければと、みんなで手紙を書いた返事だった。「上映会の時は、博多座で公演中の中日で伺えそうです。ただ約束はできませんので周知はしないでください」との内容だった。みんな興奮したのは言うまでもない。実際に石川さんは、上映会の当日に訪れ一緒に映画をみて、メンバーや会場に来て下さった方にコメントし、休憩時間に当時のメンバー7人だけと交流をし記念写真を撮りそして、最後に「また、水俣で歌いたいですね」とコメントを残し帰って行かれた。この言葉が、くすぶっていた滝下昌文さんの思いにさらに火をつけることとなる。
発端は3年前の忘年会
2014年秋、ある日「滝下さんから、『もう一度石川さゆりのコンサートをしたい』と頼まれたのだが、館長どうにか実現できないだろうか」と、ある新聞社の水俣支局の記者が訪ねてきた。私自身も10年近く前から滝下さんから、しつこいくらいに言われていたことだったし友人としても何とかしたいとも思っていた。事実、数年前からそのころの上司と幾度となくその話をして、熊本県の方にも可能性を打診していた時でもあったので、つい、滝下さんだけじゃなく、みんながやりたいとまとまれば出来るのではと答えてしまった。そう、答えてしまったのである。しかし17〜18歳の頃から大人として仕事を、何かデカいことをやりたいといろんな人に投げかけ、大卒なら就職する21〜22歳の時に実現した「石川さゆりオンステージ」。会社員なら定年になる60歳になる年に再びコンサートを開催しその間の人生を見つめ直す機会にするのも良いかなとも思っていた。
そのころ、恒例となっていた記者クラブと胎児性患者らとの、早めの忘年会の席で、みんなに、「また、石川さゆりのコンサートをやろうよ」との声があがった。「やりたい」とみんな言ったが、まだ現実感は持ってなかったと思う。それとは別に滝下さんから「居酒屋『無邪気』で忘年会をするから館長も来てよ」と言うので行ってみたら、ほとんどがマスコミ。先の新聞記者はじめ、以前または以前から滝下さんが付き合いのあるマスコミ関係者を呼んでの忘年会。この時は、滝下さんの決意表明と協力依頼で結団式さながらの飲み会。誰が事務局をするなどの話も出ていて、私は「お手伝いはするから」とお茶を濁していたが、マスコミの人に事務局を頼めるはずもなく結局私がしなければならないだろうことは覚悟していた。
「若かった患者の会」発足
というわけで、最初に思ったのが「本当にみんなやる覚悟があるだろうか」だった。先ずは当時のメンバーに一人一人に聞いて回った。
7年前の上映会の企画者であり実行委員長だった坂本しのぶさんはすぐに賛同し覚悟を決めた。鬼塚勇治さんは参加すると返事をくれた。金子雄二さん、加賀田清子さんは、当時歩いてポスター貼ったりチケットを歩いて売りに行ったりしていた2人にとって、車いす生活になった今の自分に何か出来ることがあるのか不安を抱えていた。車いすだから出来ないというのは、私自身認めることができないので「車いすでもできることはたくさんあるし、友だちやボランティアと一緒にやれば何でもできると思うよ」と話したら覚悟を決めたようだった。しかし、私自身その言葉は2人に対し参加することを強要したではないかと悩んだが、その心配は杞(き)憂(ゆう)にすぎなかった。事実、結果を見れば分かるが特に加賀田さんはみんなを引っ張っていくムードメーカーになった。当時のメンバーのうち、残りの3人は様々な事情で参加はかなわなかったが、その代わり当時は個々の事情で参加できなかった半永一光さんと長井勇さんと、それにその時は招待されて観客として見に行った少し若い世代の永本賢二さんの3人が新たに加わった。半永さんは、先の上映会の時、石川さゆりさんと記念写真が撮れなかったことを大変悔しがっていて、今回こそはと力が入っていた。長井さんはその当時、鹿児島に住んでいて参加できなかったので、今回はみんなと一緒にやりたいと、永本さんは前回招待してくれた兄ちゃん姉ちゃんたちが頑張るなら応援したいと参加した。
年が明けて2015年1月に『石川さゆりコンサート』を開催するための初めての集まりを持った。場所は、移動のことも考え、メンバーが一番居るグループホーム『おるげ・のあ』のダイニングを借りての会議。時間はグループホームの食事が終わる19時、その後の集まる日はその都度次回の会議を決めることになるが、なぜか長井さんのたっての希望で木曜日が定番となる。
明水園のメンバーは参加できなかったが、最初の集まりは、他のメンバーと忘年会に参加していたマスコミ数名と私。10人にも満たなかったが、改めて滝下さんからみんなへ『石川さゆりコンサート』を一緒にやりたい旨の思いを語ってもらった後、会長は滝下昌文、副会長は坂本しのぶの各氏、事務局は私、会の名前は『若かった患者の会』に決まった。
まずは予算や開催日。石川さんの個人事務所「さゆり音楽舎」に聞いてもらったスケジュールや予算の事。資金をどうするか、補助金をもらうとすれば、どのようにしたらいいのかなどを話し合い、公演日は1年半後の前回と同じ9月少なくとも秋にしたいとおおむね決めて、仲間を増やす事にした。
それぞれ誘いたい人をあげ、また以前の上映会の時の実行委員などに声を掛けることにし、その後メンバーで石川さゆりさん宛てに思いを込め手紙を書いて送った。
また、博多で石川さゆり公演があった9月には会を代表して女性メンバー2人がサポートメンバーと一緒に思いを伝えに博多座まで会いに行った。
公演日決め、会場押える
会を立ち上げたことで、改めて県の方に補助金などの助成をお願いしたところ、私が事務局をしている「もやい音楽祭」(主催:もやい音楽祭実行委員会・水俣市・公益財団法人水俣市振興公社)と同じような組織で実行委員会を起ち上げてもらえれば何とか予算化出来るかもしれないとの回答で、水俣市と振興公社へ共催の依頼をし承諾を得ることができた。ただ、こういったこと(興行)になれてない私たちは、通常イベント会社を通すものを直接「さゆり音楽舎」と話をしたため、予算の組み立てに必要な細かい見積もりがなかなか出てこない。また、会を立ち上げると同時に以前のコンサートでかかわった人たちやメンバーのまわりにいる人たちに、話を聞きに行ったり協力のお願いに行ったりしたが、以前と違い予算規模が大きいことでの心配や補助金をもらうことで、必ずしも賛成するという感じではなかった。そのことがメンバーの気持ちを幾度となく揺らがせる。
さらに開催する予定だった2016年に文化会館の大規模な改修工事が入り、しかも工期が6月から12月。私には「正式に決定するまでマスコミには話さないように」と口止めしたうえで、発表より早めに教えてくれたのだが、「若かった患者の会」で早くスケジュール変更をしなければならないのにメンバーの3分の1はマスコミ関係者。頭が痛いことが続く。結局ギリギリまで待って話したのだが、水俣市文化会館で開催するとしたら5月以前か年が明けて1月以降。ただ正月が明けてすぐに成人式やら、もやい音楽祭などすでに予定が入っていて実際は2月以降。ここでみんなの意見は割れる。胎児性のメンバーは、半年近く後になりそれまでテンションが保てるのか体が持つのか不安の声も漏れ、マスコミ関係のメンバーからは水俣病公式確認60年の2016年内に行ってもらいたいと要望される。すると5月になる。5月開催とすればもう1年もなく、チケット販売や周知が年度の切り替え事務と水俣病犠牲者慰霊式などが重なり、私も含め役所関係のメンバーの手伝いが見込めなくなる。
寒い時期でもあり、みんなの身体のことは心配であったものの、私自身が5月開催ではできる自信がなかったので、多少ゴリ押しで申し訳なかったが2月以降にしてもらった。できるだけ早い時期でとのこともあり、土曜日で祭日でもあった2月11日の昼の公演に決め、文化会館へ仮予約をその場で入れ押さえてもらった。
丸若Tシャツ「うばんげか」発売
それから少しでも自己資金をつくるため会のグッズを作ってイベントなどで売ることにした。商店街のメンバーらがイベントを紹介してくれ印刷屋を営むサポートメンバーが様々なグッズの提案をしてくれた。それで生まれたのが、メンバーが青春と書いた缶バッジと胸に若かった患者の会のマーク○若と背中に「うばんげか」の丸若Tシャツを売ることにした。「うばんげか」は水俣の方言で“おっちょこちょい”とか“間抜け”とかあまりいい言葉ではないが、私自身も子どものころ怪(け)我(が)したり失敗したりすると親から「あんたが“うばんげか”けんたい!」とよく怒られた言葉でもあった。いい事どころか叱られる時に使われる言葉だが「完ぺきな人間は存在しなく、多かれ少なかれ人は『うばんげか』わけで、だからみんな助け合って行こうよ。」とのメッセージを込めて、この言葉に決まった。
そのころ若かった患者の会の活動が新聞に掲載され、掲載してくれた熊本日日新聞に“ボランティア仲間九州ラーメン党”から「何かお手伝いしたい。ラーメンを売って資金作りにしませんか」との連絡が入り、秋のイベントでTシャツと一緒に売ることにした。あまり天気がいい日ではなかったがTシャツも売れ200杯のラーメンは完売した。ラーメン党は材料代も取らず売上全てを寄付して下さった。
この年の最後の会議と忘年会の席で、みんながやりたいことをインタビューした。「みんなの歌のコンサートをしたい」「歩けない人の助けになりたい」「いろんな場所に行きたい」「結婚したい。相手は僕の言葉がわかるひと」「保母さんみたいなことをしてみたい」「他の障がい者の水俣病患者へ対する気持ち本音を聞いてみたい」「自立した生活を送りたい」「石川さゆりコンサート実現&成功」「映画の上映会を熊本でしたい」などなど、すべては出来ないけどコンサートに続く付帯事業としていくつか計画することになった。もちろん、補助金にしてもコンサートだけで下りるとは考えられず、みんなの思いを繋ぐための企画を話し合った。
会が出来て1年近く過ぎたこの間、予算書と実行委員会の立ち上げがいつになるのかも県からの催促の問い合わせも幾度となくあり、私たちだけでは進まないとマスコミ関係のメンバーからの紹介でイベントを主な事業としているKKTエンタープライズを間に挟んで進めることにした。ようやく、予算書が出来、福祉関係・水俣病関係・青年会議所などで石川さゆりコンサート等実行委員会を3月に起ち上げることができた。実行委員長は滝下昌文。委員長を支える副実行委員長に萩嶺淨円さんと決まり、事務局は水俣市振興公社に置くことになった。そして、補助金も『水俣病公式確認60年事業』として予算化され、これに実行委員会としてエントリーすることになる。
熊本地震が起きる
一段落したのもつかの間、頭が痛いことは続く。この後、4月のあの熊本地震が起きる。水俣市内の実害は少なかったものの、5月過ぎに熊本で計画していた上映会は予定していた会場が使えなくなり、いつも会議をしていた『おるげ・のあ』のダイニングは2階だったためエレベーターが止まりしばらく使えなくなる。いろんなことで力を発揮してくれていたマスコミ関係のメンバーは地震の取材に時間が取られて、会に参加できない人が増えた。
地震が起きたことで、この年の1月に水俣を襲った大雪が思い出され、もし来年の2月コンサートの日に雪が降ったらと不安がよぎる。コンサートが中止になった場合、それに対する補助金は出ず、中止になった原因によっては、それまでかかった経費に加え、様々なキャンセル料・チケットの払い戻しなど、もろもろ数百万の費用が掛かる。興業中止保険に入ることにしたのだが、見積もりを取ると90万円ほど費用が掛かる。さらに追い打ちをかけて、100%補助と聞いていた補助金がエントリーする団体が多すぎて75%補助に減額。文化会館900席を満席にしても、チケット料金を8千円以上にしなければ黒字にはならない。幸い「さゆり音楽舎」の話では1回公演も2回公演も同料金とのこと、旅費・宿泊費も変わらない。そこで考えられる選択肢は3つ、�〇�業自体を中止にする。�▲船吋奪搬紕言蕷澆破�席にする。�C詭襭臆鷂�演をして少しでも安く多く売る。頭が痛い選択が続く。若かった患者の会では�,蕨棲阿世辰拭�今回、決行しなければ二度と出来ないと感じていたからだと思う。何より会長が許さない。�△鉢�で議論は分かれたが、祭日でも仕事が休めない人も結構いて夜の公演はしないのと尋ねてきた人がいたらしく夜もできればとの意見が出て、石川さゆりさんの出迎えから2回の公演あいさつ、そして最後の締めまで、気力と体力が持つかも心配で不安もあったが��の2回公演にまとまった。それを持って実行委員会を開催、様々な金額のシミュレーションを提示し議論する中、8千円でも売れるよ。という意見も出たが、なるだけ安くして多くの人に来てもらいたいとの意見が多く、前売り券5千円に決まった。
採算ベースとして最低1,500枚を販売する必要がある。8千円のチケットを売るのもそうだが、文化会館が満席になることが少ない水俣で1,500枚のチケットを売るのも私にとって現実味がなくハードルが高い。みんなで売らなければと気合いを入れるが、また問題が出てくる。早くチケットを売り出したいのだが、契約が進まないのである。「石川さゆりコンサート等実行委員会」と「さゆり音楽舎」「KKTエンタープライズ」との三者契約となるのだが、エンタープライズへの委託料が決まらない。見積りは出たものの航空運賃等変更があったりして金額が定まらないが、コンサート開催はみんな了解していることなので先ずは、チケット販売などは開始して金額が決まり次第契約を交わしてもいいのではというエンタープライズと、何も交わさない中、口約束だけでチケット販売はできないという事務局、1,500枚も売らなければならないのだから早く売り出したい実行委員会と若かった患者の会。その間であたふたする私。ぎりぎり危なくないラインで金額を決め多少は後で調整するということでやっとの思いで契約を交わした。11月25日に記者会見を行い28日からやっとチケット販売にこぎつけた。しかし、あと2ヶ月半しかも正月を挟むとなると、なかなか厳しい。
チケット、販売目標突破
昼のチケットは順調に売れ、最初の1週間で6割のチケットが売れた。しかし夜のチケットは3割、こうしたことは、出だしは良いが後からが厳しいと聞く。
また、自由席にしてしまうとチケットを買った人が良い席を取ろうと思い我先にと来た場合、寒い2月に長時間外で並ぶことになるため、全席指定にした。そのため、以前みたいにメンバーがチケットを持って売り歩くことができない。昼夜と大まかな座席位置を聞いて予約を取る。そして、事務局に連絡してチケットを受け取り渡すという、めんどくさい作業をした。みんないつも通院する病院や飲み屋で予約を取り、知り合いに電話して予約を取った。と同時に協賛広告もお願いに回った。
その間も、付帯事業は同時に行った。11月末にもやい館でプロ車イスレーサーの廣道純さんを交えての「水俣病と障がい者の本音トーク」12月には熊本市の県民交流館パレアホールで映画の上映会とメンバーのトークを開催。本音トークでは年金の問題、報道の取り上げ方の事。会場からも認定制度から来る格差の問題など、初めて本音を語る場としては、良い議論ができたように思う。
また、新たな問題が……。市役所の移転である。またもや地震の影響で市役所の建て替えが決まり、もやい館と文化会館の駐車場に仮庁舎として移転してくる。駐車場が足りない。
私自身そのことは聞いていたが、臨時駐車場もできているし何とか大丈夫だろうと漠然と思っていた。しかし、実行委員会で心配する意見が出てシャトルバスの運行とかの提案もあったが、予算もかさむしチケット販売も始めた後で、そのことをアナウンスすることもままならない。そこで、もやい館横の第一小学校の大小2つのグランドをはじめ近隣の駐車場になり得るところを借りまくり、何とか想定される必要台数分スペースを駐車場として事務局で確保した。そんな中1月下旬、最低チケット販売目標の1,500枚をやっと突破。ほっとした間もなく頭が痛くなるニュース。1月は異様にあったかい日が続いたというのに2月11日この冬最大の寒波が襲来するという。週間天気で水俣は雪マーク、保険に入っていて良かったと思いながらも中止は困る。結果、チケットは前日までには十数枚を残すのみになったが、前日のグラウンドのライン引きやロビーでの“思いのパネル”の飾りつけの最中も雪が降っている。中止になった場合の対応策を考えているとき携帯が鳴った。「石川は無事熊本につきました」とマネージャーからの電話。機材も他のスタッフもすでに水俣入りしていたので、石川さんさえ水俣に来ることができれば、雪で新幹線が止まろうと客が来られなかろうと中止にしない。中止にさえしなければ払い戻しもいらないなどとつい考えてしまっていた。
多くの若いボランティア参加
マスコミ対応は同じマスコミ関係のメンバーが担ってくれたが、撮影可能な時間やシナリオの変更などがあり打ち合わせに時間を要した。また、メンバーから石川さんへの花束の贈呈をしたいのですが、どのタイミングで渡せばよいかと聞くと、プレゼントコーナーを設けているので、そこでお願いしたい。さらに、その時に石川さんからもサプライズのプレゼントがあると、今は言えないがある大物からのプレゼントをサプライズで渡したいということもあった。それが、米大リーガーのイチロー選手のバットのプレゼントだったわけです。
私は、その場面も含めてコンサート当日は気ぜわしく会場にほとんどは入ることができずに、後でニュースやビデオ映像で見て初めて知るのですが、石川さんのコメントにも温かいものを感じたし、オープニングの司会をしてくれたKKTくまもと県民テレビの村上美香さんの気遣いにも感じるものがありました。
今回、今まで水俣病や実行委員会のメンバーとあまり接点がない若い世代の人も含め多くのボランティアが参加してくれ、実行委員もそれぞれ力を貸してくれた。何より2年を超え一緒に頑張ってきたサポートメンバーと、舞台に上がった若かった会のメンバー、当初体力などを心配したメンバーでしたが、食事もろくに摂らず朝から夜まで奔走してくれました。
誰かに意地悪されているかのような2年間でしたが、それ以上にいろんな人の思いを嬉しく感じた2年間でもありました。
しかしこの成功を思うとき、誤解を恐れず正直に言うと、やっぱりどこか水俣病に嫉妬しまう自分がいます。
反省点もたくさんあります。明水園からの参加に配慮が足らなく2人には悔しい思いをさせてしまったであろうし、当初参加できなかった3人についても、もう少し何かできなかったかと考える。高校生らと一緒に何かを作り出す企画を考えたが何もできなかった。また、今回はサポートメンバーであるマスコミ関係者が常に滝下さんや坂本さん送迎を担ってくれたが、それは特別なことであって、日常もっと自分の意志で移動し行動できる環境が必要であると改めて感じた。
だから、こんなことを書くと面倒なことになるのですが、これで終わりではなく今後も何かで続いていくのであろうと思う。
(水俣市南部もやい直しセンター「おれんじ館」館長)
※石川さゆりさんのコンサートは今年2月11日、水俣市の文化会館で昼夜2回公演であった。
(この記事は、本願の会の会報「魂うつれ」第69号(2017年4月)からの転載です)
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