2019年08月05日00時04分掲載  無料記事
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文化

フランクフルト学派の研究者、マーティン・ジェイ教授(歴史学) 科学や技術が進化しているのになぜ人は幸せになれないのか

  ドイツのフランクフルト学派は、神話を否定し啓蒙の立場に立った近代人がなぜナチズムに吸収され、反ユダヤ主義やホロコーストという究極の排外主義や反人間的な思想に陥ってしまったかを研究した学派です。平たく言えば、人間は科学の進歩とともに古い迷信から抜け出し、生産性を上げ、医療も進歩でき、そのことによって究極の幸福にたどり着けるはずだった。それがなぜ、未だに貧困や憎悪、戦争にまみれ、さらには自然を破壊しているのか。いったい、どこに誤りがあったのか。近代を進めた啓蒙の中に何か間違っていたものがあったのか?こういう問いの立て方が根底にあります。確かに謎ですよね。そして、その行きつくところが民族絶滅や障碍者絶滅のガス室だったとしたら、笑えない話です。 
 
  アドルノとホルクハイマーによる「啓蒙の弁証法」はこの学派の1つの象徴的な刊行物です。テレビやラジオ、映画などの大衆向けの「文化産業」への批判も特徴です。彼らの多くが第二次大戦中は米国に逃れて活動していましたが、戦後、再びドイツで彼らのよりどころだった「社会研究所」を復興し、活動を再開しました。 
 
 「『ユダヤ人財産のアーリア化』政策は、どのみちたいていは上流階級のふところを肥やすだけで、第三帝国の大衆にとっては、コサック兵たちが掠奪したユダヤ人居住区から引きずってくる見すぼらしい獲物以上の利得を、ほとんどもたらしはしなかった。現実に得られたものは模糊としたイデオロギーだった。現実に得たものが経済的には空虚だということが証明されても、民族主義的な救済政策の魅力は減ずるよりもむしろ高まるということが、その真の性格を示している。すなわちその救済政策は、人間を助けるのではなく、人間のうちにひそむ絶滅への衝動を助長するものなのだ。国民大衆が当てにしている本来の利得は、自分の憤怒を集団によって聖化してもらうことである。それ以外に得るものが少なければ少ないほど、いっそうかたくなに、人はより正しい認識に逆らって、大衆運動に加担するようになる」(『啓蒙の弁証法』V「反ユダヤ主義の諸要素〜啓蒙の限界〜」より) 
 
  こうした記述を読むと今の時代にも通じるものがあるような気がします。よりどころを失った人々や貧困者の増大と排外主義の高まりです。社会に激しい憎悪が噴出しています。しかし、決定的に違うのは現代人は第二次大戦の帰結を知っている、ということです。その帰結を知っているうえで同じ選択をしているのだとしたら、一回目の人々よりももっと歴史における犯罪行為に関して確信犯であるということになります。醜い悪の道と知りながら、自覚して選び取ったことになります。つまり、第二次大戦の時よりもはるかに罪が深い行為です。ニーチェは永劫回帰の思想の中で人間の更生の可能性を示したとされますが、現代人は進化よりも誤りの反復を自覚的に選んだとしたら、いったいなぜでしょうか。フランクフルト学派の啓蒙の限界に関する理論的研究も、現代において更新され、書き足されていく必要があります。 
 
  下のビデオのリンクはフランクフルト学派についてカリフォルニア大学バークレー校の歴史学者、マーティン・ジェイ(Martin Jay)教授が語るものです。特に思想史、知識人の歴史に焦点を当ててきた研究者です。このインタビューでは演劇の革命家、ブレヒトが絡んでいることも特徴的です。 
https://www.youtube.com/watch?v=OqRnnJnm3T4&fbclid=IwAR2Yhze6zkteUfGmxPgJ0E1gaj9CZTzDhQsy2n1421LNCE9QU3rW-NGOMVc 
I- Brecht and the Frankfurt School 
  ブレヒトとフランクフルト学派 
 
II- The Frankfurt School and the Left 
  フランクフルト学派と左翼 
 
III- Brecht-Adorno Debates 
  ブレヒトとアドルノの論争 
 
IV- Brecht and Adorno's Critique of Lukacs 
  ブレヒトとアドルノによるルカーチ批判 
 
V- On Modernism in the Arts 
   モダニズムと芸術 
 
VI- The End of the Frankfurt School 
   フランクフルト学派の終焉 
 
  フランクフルト学派のメディア批判は、今日のインターネット時代、そしてグローバル資本主義の時代に合わせた理論に革新していく作業が必要でしょう。特に従来型の放送産業と始まったばかりのyoutubeなどによる個々人がUPする現場の映像の間の情報価値における拮抗をどう描けるかが興味深いところです。そして、排外主義を克服するには近代の誤りの理由を直視し、それを改めるほかにありません。小文字のジャーナリズムではなく大文字のジャーナリズムが、小文字の社会学ではなく、大文字の社会学が今、求められています。社会学者にはまだ大きな仕事が残されているのです。 
 
 
※参照「啓蒙の弁証法」(岩波文庫) 
 
 
 
■イヴァン・ジャブロンカ著「私にはいなかった祖父母の歴史」  社会科学者が書く新しい文学 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201908021535275 
 
■イヴァン・ジャブロンカ氏の日仏会館における講演「社会科学における創作」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201906250215032 
 
■空族の新作は禅の僧侶たちの葛藤を描いた「典座」(富田克也監督、相澤虎之助共同脚本) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201907301247142 


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