2019年03月20日21時41分掲載  無料記事
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私の昭和秘史(8) 夢もロマンも漂っていた 昭和初期の“流れ”を変えたのは ダレだったのか 織田狂介

 昭和11年2月15日は夕刻早くから夜にかけて、降りしきる小雪が、やがて夜にかけて、私たちの住んでいた横浜の港街は、降りしきる小雪が、やがて夜には吹雪のように激しく荒れ狂っていた。私の父・彰次は、この年48歳、横浜市史員として市の電気局(現在の交通局)に勤務していた。私は小学校2年生(磯子小学校)、私の記憶によると、そのころの父は市電やバスの乗務員ではなく、確か磯子電気局で「監督」という職掌に就いていたことを覚えている。性格は温厚、妻や子たちに優しい人柄であり、そのくせ鼻下に髭を生やし、なんとない威厳を備え、私から云わせれば“自慢の父”そのものの人となりだったといえよう。 
 
そんな父だったから、幼い心のでの記憶でも「妻を叱る」とか「夫婦げんか」をするといったことでの思い出は全くなかったし、私たち子供(私と3歳違いの弟)に対しても、およそ手をあげたり、叩いたりされたという記憶はない。そういう父が、なぜかこの日、つまり2月25日夜から翌る日にかけては、まるで別人のごとき面持ちで私たちにも接し、いつも通り晩酌の支度をする母に対しても、何やらブツブツと叱音めいたことを漏らしてつづけ、さすがの母も様子が違って、すっかりあわてて困惑した表情であったことを覚えている。 
 
 そんなことから、晩酌のピッチもいつもとちがって、かなり急ピッチのようだったとみえ、親子4人いつもなら和やかな夕餉の楽しい語らいもないまま、またたくまに2本、3本と空徳利がお膳の上に並ぶような按配だった。外は夜風とともに激しく降り続く吹雪が、そんな父に符節をあわせるが如くだったのを鮮烈に覚えている。そんなころ、いきなり父が母に対して、「おい、そろそろ一升ビンが空になるそ。いまのうちに酒屋に行って買っておきなさい」と云いだした。 
 母もさすがにこのときは、「お父さん、少し飲みすぎですよ。それにこの雪ですからひょっとしてもう酒屋さんも店を閉めてしまっているかも知れませんよ」と、いつもの調子で受け答えしていたが、この時の父は、なぜか厳しく冷たかった。「とにかく今夜は私は少しわけがあって、もう少し飲む。行って店が閉まっていれば諦めるが、まぁ、ちょっと行ってきなさい」。 
 
 そんな父と母のやりとりを聞きながら、この時私はすくっと立ち上がって「母さん、ぼくが行ってくるよ。外の吹雪の様子も見てきたいんだ」そう宣言するなり、あわてて後を追う母に「大丈夫だよ。それに父さんに酒を飲ませたいんだ」と、母から一升徳利と雨合羽を受け取りなり、なにか不思議な使命感みたいなものを感得したような、妙な高揚した気分になって激しい雪の中に出かけていった。 
 いまでも、このときの情景が、はっきりと私の脳裏に描き出される。それは60年余り経た今でも鮮やかな、まるで墨絵のような一幅の絵のように、私のこの両瞼に焼きついて離れない。この夜の吹雪は、そのころの横浜ではめったにない激しいもののはずだったし、長靴どころか10余歳の私なぞ、へたに転べば、それこそ「雪に埋められてしまう」ほどのものだったが、私ははっきりといって、私にはその夜の父の興奮と惑乱みたいなものが、そのまま私に乗り移っていたのではないかと思われるほど高揚していた。幸いなことに近所の酒屋はまだ灯りが点されていた。顔見知りの主人夫婦が、それこそびっくりするような顔で出迎えてくれ、「よし、重たいから、この徳利はわしが持っていってやろう」そういいながら、ほうびになにがしかの「一銭銅貨」をポケットに入れてくれたのを覚えている。その夜更けから暁方にかけて、父と母がどうなったのか、私たちがどう眠ってしまったのかは、まったく記憶にない。 
 
 その翌る朝8時ころ、いつも通り小学校の正門に入ったところに、何やら大きな帖り書きが掲げられてあり、校長や担任の先生たちから「今日は事情があって臨時休校します。詳しいことは家に帰って、お父さんやお母さんから聞いて下さい。みんなは少しも心配することはありませんよ」ということがあり、それにしても、私たちは一体なにがあって、どうなってしまったのか、さっぱりわけのわからなぬままの「2・26事件前夜」であったということであった。ただ、私に印象づけられたことは、あの降りしきる吹雪の前夜、なぜ父は私や母たちに異常な昂ぶりをみせて深夜に至るまで深酒に酔いしれたのであろうかということ。そして、慎ましやかな母が、そうした父の鬱屈した心情をまるで理解していたかのように対応していたのは、なぜだったのか・・・ということである。 
 
長ずるに及んで、私はかなり詳しくこの2・26事件への記録やその成り立ち、さらには多くの史家や研究者たちのまとめあげたものを克明に読了して、調査と分析を行ってきたが、その一つである『昭和史』(遠山茂樹・藤原彰共著=岩波新書版)によると、「この2・26事件の陸軍の青年将校によるクーデターの気配は、すでに警視庁でも憲兵隊でも察知していた。2月12日には青年将校の一人が公然と警視庁襲撃の演習を実施して問題を起こしていた。19日には、三菱本社秘書課から『栗原中尉一派から、25日ごろ重臣襲撃を決行する』との情報が、東京憲兵隊に知らされ、同憲兵隊では直ちに軍首脳の護衛と青年将校らの尾行に当たったが、それ以上の手段は講じられなかった」と記述されているところをみると、事件は1週間以上前から、かなり緊迫した状況下にあったことが、一部の関係者たちを通じて一般社会にも漏れていたことがわかる。従って、なんらかの方法、あるいは人間関係を通じて、私の父が「このことある」を知っていたとしても決して不思議ではない。ただ、それがどういう手づる、あるいは人間関係に因るものかを、ぜひ私としては知りたいとところなのである。 
 
≪プロフィール> 
織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 
『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。 


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