2018年06月18日11時44分掲載  無料記事
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終わりなき水俣

母のこと そして父のこと 石牟礼 道生

  石牟礼道子さんもメンバーだった「本願の会」の季刊誌『魂うつれ』には、この偉大な作家の死を悼む水俣病患者はじめ、地元熊本を中心とする多くのゆかりの人たちの声が寄せられた。そのなかから、ご子息の石牟礼道生さんの「母のことそして父のこと」と、石牟礼さんの小学校教諭時代の教え子牧尾朝子さんの「吉田道子先生のこと」を紹介する。 
 
 母のこと そして父のこと 
         石牟礼 道生 
 
 得体の知れぬやわらかい心遣いが、父となり母となったふたりの間に行きかよい平静がはじめて訪れました(愛情論初稿)若い父親は流木などを拾い集めて、三人で暮らす小屋を建てた。「評伝石牟礼道子」の著者米本浩二氏の記述による。 
 
 祖父の白石亀太郎が主になって造ってくれた家で雨が降ればあちらこちらで漏れてくる暮らしだったが絶えず人が集まる楽しい暮らしだった。小学校の頃まで溺愛されて育ったことを鮮明に覚えている。 
 
 小学二年生の頃、腎臓病を患い、四年生になった頃小児結核と診断され市民病院に入院した。病弱だった私は過剰なほどに大事にされて育った。ピアノを習わせたかったと言っていた母がどこから手に入れたのか紙に印刷されたよれよれの鍵盤が与えられた。雨漏りするあばら家にピアノなど在る筈もないので想像でしか音は出ない。 
 
 腎臓病は絶対安静が病状快復の条件と医者から命じられていた。音の鳴るピアノを早く習わせたかったのか母は家の入口に僅かな隙間を空けて自分の髪の毛を一本抜いた後に「この隙間は母さんの髪の毛で測ってある」安静を無視して外へ抜け出して遊んだ形跡があったら許さないと脅していた。その迫力に身動きが取れず安静にしていたことを覚えている。 
 
 手を引かれて母方の実家からそのあばら家に帰る道すがらせせらぎに映るお月様が何故、母と自分に付いてくるのかと質問したことを覚えている。 
 
 川面に映る月が揺れながら同じように並んで付いてくるのが不思議だった。「ほんとだね、夜道は怖いからお月様が守ってくれているのよ」「だけど悪いことをしたらお月様は守ってはくれないのよ」と教えてくれた。良い子でいようと思った。 
 
 歌も自ら歌って教えてくれた。はっきりと口を開けて静かに歌う時でもお腹の力は抜かないで言葉の意味を理解して心を込めて歌うんだよと。水俣川と海とが交わる海岸沿い、母によく連れて行かれた散歩の場所でいろんなことを教えてくれた。 
 
 今にして思えば母はこの場所で天草の島影などの彼方を見やっていた。父と結婚したことや、私を生んだことや自分のこれまでの生き方など頭の中が整理出来ないほどの激情を、見渡す海面の延長線上に走らせていたのだろう。生きる、生きていることに懐疑的な思いを絶えず胸の中に宿していたと本人が言葉にもしていたそんな母であった。本人がよく口にし、言葉にもしていた「たかざれき」の現実化の始まりだった。 
 
 母は料理の素材にもこだわりがあった。父はその素材の買い物を強いられ自転車に乗って言いつけどおりにお使いを果たしていた。大切に思う来客を心からもてなしたいと絶えず心掛けていた。来客との楽しい会話も激しい思いや考えの主張やらが交される日常が続いていた。 
 その頃には既に水俣の牧歌的で平和な町で大異変がおきていた。 
 
 惜しみなく愛情を注いでくれた幼い日々が過ぎ、私が高校を卒業しこれから進学と言う頃に母は家を出た。眼の前で起きている現実を凝視して激しく突き動かされる想いを、言葉に託して伝えたい。次々に寄せ来る感情のたぎりを文章で書き記しておきたい。集中して書ける場所をと言い出した。その衝動と決意は父も私も到底とめられることではなかった。 
 
 母は父の求める妻としては早くにその役目を放棄していた。母と父との思いの違い。両親のそれぞれの葛藤は物心ついたころから目の当たりにしていた。静かで優しい父は黙認するしかなかった。 
 
 ものを思うと取り憑かれたように書き始める母。何を言おうが通じない。囲碁や釣りや庭いじりを好み知人や親戚の面倒や相談にのり人柄の良い学校の先生だった普通で穏やかな父だった。そんな母に距離は置きながらも資金的援助を怠たってはいなかった。 
 
 父の命がその時を迎えようとしていると主治医からの連絡を受けて母が熊本から水俣の病室に駆け付けた。 
 「作家としてこれたのは全てあなたのお蔭でした」 
 と、母が父の耳元で言った。僅かに父が苦笑いしてうなづいたような表情を見せた瞬間に父の生涯は報われたと思った。 
 
 三月二十四日、水俣で「おくりびとの集い」を催して頂いた後、水俣の実家の仏壇に母の遺骨と位牌を父のその横に並べて置いて手を合わせた。 
 
 母は患者の皆さんや支援者の皆さんに寄り添いながらも逆に支えて頂いたおかげで生きて参りました。これまで母のそばに寄り添って下さったすべての皆様に心から感謝と御礼を申し上げます。 
 
平成三十年四月 
 
*この記事は、本願の会の会報「魂うつれ」第73号(2018年5月)からの転載です 
 
<「本願の会」とは> 
 
 「水俣病事件は近代産業文明の病みし姿の出現であり、無量の生命世界を侵略しました。その『深き人間の罪』を決して忘却してはならないと訴え『魂魄の深層に記憶し続ける』ことを誓って、平成6年(1994年)3月『本願の会』は発足しました。その活動は、生命世界の痛みを我が受難として向き合い、対話と祈りの表現として、水俣湾の埋立地に会員の手彫りによる野仏(魂石)を建立し続けていきます。現代における『人間の罪責』、その行方は制度的埋め立てによって封印されてはなりません。いまを生きる私たち人間が、罪なる存在として背負う以外に魂の甦りはないと懸命の働きかけを行っています。」 
 これは、水俣病情報センターのパネルに会員が書いた紹介文。 
「本願」があるからといって特定の信仰を持つ宗教団体ではないのは当然のことだが、従来の裁判や政治交渉とは異なる次元で水俣病事件を核にした「命の願い」を「表現する」人々の緩やかな集まりである。運動体でない。 
 発足時のメンバーには、故田上義春、故杉本雄・栄子夫妻と緒方正人さんら水俣病患者有志、それに石牟礼道子さんが名を連ねている。それから20余年、現在は石牟礼さん、緒方正人、正実さんらが中心となって野仏を祀り、機関誌『魂うつれ』の発行を続けている。 
 祀られている野仏(魂石)は55体。『魂うつれ』は季刊で発行、1998年11月の創刊。 


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