2018年06月16日09時47分掲載  無料記事
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終わりなき水俣

たとえひとりになっても 石牟礼 道子

  『苦界浄土』で水俣病の悲惨と現代文明の病を告発した作家、石牟礼道子さんは、患者らが1994年に発足させた「本願の会」の設立時からのメンバーだった。同会の季刊誌『魂うつれ』最新号は、今年2月に亡くなった石牟礼さんを追悼して、彼女が創刊号に寄せた「たとえひとりになっても」を再掲した。「本願の書」とあわせて紹介する。 
 
たとえひとりになっても 石牟礼 道子 
 
 九四年三月、水俣病患者らを中心に『本願の会』が発足した。 
 主なる呼びかけ人は、 
 田上義春、浜元二徳、フミヨ、杉本雄、栄子、緒方正人、隅本栄一、岩本広喜(九五年没)、佐々木清登さんら十七名で、水俣病を生き残って来た証を後世へ呼びかける事業をはじめたいという趣旨であった。 
 
 それには患者自身の〈手型〉をはっきり残したい。魂石を見つけて、地蔵さまを彫りあげたい。それが、千万無量の思いを語れぬ心の表現である。出来上がったら水銀爆芯地百間埋立地にそれを置く。 
 
 なぜ百間埋立地に置きたいか。漁民たちにとってそこは母の胎のようなところである。永久に水銀を抱えて呻吟している、母親の心音にぴったりと耳を当て、祈りの場所として地蔵さまを置く。この気持は、自分の躰の中に水銀を抱え込んで、それを追い出すことの出来ない苦悶の中に、日夜置き放されている身でないとわからない。同じ苦しみを苦しんでいる母なる百間港ならば、われわれを抱きとってくれるだろう。 
 
 水俣病センター相思社や幸町の公民館で持たれた準備会でも、発足後四年たった今でも、患者さんたちの言葉を繰り合わせると、右のようになると思う。 
 
 考えられる限りの集団交渉、チッソや国や県との直接交渉、裁判闘争を激烈な症状を抱えながら四十年余もやってきた人びとの、今たどりついた地点にわたしも立ってみて、この人たちの孤独、孤絶の闘いに本当は参加など出来なかったのではとあらためて思う。 
 
 ふいに襲ってくる夜中や夜明けの症状に、私などは、何の役にも立たなかった。今後もそうである。患者たちの闘いとは、その孤独の中にこそあるのに。五体いくらか満足の私たちが、生活上のなにほどかのやりくりをして集会や交渉の現場にかけつけたにしても、一生の中でそれはどれほどのことだろうか。 
 などと思うのも、「『本願の会』の患者は、闘いをやめたのだろうか」などという言葉が聞こえてくるからである。傲慢というものではなかろうか。 
 
 水俣病患者たちは左翼イデオロギーに育てられ、その前衛を荷なって闘ったのではなかった。倒れて言葉を失う前に、田上義春さんはよく語った。 
 「俺どま、生活者じゃっで、支援者とは根本的に違うとじゃもんな。俺どま支援者のためやって来たっじゃなかもんな。どうもそこが違う。まあ、義理は別ばい。世話になったもんなあ。日本国中、どこどこにおらすか。名乗らん人も多かで、お礼はとてもしきれん。」 
 
 今は義春さんと話ができないのがとても悲しい。逢いにゆけば、義春さんの顔がこわれそうになり、黙ってみつめあうばかりである。心は今がいちばん通う気がする。どんなにか無念であろう。 
 
 「こりゃあ後生の仕事ばい、よし、これしかなか」といっていた。 
 「まあな、あとも無かし、躰も無かし。ここまで来て患者自身がやる仕事は、もうこれしか無かち思うが、栄子さんな宗教的ちゅうか、そっちから来るじゃろうて」 
 うふうふ、そう言って笑った。クールな笑顔だった。今、とっても合理的だったこの人が口にした「後生の仕事」という言葉を思う。 
 
 後の生、すなわち未来への呼びかけを義春さんは起こそうとしていたのだった。 
 「たとえ一人になってもな、やるとばい」 
 正人さんも栄子さんも度々そうおっしゃる。 
 
 後生の仕事とは、今生(こんじょう)をちゃんと生きられなかった者が、後の生に志を貫き通す、あるいは後の世の者に、自分の魂を点じる、ということにほかならない。 
 
 存在は哲学を超えてしまうということを思わせるのは、この義春さんだけではない。そういう人たちが未来に届けたい声とは、用意されていた豊かな生涯への思慕だけではない。今や心身ともに毒まみれとなりはてて、次の世紀を迎えねばならないこの民族をいかに蘇生させるか、そこにとどけという切願であろう。 
 「躰は死んでもな、魂は絶対死なんとばい」 
という人たちが、日々その魂を純化させつつ訴え続けていることを、聞きとりたいと私は願う。 
 
 「たとえ一人になっても、やり抜くとばい」 
 ほほ笑みとともに慎ましくそう呟き、水銀爆芯地にむかって、おぼつかない足どりながら、一歩一歩ゆく人たち。永久に死にきれず、育てた者たちを呼ぶ母の声を聴きとるために、魂石に向き合う人たちのそばで、私も耳を澄ましたい。 
 その症状との過酷な、孤独もきわまる闘いの内容に私などははいれない。ただ衿を正すばかりである。 
 
 緒方正人さんの亡き父上の言葉、「魂うつれ」を受けとめられた、東京の有志たちの力で、この冊子が陽の目を見ることになった。記念すべき出発……患者さんたちとともに感謝いたします。 
 
(一九九八年十一月、「魂うつれ」創刊号から転載) 
 
<本願の書> 
 
 時代の産業文明に犯された水俣の海は、それゆえに病み続け、さらに埋め立てられた我らが命の母体は今も絶命せずに呻吟しています。そのうめき声はあまりに切なく私達の心に日夜響きます。爆心のこの地もまた水俣病なのです。 
 かつて、水俣は海の宝庫でした。回遊する魚たちは群れをなして産卵し、その稚魚たちはここで育ち成魚となり、また還ってくる母の胎のような所でした。百間から明神崎に至る現在の埋め立て地のあたりはイワシやコノシロが銀色のうろこを光らせボラが飛びかい、エビやカニがたわむれていました。潮のひいた海辺では貝を採り、波間に揺れるワカメやヒジキを採って暮らしてきました。 
 私たちはこれらのいのちによって我が身を養うことができたのです。 
 しかし、産業文明の毒水は海の生きものから人間までも、なんとあまたの生きものたちを毒殺したのか。この原罪は消し去ることのできない史実であり、人類史に人間の罪として永久に刻みこまれなければなりません。その意味から、埋め立てられた苦海の地に数多くの石像(小さな野仏さま)を祀り、ぬかずいて手を合わせ、人間の罪深さに思いをいたし、共にせめて魂の救われるよう祈り続けたいと深く思うのです。 
 病み続ける彼の地を水俣病事件のあまねく魂の浄土として解き放たれんことを強く願うものです。 
 
一九九四年 三月二日 
 
水俣病患者有志一同 
田上 義春 浜本 二徳 岩本 広喜 
佐々木清登 杉本  雄 杉本 栄子 
隅本 栄一 浜元フミヨ 滝下 松雄 
浜田 岩男 井川 太二 石田  勝 
前田 則義 緒方 正人 松永 善市 
中津 美芳 鬼塚 国雄 
 
*この記事は、本願の会の会報「魂うつれ」第73号(2018年5月)からの転載です 


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