2019年03月06日14時13分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201903061413253

文化

[核を詠う](280)藤田光子歌集『つるし雛』から原子力詠を読む「夫や子に会へるまではと被爆せし母は地獄の二十日を生きし」  山崎芳彦

 今回読む藤田光子歌集『つるし雛』(短歌研究社、平成23年8月刊)は、前回の「蒲原徳子短歌集『原子野』から原子力詠を読む」に際して記した、友人から送っていただいた2冊の歌集のうちの一冊である。広島への原爆投下によって母、妹を失い、弟も火傷を負う、さらに多くの学友の原爆死という悲惨を体験した著者は、「わがために勤務代りて原爆死せる学友に生かさるる日日」と詠っているように、辛うじて被爆を免れて「生かさるる日日」に出会った短歌創作(七十歳近くになって居住地の埼玉県飯能市の短歌教室に入会)の中で竹山広の『とこしへの川』を読み、さらに「先生から『書くことにより死者への鎮魂にもなるのだ』と言われ…」、限られた人にしか話さずに来た広島原爆にかかわる体験を短歌表現しつづけたと、歌集の「あとがき」で記している。その作品は「死者への鎮魂」と共に今を生きる人々、これからを生きる人々への反原爆・反核の訴えでもあると筆者は思う。 
 
 著者は福岡市で生まれ、父の転勤で京城(現ソウル)の公立第三高女に入学、昭和十九年末に父の転勤で帰国し「父は大阪へ、母とわたしたち弟妹は広島に疎開し・・・」、広島への原爆投下による母、妹の死、弟の火傷、そしてさまざまな道程を経て生き、81歳にしてこの歌集を上梓したのだ。歌集に収められた多くの作品の中から、原子力詠として筆者が読んだ作品を抄出させていただくことになるが。筆者は著者である藤田さんの懸命の生が紡いだ多くの作品に心を揺さぶられているのだが、ここでは原子力詠に限っての抄出、記録をさせていただくことに耐えなければならない。 
 著者の藤田さんについて作品を通じてしか知ることがない筆者なので、歌集に「跋」を寄せられている著者の師である歌人・綾部光芳氏の文から藤田さんについて書かれている部分を抽かせていただく。 
 
 綾部氏は「跋」の冒頭で藤田さんの「慰霊碑の原爆名簿に名はあれど遺骨なきまま眠るいもうと」をはじめ6首の歌を揚げた上で次のように記している。 
 「藤田さんの…広島の自宅は、爆心地から二キロ程のところにあったという。八月六日午前八時十五分に原爆が落とされたとき、自宅にいた母、そして自宅の近く広瀬小学校五年生の妹も原爆の強い放射能を浴び、また中学校二年生の弟は広島駅の近くにいて、顔半分と手を火傷し、いえにかえれずにいたところを従姉妹と出会って命拾いをしたのだという。」として、妹、母の被爆死の悲惨を詳細に、藤田さんからの聞き書きであろうが、記している。「妹の恵子は、朝礼のとき、原爆が落ちたので、近くの川に飛び込んだものの、溺れそうになったとき知り合いの人に引き上げられて、布団を被せられたというが、しばらくしてから布団をめくったところ絶命していたという。」、「強い放射能を帯びた黒い雨を浴び、川に飛び込んだ母は助けられたが、…病院に収容され、…二日後の朝、友人宅から工場に戻った著者は、偶然、母に会い、妹の死を聞かされたそうである。もし、著者が母を探して爆心地近くを探し歩いていたら、多量に浴びた放射能でとうの昔に生命を落していた筈である。被曝してから、母は二十日後に亡くなったが、最後まで意識があったという。そうした意味で、母に助けてもらったのだと、著者は回想するのである。」 
 
 「今ここに生きゐるわれは原爆に亡くなりし人より賜はる命」という藤田さんの歌などを抽いて、綾部さんは藤田さんが被爆を免れた経緯についても記している。「当時著者の通っていた県立広島第一高女では、生徒の半分が学校へ行き、半分は学徒動員の工場で働いていたという。八月六日の早朝、工場のある向洋(むかいなだ)駅へ向かおうと横川駅で待っていたとき、到着した列車は満員で、とても乗れそうになかったが、学生さんが著者の背中を押して乗せてくれたものの、自分は乗ることが出来なくなり、見送ってくれたそうである。たまたま、この日は、友人が著者に代わって学校に行ってくれて、著者は工場に行ったが、原爆投下で友人は亡くなり、見送ってくれた学生も被爆したようであるが、その後の消息は不明であるという。何れにせよ、著者は二人のお陰で生命を得たのである…。」 
 
 綾部氏の「跋」は、さらに藤田さんの生と歌について記して多岐にわたるが、七十歳近くになって作歌の道に足を踏み入れて、「多くの人々によって生命を与えられたという感謝の意識のもと、最近になって、ようやく過去の体験を思い出しながら少しずつ歌にし、また体験した一部を語れるようになったのだという。…著者の体験してきた深い思いに触れ」てほしいと読者に呼びかけている。 
 
 筆者はこれまで、この「核を詠う」の連載を続けることによって、広島・長崎の原爆にかかわる多くの短歌作品を読ませていただき、さらに福島原発の過酷事故の被害、苦難にかかわる作品も読ませていただいているが、過去を詠った作品と思って読むつもりはない。現在、未来に繋がって人間の、自らの生き様を確かめる短歌作品として受け止めていきたい。 
 
 藤田光子さんの原子力詠作品を読み・記録したい。 
 
 ◇いもうとよ◇(抄) 
慰霊碑の原爆名簿に名はあれど遺骨なきまま眠るいもうと 
 
幾度も母の名呼びて力つき果てたる妹よいづこの岸に 
 
わが孫の育ちゆくさま爆死せる妹を重ね偲びつつをり 
 
 ◇駈けぬけた日日◇(抄) 
ローレライひそかに学友と合唱す冷たき壕へ避難せし日に 
 
君が代を直立不動で歌ひたり軍国少女は疑ひもなく 
 
永遠の沈黙の中に塗りこめし死者の想ひをわれは忘れじ 
 
 ◇音戸◇(抄) 
夫のため介護に過ごす義妹のまがりたる背をいとほしくみる 
 
原爆の炎に灼かれ晩年を難病となりて耐ふるおとうと 
 
足おもくゆきたるわれはその倍のおもき心で別れ告げたり 
 
 ◇「ごめんね」◇(抄) 
目を閉ぢて原爆に遇ひし日に戻り思ひ出づ生と死の一瞬の差を 
 
巡りきたる原爆の日にわれひとり亡きひとたちを偲び過ごしぬ 
 
原爆に母と妹を失ひしは遠き日ならずわれ生きゆかむ 
 
儀式なく母の柩を八月の陽に灼かれつつ吾は見送りし 
 
原爆の日に亡き母と妹の歳数へゐるわれこもりゐて 
 
原爆の日は妹の命日なり口に出さねどチョコを供ふる 
 
十月十七日の生まれたる日も迎へ得ず八月六日に妹は死す 
 
蒼天に湧きあがるごときキノコ雲あの日と同じ今日の青空 
 
夫や子に会へるまではと被爆せし母は地獄の二十日を生きし 
 
「ごめんね」の言葉のこして逝きし母 十六歳のわれと十四歳の弟遺して 
 
命をば失はんとしつつ残しゆく見守る子らに母は詫びゐき 
 
子をのこし旅立てる母の心中を子や孫を持つ今しみじみ想ふ 
 
母の歳の倍近く生き古希過ぎぬ母の護りか今日の日あるは 
 
母の日に子より届きしプレゼント吾は眼裏の亡母に花買う 
 
 ◇ふるさとの島◇(抄) 
おとうとの車椅子押す吾にして細き項(うなじ)の髪乱れ見ゆ 
 
「楽にして」と難病に臥す弟は動かざる身を嘆き口にす 
 
原爆で一度死にたるその身体六十年もの余生を生きて 
 
 ◇縮緬◇(抄) 
夜更けて受話器の向かうに聞こえくる沈める声にふと身構へる 
 
長く病む弟看とる義妹にはげまし言へずただ「すまない」と 
 
坂道をころがるごとき病状を術(すべ)もなくきく受話器握りて 
 
「おかあさん」弟はもはや天国の母の許へと往きつ戻りつ 
 
十四年の母との暮らしはあらざるに病の床で母を呼ぶとふ 
 
おとうとは五十九年を経てもなほ吾には母の名を口にせず 
 
もう充分苦しみ生き来し弟の別れのときを思ふはかなし 
 
逝きし人らを偲ばんとしてつくる雛指にことさらやさしき縮緬(ちりめん) 
 
 ◇ヒロシマ◇ 
夏来たりまたも迎ふる原爆の記憶に深き祈りをささぐ 
 
八月六日朝の時刻に黙祷す助け得ざりし被爆者のため 
 
真夏日の雲なき空のあの朝に閃光走り湧くキノコ雲 
 
原爆の落ちたるときに妹はただ甘受せり死の洗礼を 
 
五十九年経て遺骨をば発掘すと新聞にあり似島(にのしま)の地に 
 
夾竹桃咲く学舎に登校しわが友は被爆しつひに帰らず 
 
原爆受け友はヒロシマの記念碑に名を連ねをり少女のままで 
 
二年にも充たざる暮らしのヒロシマは十字架になり裡に立ちをり 
 
八月は辛かりされどわたくしが母より生れしは遠き八月 
 
夾竹桃咲く駅舎にて列車待つ動員学徒は本読みて居し 
 
制服の胸につけたる標識の血液型のみAと覚ゆる 
 
われよりも先に行けよと言ふ彼は満員列車へと背を押しくれぬ 
 
お互ひにそ知らぬふりして別れたり思ひは深し八月の朝 
 
乗り遅れ次を待つ間に被爆せり彼は何処に 生きて欲しかり 
 
顔さへもおぼろとなりて名も知らず出合ひしひとの俤さがす 
 
 ◇供養◇(抄) 
通夜の席亡き弟の愛したる〈夜空のトランペット〉の曲流れをり 
 
おとうとを詠みたる短歌を書き写し四十九日の供養となせり 
 
瀬戸内の墓に葬むる弟の骨壺抱くわれに花散る 
 
再びは何時訪れむ瀬戸内の山辺の墓に海風の吹く 
 
 ◇ひとり身◇(抄) 
今日もまた猛暑となりぬ妹と母を奪ひし八月六日 
 
今ここに生きゐるわれは原爆に亡くなりし人より賜はる命 
 
 
 ◇韓国へ◇(抄) 
原爆の日より六十二年過ぎ残りし者も老いゆかむとす 
 
原爆の劫火に追はれ十歳の子は八月の川へ入りにし 
 
 ◇天寿◇(抄) 
原爆を投下せしといふ機長死す訃報読みをり九十二歳と 
 
正当性を掲げ天寿を全うす彼には辛き思ひ出ありや 
 
 ◇遠き思ひ出◇(抄) 
被爆せる衣服は写真に甦り世に問ふ展示なせる人あり 
 
原爆に果てたる母と歩みゆく夢見しわれは幼顔して 
 
 ◇敗戦少尉の兄◇(抄) 
〈昭和二十年八月六日被爆死〉と花無き墓碑に刻まれてゐる 
 
塀越しにたわわに咲けるさるすべり廃墟の街に残りゐし花 
 
ヒロシマの炎暑に喘ぎ重き足引きつつ帰る飯能までを 
 
 ◇遠き日々◇(抄) 
足裏(あうら)には今も熱きを記憶せり母葬りたるヒロシマの夏 
 
原爆はたちまち夏の陽を隠し光熱の矢は君倒したり 
 
小さき虫手首に這へど叩き得ずそつと放ちぬ妹の忌に 
 
 ◇脇役◇(抄) 
はらはらと欅の落葉ふり積り原爆の碑を包みて眠る 
 
わがために勤務代りて原爆死せる学友に生かさるる日日 
 
「過ちは繰り返しません」墓碑銘に十歳の子のあやまちとは何 
 
 ◇木の芽起こしの雨◇(抄) 
若くして身罷りし母の面影は古希すぐるわれに眩しくみゆる 
 
亡き母の倍の時間を生かされぬ写真の母は若き顔して 
 
 次回も原子力詠短歌を読む。            (つづく) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。