2017年09月17日14時14分掲載  無料記事
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【歩く見る聞く】「支那人労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(や)ってしまった」 関東大震災、中国人労働者も虐殺された  田中洋一

 1923年9月1日の関東大震災に乗じて、多くの朝鮮人や社会主義者の大杉栄が虐殺された事実はよく知られている。だが中国人労働者たちも同様に殺されたことは、あまり知られていないのではないか。その中でも王希天(ワン・シティエン、1896−1923)は象徴的な存在だ。彼が遭難した命日の今月12日、中国から来日した遺族に同行して殺害現場の一帯を歩き、共に追悼した。 
 
  一帯とは東京都江東区の大島(おおじま)地区のこと。王は戒厳令下に、亀戸警察署(統合されて今はない)から千葉方面に連れて行かれる途中で、地区警備部隊の一将校に日本刀で斬られて絶命した。事件から60年近く経ち、実行行為者その人がジャーナリストの丁寧な取材に犯行を認めた。 
  駆け足で回ると、一帯には中小企業の事業所が目立ち、地域の特性がうかがえる。以下は、追悼と顕彰を進める市民団体が昨年出した報告集『山河慟哭(どうこく)93年』による。縦横に走る運河の水運を活かした工場地帯として発達し、中国人の出稼ぎ労働者が集中し、石炭の荷揚げ作業などを担った。同郷人が開いた木賃宿にまとまって住んでいたという。 
 
  そんな一帯に大震災の前年、僑日共済会が設立された。無料診療や生活相談、日本語教育、行政や事業主との交渉など中国人労働者の助け合い施設だ。ここを利用する会員は5000人を下らなかった、との証言がある。言葉が不自由で、生活は不安定だけに、このような施設を渇望した華僑の窮状を心に留めておきたい。 
 
  王希天は吉林省長春から来日し、旧制八高に入学して中退した。中華メソジスト教会の代理牧師や留学生拠点の中華YMCA(神田)の幹事を務め、慈善鍋で知られる救世軍ともつながりを持つ。人道主義に立つ彼が、働く同胞を支えようと寄金を募って設立したのが僑日共済会だ。しかし日本の官憲は、共済会会長の彼を排日活動家の大物として克明に監視し続け、虐殺に結びつく。 
 
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 来日した一行は、王希天の孫娘で吉林省政治協商会議常務委員の王旗(ワン・チ)さん(73歳)を団長に長春の遺族と歴史研究者の計11人。王旗さんはこれまでも追悼のために来日している。 
 
  虐殺の現場は旧中川に架かる逆井橋のたもと。荒川から切り離された旧中川の流れは緩やかで、周りには10数階建ての高層住宅が建ち並ぶ。当時の面影はない。一行は旧中川の右岸(東京側)に大型バスをとめ、小雨の中を歩いて左岸(千葉側)に渡り、逆井橋のたもとに進んだ。 
  「悼」の文字が浮かび上がる陶製の碑を囲み、即席の祭壇が出来た。全員が黙祷して、王旗さんは追悼の辞を述べる。「おじいさん、また中国からお見舞いに来ました。(没後95年の)来年は家族みんなを連れて来ますからね」。そして深々と頭を下げた。 
 
  私たち全員が花を一輪ずつ祭壇に供えると、祭壇を囲むように酒をふりかけた。芳香が鼻をつく強い蒸留酒で、故郷の中国東北地方から持ってきた高級品のようだ。 
  この地点が虐殺現場として妥当かどうかは後で触れるとして、その史実を刻んだ碑も説明板も何ひとつない。「何とかして造りたいのだが……」と田中宏さんは何度もつぶやいた。日本アジア関係史を研究してきた一橋大名誉教授だ。 
  田中さんが言い淀むのには訳がある。日本政府は94年前の王希天や中国人労働者の虐殺を今も認めていない。加えて、今年は小池百合子・都知事が朝鮮人虐殺の史実を覆い隠すような言動をとった。さらに、朝鮮学校の授業料を公立高校並に無償化するよう国に求めている裁判の行方が不透明だ。排日の逆風が強まる中で、王希天の事績を刻む行為は簡単には進みそうにない。 
 
  一行は次に僑日弘済会の跡地を見学した。今は無関係の人の所有地で、3階建ての民家が建つ。王希天は地震の8日後、危険だからと周囲が止めるのも聞かずに東京・牛込の下宿から大島地区に向かう。弘済会に着いてから近くの亀戸署に回ったのは、虐殺の噂を確かめるためだったという。だが、署に留め置されたまま行動の自由を失う。虐殺は2日半後だ。 
 
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  追悼の一行と支援者は午後から、王希天先烈記念座談会を開いた。冒頭、王旗さん弟の王鉦強(ワン・チェンチアン)さんは「祖父は27年間の短い人生だったが、中国人労働者の尊厳を守り、私たちの手本です。殺された現場に記念碑を建てることが出来ればうれしい」と挨拶した。王希天の事績を留めるために記念碑の建立がふさわしい、と日中関係者の意見が一致した。 
  座談会にジャーナリストの田原洋さん(79歳)も出席した。王希天虐殺事件の史料を読みあさり、関係者に取材を重ね、実行行為者の証言を得て著わした労作『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫)の著者だ。田原さんの話から、記録の重要性について私は考えさせられた。 
 
  田原さんは陸軍のある将校に会いに行った。話が関東大震災に触れるや、「大杉栄どころじゃない……オーキテンという支那人労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(や)ってしまった」と聞いたのが、王希天との出会いだった(同書から)。 
  中国は外国だから、国際問題になりかねない。どうもみ消したらよいのか。一時は政府を挙げて大問題になったが、結局は中国の内紛に助けられる形で、政府は殺害を表に出さず、責任も賠償も認めないまま歴史の闇に消し去った。 
 
  さて、この将校は克明な日誌を記していて、王希天の名前と共に事件のことを書き残し、それが取材の支えになった。また、田原さんやこの問題の研究者は、米軍に接収された文書の中から重要な史料を見つけ出した。さらに、「取材した当時、東京都公文書館に大震災後の陸軍の行動を記した詳報がそっくり残っていた。だから陸軍が何を隠そうとしたのか明確に分かった」とも語った。 
  その上で田原さんは「権力は隠す。しかし記録は残る。隠し切れるものではない」と、後輩ジャーナリストの奮起に期待した。 
  ところで、王希天が虐殺された地点は逆井橋のどちら側のたもとなのか。田原さんに尋ねると、「K将校の記憶から、斬ったのは中川の右岸(東京側)と解釈したが、その証言はとっていない」。 
 
(「歩く見る聞く24」2017年9月14日  田中 洋一) 


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