2019年11月28日14時23分掲載  無料記事
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文化

[核を詠う](286)『平成三十年度福島県短歌選集』の原子力詠を読む(2)「中間貯蔵の一部となりて住み慣れし我が家もついに処分されゆく」 山崎芳彦

 前回に引き続き『平成30年度版福島県短歌選集』から、筆者が原子力詠として読んだ作品を記録させていただく。福島原発の過酷事故によって立地地域のみならず福島県の枠を超えて広範な地域の人々をはじめ生命をもつ動植物、自然環境が深刻な危険にさらされ8年余を過ぎた今もその危機は人々の生活、心、健康を苛んでいる。福島歌人の作品は、懸命に原発事故の地で生活し、不安や様々な苦難に直面しながら、その心を詠っている。筆者も心を込めて読みたいと思う。 
 
 「福島子ども健康プロジェクト」(代表・成元哲中京大学教授)は、2013年から毎年1月に福島県中通りの9市町村(福島市、郡山氏、二本松市、伊達市、本宮市、桑折町、国見町、大玉村、三春町)に居住する2008年4月2日〜2009年4月1日生まれの子ども(6191名)とその母親(保護者)を対象にした「原発事故後の親子の生活と健康に関するアンケート調査」を続けているが、「親子の生活と健康がどのように変化していくのかを、お子さんが成人するまで定期的に調査を続け、次の世代に伝えていきたい」とするこの活動は、まことに貴重なもので、筆者は同プロジェクトのホームページから、調査報告、アンケートの自由回答欄の「声、意見」、その他の資料(「中京大学現代社会学部紀要」への掲載論文など)を読ませていただいて、多くの示唆を受けてきている。ここでその詳細を記すことはできないので、関心のある方は「福島子ども健康プロジェクト」のホームページへのアクセスをお勧めしたい。 
 
 同プロジェクト代表の成元哲氏は2018年5月臨時増刊号『現代思想』(青土社刊)(総特集・石牟礼道子)に、「福島の母親の声と響きあう石牟礼さんの言葉」と題して寄稿し、その中で同プロジェクトの調査を踏まえて詳述しているが、「三・一一後、われわれ『福島子ども健康プロジェクト』は福島県中通りの親子に向き合ってきた。地震、津波、原発事故という『非日常』から、ゆっくりと『日常』へ戻りつつあるが、放射線量も人々の意識も事故前の状態に戻ったわけではない。(略)七年が過ぎた今でも『もし原発事故さえなかったら』と、何度も繰り返し思う福島の親子と相対するとき、かつての水俣の海と患者への石牟礼さんの『祈り』が甦ってくる。」と記し、同プロジェクトの調査結果を踏まえ、母親の声を多く紹介し詳しく述べていて読みごたえがあった。紹介されている母親の声を一部を抽貸せていただく。 
 
 「『もし原発事故さえなかったら』と、何度も繰り返し思う。(略)原発事故後、素人の母親は子どもを守るため、情報を必死に集め、自己責任で行動を選択することを強いられた。引越しもし、家族の形も変わり、結果、母子二人で実家に戻り、現在に至る。ささやかな日常の中にあった輝いていた仕合せが懐かしい。」(2016年の調査より) 
 
 「一〇年後、二〇年後のことが不安になってきています。子どもたちが病気にならないでこのまま元気でいてくれることを願うばかりです」(2015年調査より) 
 
 「子どもの甲状腺ガンのことが一番心配です。いつも『A2』(超音波検査により、20ミリメートル以下の結節が認められた状態)の判定なのですが、今後、どうなっていくのか。甲状腺ガンの子どもたちも見つかっているようなので、早く、原発事故との関係を調べてほしいです。(略)」(同) 
 
 「五年たったというのに、庭にはまだ除染した土が埋まっているし、線量もずっと下がらない。除染は、終ったというが、全ての場所が安心とは言えず、それがこれから私たちにどのような影響を与えるのか不安である。しかし、いつまでも不安とばかり言ってはいられないし、生活もしていかなければならない。(略)」(2016年調査より) 
 「少しでも線量が高い所には居させたくない気持ちから、学校での体育・外遊びもしばらく制限してきました。私自身とてもストレスになりました。(略)親もつらい決断でしたが、子どもにもつらい我慢をさせてしまったと親も子も涙でした。子どもの心に何か影響を与えてしまったのか、私の決断が良かったのか…福島に住む人はそんな不安や悩みを抱えながら今でも暮らしています。まだ終わらないのです。郡山に住む私たちの家が原発事故の補償対象になることを望みます。」(同) 
 
 「六年経つといっても、原発問題がおさまることはなさそうなので、県外に引っ越すか、いまだに悩んでいます。しかし、子どもたちが学校の先生や友達から原発のことでいじめられているのをニュースで見ると、避難したからといって、安心に暮らせるわけでもなさそうなので、悩みは尽きません」(2017年調査) 
 
 「五年。長く暗いほら穴にいるような年月が流れました。でもまだ始まったばかり…子どもたちの成長を思えば、たったの五年ですね…。避難者は住宅補助打ち切りを前に、大きな分かれ道に立っています。私の避難した地域に来た人たちのほとんどは、同じ地域または近くの地域に家を購入し、根をはりつつあります。中には、その選択も、変える選択もできず心の病気に陥るお母さんもいます。さまざまな選択を受け入れられる社会であってほしいです。そして私たち家族はこの春帰郷する選択を選びました。苦悩の日々の結果です。うれしくもありふあんでおしつぶされそうでもあり・・・。でも違う意味で肩の荷を下ろしたいです。」(2017年調査より) 
 
 福島原発事故が人々に与えた苦難の一端というには、将来も見えない、まことに深刻な、多様な問題の中での人々の思いである。これらの声をまともに聞こうともせず、答えようともしない安倍政権・原発推進勢力の罪は重いし、さらに大きく深い反人間的な原子力社会への回帰を許してはならないと思いつつ、読ませていただいた。 
 
 さらに筆者は、この成元哲氏の文章のなかで紹介・引用されている、アメリカの社会学者カイ・エリクソンの言辞に強い感銘と共感を受けた。筆者は、カイ・エリクソンについての知識は皆無であり、その文献に接したこともないので、成元哲氏の紹介をそのまま引用させていただく。 
 
 「かつてアメリカの社会学者カイ・エリクソン(Kai Erikson) は、現代社会の技術的進歩を象徴する原子力発電所における事故を〈新しい種類の災難(new species of trouble)〉と名づけた。自然災害からわれわれを守ってくれる技術的な進歩は、専門家が技術的災害と呼ぶ、全く新しい種類の災害を作り出したのだ。技術的な災害とは、システムが機能しなくなったり、人間が失敗したり、エンジンが点火しなかったり、設計が間違っていたりして起こるものである。そういう意味で技術的な災害は、いわば人知を超えた制御不能な領域だが、現代の技術文明の中では『想定外』などではなく、『ノーマル・アクシデント』(通常事故)である。」 
 
 「カイ・エリクソンは、自然災害と技術的な災害という軸と、有毒と無毒という軸をクロスさせ、水俣病や原発事故のような有毒な技術災害は次のような特徴を持っているという。第一に、人間の手によって引き起こされた災害であり、原理的には防ぐことができる。そこには被害者の怒り、教訓、責任帰属が発生する。第二に、有毒な技術災害は静かなる毒性を持っているため、持続する不安、不確実性と制度的信頼の喪失を伴う。第三に、こうした新しい種類の災難は、災害ユートピアならぬ、集合的トラウマをもたらす。すなわち集合的トラウマとは、社会生活の基盤を作っている有機的な組織に対する打撃である。それは、人と人を結ぶつながりを損傷し、それまでの人びとの間に浸透していた連帯意識を傷つけ、共同性の喪失をもたらす。」 
 
 成元哲氏の文章から長い引用をさせていただいてしまった。お許しを願う。不行き届きについてはお詫びしなければならない。 
 
 福島の「復興」「安全」を原発再稼働、原子力社会への回帰を目指すために唱えている政府・原発マフィアの流す情報がいかに虚偽に満ちているかは、たとえば事故原発の「廃炉」とは何か、その定義すらないのが実態であることによっても明らかではないだろうか。「廃炉」というとき、たとえば未だにその実態も取り出しも明らかでないデブリ、核汚染物質、核汚染水、中間貯蔵施設、原発跡地などがどうなっているのか、これからどれほどの年限を想定するのか…国民に説明もせず、合意も形成されないままに「福島の復興」を宣伝し、各地の原発再稼働をすすめていることは許されない。「原発ゼロ」を明確にしなければ、福島の教訓は生かされない。 
 
 『福島県短歌選集』の作品を読んでいく。 
 
 "踏み出せば明るい明日が待ってる"と萎える私に風送る君 
 
公園に一夜城のごと囲い出来原発汚染土の積み替えの基地 
                        (2首 斎藤信子) 
 
折り紙の雛(ひいな)を渡してくれたるは悲傷の春を知らぬ六歳 
 
三月の空をはるばるときてひかる雪と雨とはにおいがちがう 
                        (2首 斎藤芳生) 
 
バリケードに阻まれながらようやくに辿りつきたる吾町吾家 
                        (坂本美智子) 
 
あの日から防護の服に事故の処理脱げる日遥か健康であれ 
                        (佐藤長子) 
 
事故八年なお無いというフクシマの梨探すとう横浜の兄は 
                        (佐藤紀雄) 
 
被災地の地産地消の道の駅米と生花等種類少なし 
 
飯舘の暗き道路に空き家多くフレコンバッグ山積みに有り 
 
飯舘の帰還村民少なくて共同店舗の計画止む 
 
山菜の出荷制限続きゐてタラの芽等もハウス物なり 
 
農業の後継ぐ者も少なくなり花桃植ゑて里に人呼ぶ 
 
寒き夜に毛布一枚与へられ避難所の床に丸まり寝ねき 
 
物資来ずに期限の切れしパン齧り水を求めて十日過ごしき 
                        (7首 佐藤峰子) 
 
広島の鯉城仰ぎて独りごち原発事故の語り部なるを 
                        (三瓶弘次) 
 
避難せし我を励ます色紙二枚思ひ出と共に会津より届く 
                        (三瓶利枝子) 
 
核事故に風評いまだ晴れやらぬふくしまの地に豚飼ふわれは 
 
福島産の競り始まればさりげなく席はづすとふ買参人は 
 
「島さんのコシヒカリが食べたい」と励まし呉るる足寄の友の 
                        (3首 島 悦子) 
 
もうすでに七年の過ぎ震災を忘るる時あり今日誕生日 
 
放射能に脅かされし日々のこと傘寿の集ひの今日は忘れぬ 
                        (2首 杉本慧美子) 
 
中間貯蔵の一部となりて住み慣れし我が家もついに処分されゆく 
 
幾千の思い出残る我が家は跡形もなく除染土の山 
                        (2首 杉本征男) 
 
花こぶし揺れゐる庭より除染土が運び出さるる 七年を経つ 
                        (鈴木こなみ) 
 
駆け抜けてどこへ行かんとする月日震災過ぎて七年目の春 
 
春の光庭に集めて福寿草除染の後の土に咲きをり 
                        (2首 鈴木紀男) 
 
完熟のトマトは旨し憂ひなく丸かじりしたる故郷思ふ 
 
草花は何処の家も消え失せて一本残る木槿はな咲く 
 
小半時立ち寄るだけのわが家よ旅人のごとく表札を見る 
 
家跡に立ち尽くしをり夢現くちなし匂ふふるさと浪江 
                        (4首 鈴木美佐子) 
 
去年までは黄金輝きし田の失せて復興団地の住宅棟建つ 
 
復興の遅れが戻らぬ人の増え避難人の家空地埋めゆく 
 
福島に縁ある人の哀しみが岩手の歌集に深く詠まれる 
 
放射能怖れて摘まぬ蕗の薹はや出でし芽を今年は食す 
 
六年経て戻れぬ避難人埼玉に新築為して避難地離る 
                        (5首 鈴木八重香) 
 
幾重にも心の中で詫びながら牛を手離す決心をする 
 
亡き夫の形見と思い飼いし牛老いて別れの今日となりたる 
 
家族とも思う飼い牛万感の思いを込めて屠場に送る 
 
大粒の涙流してトラックに乗りたる牛を日々思い出す 
 
温き肌やさしき眼思い出す屠場に出しし親牛のこと 
 
仔牛との別れの日数かぞえおりわが牛飼いを卒業する日 
 
独り飼いし牛との八年振り返る暑さも寒さも共に過ごせり 
                        (7首 関根キヌ子) 
 
アナタネエヒサイシャナラバ 突然の女の電話は蕗の葉のやう 
                        (高木佳子) 
 
乗客の少なき電車の今しゆく人影のなき被災地の駅 
 
言葉なく帰還困難の町を過ぐバリケードの先を荒草覆ふ 
                        (2首 丹治廣子) 
 
 次回も『平成30年度福島県短歌選集』を読み続ける。   (つづく) 


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