2018年12月22日21時07分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201812222107346

文化

[核を詠う](275)波汐朝子歌集『花渦』から原子力詠を読む「核マーク付けし原発の扉(ドア)のまへ放射痕ある胸騒ぐなり」  山崎芳彦

 今回読ませていただくのは波汐朝子歌集『花渦』(雁書館、2004年5月刊)だが、福島の歌人である著者は、まことに哀惜に堪えないが、今年9月10日に逝去(享年89歳)された。朝子さんの夫である波汐國芳さんから喪中のお葉書をいただいて知ったた。「失った妻の存在は何物にも代え難いものではありましたが、ともに歩んだ日々を胸に抱き心持ち新たに新年を迎えたいと存じます。」と記され、また「波汐朝子が歌人として病に負けずに闘い抜いた記録『花渦』より一首をしたためます。」として、朝子さんの歌、「ダムのため削がれし山の痛み知る片乳のみの吾なればこそ」があげられていた。筆者は、電話で失礼ではあったが心からのお悔やみを申し上げるとともに、歌集『花渦』についておうかがいしたところ、さっそくお送りいただいた。波汐朝子さんには、國芳さんにお願いごとの電話を差し上げた時、何回かお声をお聞きすることがあっただけだが、この連載の中で歌誌『翔』を読ませていただいきた中で朝子さんの短歌作品を読み、感銘を受けることが多かった。波汐朝子さんのご逝去はまことに口惜しく、悲しい。 
 
 この連載の前回(歌誌『翔』の原発詠を読む〈2〉)の標題に、「三十三年前癌に克ちたる吾なるに又も癌とは被曝のゆゑか」を記させていただいたが、その作品は『翔』第63号(平成30年4月発行)に掲載されたもので、「『われよりも先に逝くな』と卒寿をば越えし夫より鞭打つことば」という歌も並んでいた。33年前に乳癌の手術を受けられ、厳しい闘病を乗り越えられたのだが、それから約30年を経て、また発病を告知され治療を受けられていることが『翔』第60号(還暦号)の散文特集に「負けてたまるか―短歌との出会いから得たもの―」と題して記されている朝子さんの文章で読んだ。 
また、朝子さんの歌「ダムのため削がれし山の痛み知る片乳のみの吾なればこそ」(『花渦』所収)は、朝日新聞に大岡信がコラム「折々のうた」を連載していたとき、歌集『花渦』を取り上げて紹介し、「短歌という定型短詩が人生の一刻を記録するのに絶好の詩形であることをありありとつげる作品が並んでいる。」と評したことに朝子さんは感激したことも記している。 
 
 歌集『花渦』には、波汐國芳さんの「跋」が記され、行き届いた「道案内」をしてくださっている。その中には朝子さんが短歌と向かい合う真摯で誠実な姿をほうふつと浮かび上がらせる文章がある。 
 「著者の短歌における出発は昭和五十九年に結社『潮音』に入社してからであり…以来、無欠詠を継続してまいりました。とくに昭和六十三年には乳癌により左乳房を切除し、五か月間も入院生活を送ったのですが、そうした過酷な環境の中においても作歌から離れることがなかったばかりか、手術前後のベッド上においてさえ、詠草を清書しているのを目の当りにいたしました。今にして振り返れば、その姿は遠くに光って見えるようであります。『よく頑張ったね』と短歌に対する姿勢について、褒めてやりたい思いでもあります。」 
 
 「一口に闘病などと言いますが、それはいかに自分自身に克つかということでもあります。それは弱い自分を励ますもう一人の強い自分を育む必要があるわけで…言ってみれば歌の心でありますが、闘病という日常の次元を詩の次元に変換するための意識でもあります。このことによって、著者も病に打ち克って今日まで来られたのだと思います。…こうした試練によって、著者の作歌における視座も変わってきたように思います。つまり、痛みを抱く身という主体で連帯感的に物を見る目ができたということであります。」 
 
 もっと多くのことを、歌集のなかの作品を引いて、波汐國芳さんは妻の朝子さんの歌業について語っている。そして、この歌集上梓以後も、この9月まで歌人・波汐朝子さんの作歌は続き、多くの実りを豊かにしてきたことを思うと、再び癌による苦難と福島の地で闘い、逝ってしまったことを無念に思わないではいられない。 
 
 そのような歌集『花渦』から、筆者の読みによって原子力詠のみを抄出するのは、403首にのぼる波汐朝子さんの心に沁み、感動を呼ぶ短歌作品を収録している歌集の紹介とは到底言えないものになる心苦しさに、筆者は苛まれる。故人になってしまわれた歌人にとどきようもないが、お詫びしながら、抄出をさせていただく。なお、2011年以後に発行された歌誌『翔』(第35号〜64号)に掲載された波汐朝子さんの作品からの原子力詠も記録させていただく。 
 
 ◇波汐朝子歌集『花渦』の原子力詠◇ 
 
チェルノブイリ被爆の人ら癌病むを癌体験のわれが想ふも 
 
術後八年経(た)てど未だに足竦む核マークある骨検査室 
                      (以上「闘病」より) 
 
核マークつけし原発の扉(ドア)のまへ放射痕ある胸騒ぐなり 
 
ヘルメット・核防護服渡されてこれから宇宙へ発つがごとしも 
 
発電の轟音のなか働ける人らの耳は貝となりゐき 
 
原発の社員が原発の安全性すべるがに説くを吾うべなはず 
 
原発の町潤へど住民の怖れ深まるか又も核事故 
 
訪ねたる地熱発電のとびらなり核マーク無きに吾は安堵す 
 
マグマの熱盗める地熱発電にマグマの悲鳴を聞きし思ひす 
 
地熱発電の蒸気を見つつ有珠山の噴煙思ひ心騒ぐも 
 
原爆の被爆日またも巡りきて冷夏と言へど祈り熱しも 
                   (以上「核マークに怯ゆ」より) 
 
原爆の雲に重ねしダリの絵に半世紀前の廣島が顕(た)つ 
                   (「四季雑歌」より) 
 
赤鬼とののしられたる被爆者が曲りし指をふるはせてをり 
 
義弟作「一九四五、八月六日」の観劇に甦りくる原爆への怒り 
                    (「炎鎮まらず」より) 
 
 
 ◇歌誌『翔』第37号〜64号所載の波汐朝子原子力詠抄◇ 
 
故里の原発ゆゑに夫が憂ふ歌あり歌が現実となりぬ 
追ひかくる如き原発の放射能に避難してゆく故里人ら 
原発の風評しるく観光客めつきり減りて寒き福島 
去年の秋植ゑし青菜よ放射能浴ぶれば花を愛づるほかなし 
               (『翔』第36号、平成23年7月発行) 
 
わが庭のさつきの花もセシウムを吸ふや怪しく冴ゆるくれなゐ 
放射能浴ぶると知りて丹精の青菜食はねば菜の花ざかり 
夕暮れの芙蓉の花の真白さもセシウム吸ふや怪しく光る 
生業のりんごづくりの友齧るセシウムりんご売れざるものを 
放射能入れてはならぬと真夏日に窓締めゐるを何時迄続く 
福島に子等も孫らも曾孫らも来るなと告げねばならぬ寂しさ 
この夏は福島の家に帰れぬと息子は招く那須へわれらを 
               (『翔』第37号、平成23年11月発行) 
 
乳癌の術後二十年放射能免疫なるぞと庭に下りたり 
草抜かむと庭に下りたる吾を怒鳴る夫は鬼の顔さながらに 
子等が住む東京迄も放射能あるとし聴けば心痛むも 
               (『翔』第38号、平成24年1月発行) 
 
セシウム値未だに高きわが住まい行政までも知らぬふりなり 
目に見えぬセシウム怖し福島の若き親らは避難さす子を 
セシウムに野菜作れぬ畑なれば花の球根あまたねかせり 
セシウムを含む雪をばすつぽりと被る球根の芽よ這ひあがれ 
               (『翔』第39号、平成24年4月発行) 
 
わが庭の牡丹の花セシウムの溢れて咲けば窓越しに愛づ 
つくしさん陽を浴び風うけ幸せね外で遊べぬ児らと比べて 
わが庭の柿の実れど食べられぬ悔しさあまり枝伐り落とす 
セシウムをたつぷり吸ひし蘭の花凍死させじと家に入れたり 
花好きのわれが廊下に入れたるをセシウム迄もと夫は苦笑す 
               (『翔』第40号、平成24年7月発行) 
 
夕顔の白き大輪の花々よわが庭中のセシウムを吸へ 
セシウム値高きわが庭の柿と枇杷、柚子さへ熟れて落つるが哀れ 
子も孫も曾孫も近づかぬこの夏を夕顔の花よ呼んでくれぬか 
朝々の目覚めを呼びにきし鳥らセシウム故か今年も寄らず 
放射能検出されぬ桃、ぶだう未だ子等へは送るをためらふ 
               (『翔』第41号、平成24年12月発行) 
 
丹精の夕顔咲けり数多なる花々被曝の闇に点るも 
庭の辺の柿の実・柚子もセシウムに侵されてをりや鳥らも寄らず 
この秋も福島りんご売れざると農らが嘆く風評嘆く 
離れ住む孫迄夫の歌集読み原発事故への怒りを云へり 
               (『翔』第42号、平成25年1月発行) 
 
原発の事故より二年経ちたるも「仮設」の人ら未だ還れず 
一向に除染進まぬこの町ぞ窓あけられず野菜も作れず 
人住まぬ飯舘村ぞ庭を覆ふ枯草揺れて物言ふ如し 
セシウムを含む柚子の実採らざれば朝日を浴びて怪しく光る 
風評に売れぬりんごを食べよとてどさりと配る農の友なり 
スーパーに古里の魚あらざれば他県の魚を購ひ帰る 
この庭にわが舌充たす干し柿の味覚を絶やすセシウムなりき 
               (『翔』第43号、平成25年4月発行) 
 
道の辺に生えしつくしが頑張れと列つくりつつ吾に笑みかく 
セシウムの減りしを知るや小鳥らが庭木の末に囀りてをり 
被曝して二年経たればやうやくに朝の目覚めに小鳥らの声 
               (『翔』第44号、平成25年7月発行) 
 
原発の汚染水漏れに故里の水揚げいよいよ遠退きゆくも 
古里の海開きとふを諾へず食へぬ魚泳ぐ それでもいいか 
原発の風評ここ迄登りしやホテルの幾つ閉ざししと聴く 
オリンピック招致にまでも翳おとす原発事故の政治に焦ら立つ 
               (『翔』第45号、平成25年11月発行) 
 
庭占むる夕顔の花被曝禍に沈める吾を励ます如し 
セシウムのゆゑか今年も夕顔の花白々と大輪あまた 
除染とぞざつくり庭土剥がされむ眠れる球根助け出さねば 
               (『翔』第46号、平成26年2月発行) 
 
被曝より三年経つも離れ住む子等へりんご送るをためらふ 
昨日雪今日また雪に埋もれつつ除染進まぬを焦立ちてをり 
大雪にわが庭すつぽり埋もれて除染遠退き人影もなし 
               (『翔』第47号、平成26年4月発行) 
 
家々の庭に積まれし汚染土のシートの蒼が人寄せつけず 
除染より守りし薔薇の花溢れこぼす香りに癒されてをり 
被曝より三年経つも福島の山菜食めず汚染のしるし 
除染とて地面削がるるに線量値下がらぬは地下深く沈むゆゑ 
被曝より三年経つも孫曾孫未だ呼べざる福島に生く 
食べられぬ柿の木ばつさり伐りたるをその切り口の牙むく如し 
               (『翔』第48号、平成26年7月発行) 
 
除染より逃れし芙蓉ぞつくりと芽を立ち上げて力むがごとし 
この夏も芙蓉の花の真白きが一際冴ゆるはセシウムゆゑか 
僅かなる月影にさへ削がれたる汚染土の山怪しくひかる 
わが庭の汚染土の山隠さむと咲かす夕顔の花溢れたり 
被曝より四年目迎へ四歳の曾孫を招くセシウム減りしと 
               (『翔』第49号、平成26年11月発行) 
 
原発への六号線なり事故よりぞ四年目にして開通となる 
大熊町へは何度も講演に行きし夫開通を聞き車走らす 
人住まぬ大熊町は死の町か白きすすき穂怪しく揺るる 
汚染土の山を隠しし夕顔のつる枯れ果ててむき出しの庭 
五色沼の観光ホテル閉ざされぬ原発風評が坂登り来て 
庭の土入れ替へされしを逃れしかむらさき群るる野紺菊の花 
               (『翔』第50号、平成27年2月発行) 
 
被災より四年経たるも風評の消えぬと嘆く農の友なり 
原発の汚染水をば又しても海へ流すとぞ心波立つ 
被災して五年迎ふるわが庭に汚染土の山でんと居座る 
               (『翔』第51号、平成27年4月発行) 
 
四年目の被災の映像延々と続くに吾のまなこ乾けり 
わが庭の柿の実と柚子四年経つも未だセシウム検査通らず 
雪消えて山の汚染も消ゆるなら湖の青さに染めたきものを 
               (『翔』第52号、平成27年7月発行) 
 
汚染土の山隠さむとわが庭に植ゑし夕顔怪しく灯る 
町中の庭の美観を損ねゐる汚染土の山消ゆるはいつぞ 
               (『翔』第53号、平成27年11月発行) 
 
歌会への農道に沿ふ稲穂の波年毎に減り農らも減るや 
汚染土の山を隠しし夕顔の蔓枯れ初めて青シート見ゆ 
何時の日かセシウム抜けむとわが庭に残しし枇杷ぞ今花ざかり 
               (『翔』第54号、平成28年1月発行) 
 
暖冬の雪なき庭に汚染土の居座りをりていらだつ日々ぞ 
被曝より五年経てども除染まだ進まず怒りのやりどころなし 
虎落笛仮設住宅ゆ聴こえきて被災者たちのうめきの如し 
斑なる仮設の灯火に胸痛し孤独死といふも増えてゐるらし 
故里へ未だ戻れぬ被災者ら故里の祭り夢に見るらし 
               (『翔』第55号、平成28年4月発行) 
 
熊本の地震に波立つわが胸か原発なくて本当に良かつた 
原発の被災いつ迄わが死後も延々と続くや哀れ福島 
わが庭の色とりどりの花の中汚染土の山汚点のごとし 
被曝五年未だ福島の山菜にセシウムあれば姿見られず 
セシウムの未だ消えざるわが庭に朝採り野菜笑む日のありや 
               (『翔』第56号、平成28年8月発行) 
 
汚染土の山隠さむと巡らせし夕顔の蔓がわが庭を占む 
庭の辺を歩む雀らよろめくかセシウム入りの枇杷食みしゆゑ 
セシウムの無き庭戻るは何時の日ぞ朝採り野菜の味を思へば 
被爆せし広島に癌の多きこと被曝福島に諾ひてをり 
一つだけ残りし乳房受け皿に医師の告知をさらりと受けぬ 
               (『翔』第57号、平成28年11月発行) 
 
原発の事故が閉ざしし六号線開通なりしに行きて確かむ 
人住まぬ大熊町の不気味さよ白き穂芒怪しく揺るるを 
被災より五年余経つも福島へ未だ戻れぬ人多しとふ 
何時の日かセシウム抜けると残し置く柿柚子の実の稔るも空し 
汚染土の山隠さむと這はせたる夕顔の蔓枯れしが哀れ 
               (『翔』第58号、平成29年2月発行) 
 
夕顔の蔓枯れ果ててわが庭の汚染土の山むき出しの冬 
何時の日かセシウム抜けると残しおく柚子の実今年も検査通らず 
セシウムの抜けざる庭にこの春も花溢れよと球根を植う 
被曝より六年経つも福島の土剝ぎ落とす除染作業ぞ 
被曝より逃れゆきしを菌などと侮られゐるわれらの仲間 
卒寿なる夫が上梓の歌集なり福島の今を生きる証しと 
短歌に生き数多の本を上梓せる卒寿の夫は吾のほこりぞ 
               (『翔』第59号、平成29年4月発行) 
 
被曝七年避難解除の村なれどフレコンバッグ置きざりのまま 
被曝より七年経てど好物の山菜未だ口に出来ぬも 
三十年前一つの乳房になりたるを癌は身ぬちに飼ひならししか 
独り立ちしたる子のため夫のため生きたし病ひにまけてたまるか 
               (『翔』第60号、平成29年7月発行) 
 
寒き夏 夕顔の蔓伸びなやみ汚染土の小山覆へざるなり 
夫受けし文学館賞の鬼の面夜な夜な吾は睨めつこする 
八・一五の夫の講演聞きたしと思へど病みてゆけぬ悔しさ 
文学館賞受けし夫が吾ゆゑとおだてて短歌にのめり込ますも 
               (『翔』第61号、平成29年12月発行) 
 
被曝より七年を経てわが庭の汚染土の山やうやく消えぬ 
汚染土の山消えたるもわが庭に小鳥の囀り未だ聞かれず 
今年また柿の実柚子の実検査をば通らず捨つるこの空しさよ 
新薬に命永がらふ吾なれど副作用なる痛みはつらし 
卒寿なる夫に院内運ばるる車椅子なる吾目を伏せる 
               (『翔』第62号、平成30年2月発行) 
 
被災七年経てど山菜食べられぬ福島に未だ山は戻らず 
汚染土の山消えたるもその跡の怪しき気配に近寄り難し 
三十三年前癌に克ちたる吾なるに又も癌とは被曝のゆゑか 
「われよりも先にゆくな」と卒寿をば越えし夫より鞭打つことば 
被曝より七年経つもわがめぐりセシウムゆゑに小鳥ら寄らず 
               (『翔』第63号、平成30年4月発行) 
 
被曝より七年を経てやうやくにわが庭辺より汚染土消えぬ 
いつの日か検査通らむと残し置く枇杷の樹にして光る枇杷の実 
福島の山菜この春も食べれぬを長野ゆ届く笑みさへ入れて 
               (『翔』第64号、平成30年8月発行) 
 次回も原子力詠を読む。              (つづく) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。