2019年03月23日14時29分掲載  無料記事
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私の昭和秘史(10) 「蹶起部隊」から「反乱軍」へ 天皇陛下 何と云ふ 御失政でありますか・・・  織田狂介

 さて、ここではまず『2・26事件』について記録されている多くの関係者たちの文書や日誌の中から、果してこの事件が本当に多くの一般国民(生活に苦しんでいた農漁民や市民たち)の貧乏な生活を救うための「世直し運動」であったのか、どうかを究明しならその真相に迫ってみたい。そのためにまず、さきに引用した『昭和史』(岩波新書)が記述している事件の概況を再録しておきたい。 
 
—―「クーデターの成否は3日間にわたってわからなかった。2月26日午後8時すぎに簡単な陸軍省発表があり、ラジオ、新聞号外によって国民ははじめて事件の勃発を知らされたが、その後も陸軍省発表以外の報道は、すべて禁止され、28日にいたって数百人の部隊が騒擾に加わったことが明らかにされた。反乱軍から要望事項をつきつけられた川島陸相をはじめとする軍首脳はあわてふためき、部内の対立もからんで一貫した方針を打ち出すことはできなかった。 
 26日の午後3時には、「1.蹶起の趣旨に就いては天聴に達せられあり。2.諸子の行動は国体顕現の至情に基くもと認む。(以下略)という陸軍大臣告示が出されたが、27日午後3時半には、閣議の決定で「赤色系(革新活動を行うマルクス・レーニン主義者)分子等の盲動を未然に防遏(ぼうあつ)する目的」と誦して「東京市に厳戒令を施行」し、軍部は行政権を掌握したうえ、反乱部隊をそのまま厳戒部隊に編入した。このことは、事態は反乱軍のプログラムである厳戒令施行、軍事政権の樹立にむかってすすんでいるかに見え、(この段階で)反乱軍は企図の成功を夢みていた。 
 しかし28日になると事態は一変した。まず海軍がさきの陸軍大臣告示に抗議し、連合艦隊を東京湾上に終結して示威の体制をとった。天皇は側近の重臣たちが殺されたことから、反乱軍の鎮圧を軍部に強く命じた。政界、財界リーダーもクーデターをよろこばなかったこともちろん、事件の真相を知り始めた国民も、こうした反乱軍に対して共感を示そうとしなかった。28日午前6時「占拠部隊に撤兵を命ずる「奉勅命令」(註:天皇の命令)が出された。その後の荒木(貞夫大将=青年将校が最も信頼していた)らはもとより、川島陸相、香椎浩平戒厳司令官らも、その実行をためらったあげく、29日の払暁から反乱軍の鎮定を開始はじめた。 
陸軍当局の発表は、当初の「蹶起部隊」から「占領部隊」「騒擾部隊」に、さらに「反乱軍」へと変転した。反乱部隊の下士官、兵の大部分に対し、「今からでも遅くはないから原隊(元の部隊)に帰れ・・・お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」という有名なビラがまかれ、ラジオ等による放送がおこなわれると、大部分の下士官、兵たちは、たちまち帰順した。将校たちにしても、同じように熱狂的な「天皇主義者」であったから、いざ自分たちが「反乱軍」として扱われるとわかると、戦意を失ってなかには絶望の余り自殺したり、投降するものがあとを絶たなかった。こうして、世のいうところの2・26事件は、千四百余名の兵力を動員しながら、あっけなく終わりを告げた。このことは、日本におけるファシズム支配をうちたてるうえでの天皇の機構とイデオロギーが果たす強大な役割を示すものであった・・・以下略」(『昭和史』より) 
 
 この2・26事件の世にいわれる首謀者が陸軍大尉磯部浅一だったことは、多くの史家・識者たちの認めるところである。この人物のことについては、『磯部浅一と2・26事件』(河出書房新社)の著者である山崎国紀氏がいちばん詳しく記述しているので、この著書の中から特に私が感銘した部分を再録、引用して、私の考え方との合一点をみつけ出していきたい。 
 
 まず、その第一点である「2・26事件勃発―その4日間」についてだが、山崎氏は次のように描写している。―「運命の2月26日の早暁。磯部は興奮と緊張で一睡もせず、午前3時すぎ麻布歩兵第一部隊第11中隊の下士官室に赴いた。将校は磯部のほか、香田、丹生、村中(蹶起部隊の首脳将校)がいた。下士官が続々と集まって来た。全員揃ったところで磯部と村中大尉が紹介された。続いて丹生中将から甲高い早口で、「蹶起趣旨書」が朗読された。 
 『謹ンデ惟ルニ我神州タル所以ハ』から始まり、難解な熟語が羅列される。『内外真ニ重大危急、今ニシテ国体破壊、不義不臣ヲ誅戮シテ、稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除スルニ非ンバ広漠ヲ一空セン・・・』下士官たちには祝詞を聞いている気分である。『皇祖皇宗ノ神霊翼クバ照覧冥助ヲ垂シ給ハンコトヲ』、やっと終わった。一瞬緊張が解けた。丹生はさらに『尊皇、討奸』『尊皇、斬奸』の合言葉と同志の者は長靴の内側に「三銭切手」をはりつけているので識別するように通達した。(引用ここまで) 
 
 ここで若干の私見を述べさせてもらうことにすると、この昭和10年代における日本の政界、財界、官界の状況は、—―明治末期から昭和10年代にかけては、三井財閥が「政友会」、三菱財閥が「民政党」と、この二大財閥が、それぞれ二大政党の政治資金を分担することによって政治権力の収奪、和合の操作を繰り返してきた。つまり、二大財閥の“談合”によって国家の政策を丸ごと買収する体制が全盛を極めていたというのが、まぎれもない事実だった。しかし、国民一般の生活は農山漁村をはじめとする窮乏が、まさに悲惨の極みに達していたし、生活苦のために“人身売買”は、若い女性たちの紡績工場での酷使から、遊郭や料亭、飲食街などでの売春に至るまで、その深刻さはいまの世に至るも“哀史”として語り継がれているほどのものである。 
 
 そういう状況を真剣にみつめ、憂いたのが、この当時の陸海軍の青年将校たちだったといえる。殊にこの2・26事件の首謀者とされる磯部大尉にしても、他の多くの将校たちもまた、決して恵まれたエリートとして陸軍将校になったのではなく、自ら貧農の子として生まれ育っているという背景もあり、その燃えるような正義感と、この世を正しく革新していこうとする意図には、些かの不純さもなかった。『蹶起趣意書』のいう― 
内外真に危急存亡の秋、今にして不義不臣の癒着した政財界の首脳者たちを倒さなくては、この祖国日本を救う道はないとする意図には、まったくの同感と共鳴を今でも痛感するほどである。 
 
 この2・26事件の失敗、挫折こそが、こののち二大財閥にかわって、軍部、商工省を中心とする新しい政治権力としての「革新官僚」と誦する得体の知れない妖怪変化として形成され、軍需産業、重工業の分野で力を増大しつつあった新興の成金コンツエルン、さらには中国大陸や海外での侵略と謀略に結びついた「政商」などといった新しい“闇の勢力”の台頭をみることになっていくのである。問題なのは、こうした状況を全く「知らしめられず」しかも「全く無作意に(自らの意志を持っこともなく)」彼らの台頭に手助けをしてしまったのが、実は『昭和天皇』自身だったのではないかと、断じざるを得ないのである。 
 
 人によっては、『昭和史』(岩波新書)は、左翼的偏向の強い執筆者によって綴られているので、そのまま鵜呑みにすることはできない—―と指摘しているが、どちらかといえば右翼的傾向の強い私などは、むしろこの『昭和史』のほうが正鵠を得ているように理解している。同書では、日本ファシズムの特色について次のように記述している。 
 
 ――「日本の軍隊は、天皇すなわち大元帥みずから統帥する『天皇の軍隊』であることを誇っていた。天皇の権威を絶対とし『上官の命を承けること実は朕(天皇)か命を承る義なりと心得よ』(軍人勅諭)とすることによって、軍隊は厳格な階級の別と上級者への絶対的服従とで固められた。同時に軍隊外での地位の高下、貧富の別が一切持ちこまれず、国民ひとしく『陛下の股肱(ここち)』(同じ部下)として兵役にしたがう『国民皆兵』のたてまえとなっていた。だから、軍隊は一君万民を直接結びつけるきずなであり、国民本来の姿がここにあるとの考え方がとられていた。その意味で軍隊は理想社会であり、軍隊外の社会は、軍隊用語では『地方』ないし『娑婆(しゃば)』といわれ一段と劣ったものとの扱いを受けていた。こう教えこまれることで、国民は、軍隊内での非人間的な扱いに苦しんだ経験をもちながら、それとは別に軍隊を神聖化し、これに信頼感をもたされてきた。また、日清戦争、日露戦争の勝利の歴史は、国民に対する軍隊の権威を高めた。 
 ドイツ・イタリアのファシズムとはちがって、独自の大衆組織をもたなかった日本の右翼は『国家改造』のクーデターの断行には、軍隊、軍人の力をかりなければならなかった。またそうすることで、国民の信頼、国民に対する権威をかち得ようとした。軍隊における天皇と国民の関係を、そのまま実現しようとする企図が、資本主義の矛盾にたいして何がしかの『革新性』をもつかのごとき幻想を、国民の間にもある程度いだかせったのは、軍隊の特質の一つが前途のように一君万民的たてまえだったからである。また『国民の天皇』を説いた北一輝(右翼民族運動の指導的役割を担っていた)の『日本改造法案大綱』(1919年発表)が、軍隊精神にこりかたまった2・26事件被告の青年将校にバイブル視されたのも、この故であった。 
 
 しかし、現実の天皇は、あくまで軍部・官僚の支配階級機構にのった存在であり、『尊皇討奸』を叫ぶ彼らが、反乱軍として討伐の勅令をうけるという皮肉な結末となった。われわれは破壊に任ずるのみで、建設の具体策を論ずるのは『大権干犯』であるとした天皇絶対の考え方は、結局、軍上属部に依頼することとなり、その結果は上層部の『裏切り』に涙をのむという悲惨におわった・・・」(以上原文のまま) 
 
 
≪プロフィール> 
織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000 
『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。 


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