2017年11月22日12時58分掲載  無料記事
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終わりなき水俣

「坂本しのぶです 胎児性水俣病です」 水銀国際会議で訴え 10日間ジュネーブ同行記 斎藤靖史 

  胎児性水俣病患者坂本しのぶさんが九月、スイス・ジュネーブで開かれた「水銀に関する水俣条約」の締約国会議に参加した。坂本さんは世界からの参加者を前に「水銀のことをちゃんとしてください」と訴えた。十日間にわたった坂本さんの旅の様子、会議のもようを、同行したジャーナリスト斎藤靖史さんにリポートしてもらった。 
 
 
 「私は、坂本しのぶです。水俣から来ました。お、お、お母さんのお、お腹の中で、水俣病になりました。胎児性の水俣病です。あ、あ、あたしもみんなも、どんどん悪くなっていきます。水俣病は、終わっておりません。たくさんの人が、闘っております。私は、言いたいことで来ました。女の人と、子供を、守って、ください。水銀のことを、ちゃんと、してください」 
 スイス・ジュネーブの国際会議場で九月二十四日、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(六一)が、少なくとも数百人にのぼる世界中の政府関係者らが見つめる中、その不自由な体で、一生懸命に声を振り絞った。 
 「水銀に関する水俣条約」が八月十六日に発効したのを受けて、九月二十四〜三十日、百五十六カ国、千二百人以上が出席する「第一回締約国会議(COP1)が開かれた。そのメーン会場で、開会から約三時間後、しのぶさんに発言する機会が巡ってきた。しのぶさんの後ろには、様々な交渉を通じて発言の場を用意してくれた国際的な環境NGOネットワーク、IPENと ZERO MERCURY WORKING GROUPのメンバーたち二十数人が、題字に大きく「NO MORE MINAMATA」と記し、しのぶさんの顔写真も大きく載せて作ったリーフレットを手に、見守った。 
 「ありがとうございました」。しのぶさんは感謝の言葉で、二分四十秒あまりのメッセージを締めくくった。一瞬の静寂の後、会場からは惜しみない、まさに割れんばかりの拍手が沸き起こった。応援してくれたNGO関係者はもちろん、少なからぬ各国の政府関係者たちが涙を拭っていた。そして話し終えたしのぶさんは一瞬、ほっとしたような笑顔を見せた後、涙で顔をくしゃくしゃにした。 
 しのぶさんの笑顔と涙が詰まった十日間のクライマックスだった。 
 
▽条約に魂を 被害者の派遣を決意 
 
「斎藤さん、しのぶさんとジュネーブ行かない?」。NPO法人水俣病協働センターの谷洋一さんからそう声をかけられたのは七月中旬、いつもお昼ごはんを食べさせてもらっている水俣市の「遠見の家」でのことだった。前振りもない本当に唐突な打診だったが、「僕が行ってもいいんですか?行きます!」と、詳しい話も聞かないまま即答した。少し想像しただけでも、やりがいがありそうだと感じたからだ。宿泊費など費用の一部を自己負担しなければならない可能性もあるとのことだったが、断る理由にはならなかった。 
 しのぶさんは十五歳で中学三年生だった一九七二年、国連人間環境会議が開かれていたスウェーデン・ストックホルムを、母フジエさんや濱元二徳さん、医師の原田正純さんや環境学者の宇井純さん、写真家の塩田武史さんらと訪問。市民団体の会合に出席し、水銀被害の深刻さを身をもって世界に伝えた。一方、国連人間環境会議で採択された人間環境宣言や行動計画を実施する機関として、国連環境計画(UNEP)が創立された。それから四十五年。そのUNEPが二〇〇一年に始めた水銀汚染に対する取り組みが、今回の水俣条約発効で一定の大きな実を結んだ。 
 水俣条約の前文では「水俣病の重要な教訓を認識」することが求められているが、これは日本政府の提案で盛り込まれた文章だ。それにも関わらず、環境省など日本の行政は、ジュネーブで初めて開かれる締約国会議に、水俣病の被害者を誰も派遣しなかった。そのことを谷さんが今年七月上旬に知り、「条約に魂を入れよう。それには、ストックホルムに行ったしのぶさんが一番ふさわしい」とジュネーブ行きを打診。しのぶさんが快諾したことで、今回の行動が決まった。しのぶさんは、長旅での体調の悪化や、かつてのように一人で歩けないことなどに不安を感じ、一晩考えたという。それでも、「いつまで歩いたり、しゃべったりできるかなぁ」と、自分が世界に直接訴えられる最後の機会かもしれないと考えての決断だった。 
 メンバーはしのぶさんを含めて五人。谷さんがUNEP関係者や各国NGO、環境省などとのコーディネートを、ヘルパーの谷ゆうさんがしのぶさんの介助全般を、熊本同時通訳者協会代表の最相博子さんが通訳を、斎藤が撮影などの記録を、それぞれ担当した。特に自ら参加を申し出てくれた最相さんには、本当にお世話になった。事前に水俣で作成したリーフレットの翻訳に始まり、しのぶさんのメッセージの逐次通訳、会議の内容のウィスパリング通訳、現地での要人とのやりとりから両替など日常の些細なことまで助けられた。マスコミ各社も、熊日、朝日、読売、共同通信、熊本県民テレビ(KKT)が同行取材したが、最相さんの通訳はその取材でも欠かせないものとなり、報道に深みをもたらした。 
 
▽「条約はあなたのためのもの」 
 
 水俣を出発したのは二十一日夕方。福岡で一泊し、翌二十二日朝、福岡空港からフィンエアーに乗り込んだ。約十時間半のフライトの後、フィンランド・ヘルシンキ空港に到着。乗り換えて約三時間後、レマン湖の広がるジュネーブ空港に到着した。 
 国連欧州本部をはじめとする国際機関が多く存在するジュネーブは、物価が非常に高いことでも有名だ。またジュネーブ州はスイスの西端にあって周囲をほぼフランスに囲まれているため、街中にはフランス語があふれ、フランスから毎日国境を越えて働きに来る労働者も多いという。 
 長旅を押してせっかく行くからには、ぜひ世界に声を発する機会が欲しい。しかし出発前に確実に決まっていたのは、二十八日にある「水俣を想う」イベントなど、いくつかのものだけだった。それでも、IPENが色々な準備をしてくれていることは少しずつ伝わってきた。ジュネーブ到着後、「初日の二十四日の総会の席で、話すチャンスがありそうだ」という状況が分かり、次第に気持ちが高ぶってきた。二十八日のイベントは会場が百三十人規模だが、総会なら確実に、世界各国の政府関係者が数百人規模で出席するからだ。 
 二十三日にIPENとの打ち合わせがあり、「女性と子供を守る」というメッセージを込めることが決まった。そして迎えた二十四日。話す機会が得られるかどうか、高まる期待と緊張の中で会議の行方を見守り続けた。会議の中でしのぶさんの名前が紹介された時には、周りのみんなで手をあげて「ここにいますよ!」とアピール。最終的にはNGOの「介入」発言として、冒頭のように、しのぶさんの言葉を世界に発信することに成功した。しのぶさんは「(話をしながら)どきどきしとった」と振り返り、「真剣に聞いてくれてよかったなと思いました。(自分の思いは)伝わったと思います」と笑顔をみせた。 
 初日の発言で多くの人にしのぶさんの存在を知ってもらうことができたため、その後の行動はより充実したものになった。総会で発言の機会を与えてくれた国連環境計画のイブラヒム・ティアウ事務局次長には翌二十五日、イブラヒム氏からの希望で会うことができた。イブラヒム氏はしのぶさんに「みんなにとって、とても大切なメッセージを伝えてくれました。昨日の中で一番大切なメッセージは、しのぶさんのメッセージでした」と感謝の言葉を述べるとともに、「条約は、あなたのためのものです」と最大級の賛辞を贈ってくれた。そしてその場で、十二月にケニアであるUNEPの総会で流すビデオメッセージをしのぶさんに依頼した。撮影は二十七日、国際会議場の一室で、早速行われた。 
 その他にも期間中、IPENの記者発表や様々なイベントに加わったほか、インドネシアの海洋省の事務次官など政府代表団、スウェーデンの環境大臣、イギリスの環境大臣など、各国の要人とも会うことができ、それぞれに水俣病の実態を伝えることができた。彼らはみんな、視線を車いすのしのぶさんに合わせて屈みこむようにして、話を聞いてくれた。またスイスの通信社やドイツのラジオ局など、海外メディアの取材にも応じた。ほっとはうすの胎児性患者の仲間からもらった「手形」の激励文は、IPENのブースで展示してもらった。 
 
▽環境相に思い届かず 
 
 そして二十八日にあった「水俣を想う」イベントには、約百五十人が訪れた。しのぶさんをはじめ、西田弘志・水俣市長や、環境省の親善大使になった水俣高校生の澤井聖奈さんのスピーチもあった。 
 しのぶさんの持ち時間は、これまでより長い十分間。しのぶさんの希望を受けて、「走ったり、水俣病にならんば色々なことができたのになあと思えば、悔しいです」という思いや、今もチッソを許せないこと、胎児性の仲間がみんな歩けなくなっていること、水銀が埋め立て地にあること、などが盛り込まれた。胎児性患者の仲間でつくる「若かった患者の会」のメンバーらが「しのぶさんを応援しよう」と背中にサインしてくれたTシャツを、みんなのサインが見えるように背中側を前にして、前後を逆に着た。そして「みんなが、どんどん悪くなっています。みんな歩けなくなりました。このTシャツは、胎児性の人が書いてくれました。みんなの気持ちを持ってきました」と語り掛けた。最後は、「公害を起こさないでください。女の人と子供を守ってください。一緒にしていきましょう」と会場の参加者に呼びかけた。 
 イベントには、UNEPのエリック・ソウルハイム事務局長も聞きに来ていて、大きな拍手を贈ってくれた。彼はその後の閣僚級会合の中でしのぶさんを紹介し、「ストックホルムの会議は、環境に関する産みの親のような存在。十五歳で坂本しのぶさんはそこに行き、人々に強いメッセージを与えました。あなたの努力、本当に感謝します」と称えてくれた。さらに会議の合間にも会いに来てくれたソウルハイム氏は、しのぶさんの「これからも頑張って行きましょう」という言葉に対して、「私たちも頑張らないといけないと思います」と応えてくれた。 
 翌二十九日には中川雅治環境相とも面会した。被害を訴える裁判原告を患者認定するよう求めたしのぶさんに対し、中川大臣は「公健法の丁寧な運用を積み重ねていくことが重要」「これからもしっかりと対応していきたい」と答えるだけで、思いは全く届かなかった。また、谷さんが不知火海沿岸の健康被害の調査の実施を、最相さんがエコパークに埋め立てられた水銀対策を訴えたが、それぞれ「精いっぱい努力していきたい」「県がまず対応すべき話」と述べるにとどまり、特筆するべき回答は得られなかった。 
 IPENのメンバーは最後に、しのぶさんとの「お別れ会」を開いてくれて、「やりましょう」という掛け声とともに笑顔で記念撮影した。そのうちの一人、ウルグアイの女性の言葉に、しのぶさんは嬉しさのあまり大泣きした。 
 「歩くことができないしのぶさんだけど、ある意味では、走っていますよ。走り続けていますよ。しのぶさんの心は、誰よりも早く走ることができています」 
 前日のイベントで「走れなくて悔しい」と語ったしのぶさんを励ますこの言葉は、しのぶさんの心に、とても強い感動を響かせた。 
 
▽母フジエさん「よう頑張ったな」 
 
 十日間の日程は、結果としてとても充実した内容となったが、同時に非常に多忙なものとなった。長時間のフライトや七時間の時差に加え、多くの人の前で話す緊張、真面目で堅い会合の連続……。しのぶさんにも心身ともに疲れがみられたが、それでも体調を崩さずに乗り切れたことが何よりの幸いだったと思う。また金銭面についても、多くの人のカンパ等に支えられ、宿泊費などの必要経費については全額を賄ってもらうことができた。 
 三十日午前にジュネーブを出発し、飛行機内で一泊。十月一日朝に福岡空港に到着し、午前中に水俣に帰り着いた。湯堂にあるしのぶさんの自宅では、母フジエさんが足が悪いにもかかわらず、玄関横の居間で立って迎えてくれた。 
「よう頑張ったな」 
 長い旅の終わりにふさわしい笑顔だった。 
 
*この記事は、本願の会の会報「魂うつれ」第71号(2017年11月)からの転載です。 
 
<「本願の会」とは> 
 
 「水俣病事件は近代産業文明の病みし姿の出現であり、無量の生命世界を侵略しました。その『深き人間の罪』を決して忘却してはならないと訴え『魂魄の深層に記憶し続ける』ことを誓って、平成6年(1994年)3月『本願の会』は発足しました。その活動は、生命世界の痛みを我が受難として向き合い、対話と祈りの表現として、水俣湾の埋立地に会員の手彫りによる野仏(魂石)を建立し続けていきます。現代における『人間の罪責』、その行方は制度的埋め立てによって封印されてはなりません。いまを生きる私たち人間が、罪なる存在として背負う以外に魂の甦りはないと懸命の働きかけを行っています。」 
 これは、水俣病情報センターのパネルに会員が書いた紹介文。 
「本願」があるからといって特定の信仰を持つ宗教団体ではないのは当然のことだが、従来の裁判や政治交渉とは異なる次元で水俣病事件を核にした「命の願い」を「表現する」人々の緩やかな集まりである。運動体でない。 
 発足時のメンバーには、故田上義春、故杉本雄・栄子夫妻と緒方正人さんら水俣病患者有志、それに石牟礼道子さんが名を連ねている。それから20余年、現在は石牟礼さん、緒方正人、正実さんらが中心となって野仏を祀り、機関誌『魂うつれ』の発行を続けている。 
 祀られている野仏(魂石)は55体。『魂うつれ』は季刊で発行、1998年11月の創刊、2017年7月で70号を数えた。 


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