2020年05月03日15時59分掲載  無料記事
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コラム

リゾートホテル蓼科の高原キッチンで 1  原田理(フランス料理シェフ)   

  銀座の就職案件を進めている最中に連絡のあった、かつての同僚に招かれて、僕は就職先の候補となるホテルを訪れました。北軽井沢から向かう途中、山添いの道からは息をのむ南アルプスの情景が開けました。ここは蓼科。長野県茅野市は南信地方にあり、八ヶ岳、白樺湖、蓼科高原、車山など観光資源を多く抱える55000人ほどの観光都市。第一印象は北軽井沢と似ているな、ということでした。標高が高く落葉樹が多い豊かな自然環境。鹿が名物だけあり、100頭ほどの大群にすれ違う幸運にも恵まれました。スキー板を上に乗せた自動車も多く走っています。古くからリゾート地、別荘地として栄えただけあって、そこここに別荘らしき屋敷が並びます。目指すホテルはまさにそんな中にありました。訪れた時は雪景色。このような美しい自然の中にそびえるホテルには長年ここで営業を続けてきた貫禄があります。 
 
  この長野県の茅野市蓼科を妻と部下の3人で訪れた時、「あ、ここで働くのかな」と感じたのが素直な感想です。美しいエントランス。シックな看板。フレンチとブッフェの2つのレストランを持ち、古いが、広い厨房。フレンチのレストランは現在稼働していないが、施設はある。訪れた当時のリゾートホテル蓼科で提供していた料理はオーソドックスなブッフェ料理が中心でしたが、世界的な感染症の影響もあり、現在は和洋折衷のコースに変えました。やはり自分はできるだけたくさんの方に料理を作れる環境のほうが向いているような気がします。メニュを絞って限られたお客様だけに料理を提供することが、自分の料理人生のあり方でないことは前職の失敗の時に痛いほどわかっていますので、ここがいいのだと感じました。ここなら妻も部下も一緒に働ける。勤務日を過ごすことのできる寮もある。何より軽井沢の同僚が3人もいる。待っていた同僚と役員に歓待とホテルの説明を受け、帰路につきました。 
 
  条件が揃うということはこういうことだなと思いました。ここなら軽井沢のときと同じようにチームを作って料理提供ができる。宴会も需要があるし、レストランもある。古いが、広い厨房もあり、この厨房ならかつての仲間たちを呼ぶこともできる。確かに銀座で自分の料理を作ることも理想の一つだけど、ここのほうが戦友たちをはじめ、より多くの人たちと料理の幸せを共感できるのではないか。そう思いました。妻も両親も銀座の件については喜んでくれていたものの、離れてしまう不安は伝わってきていましたし、蓼科であれば、休日は自宅に戻って、求職時のように家や庭の手入れをし、家族に料理を作りながら過ごすことができます。 
 
  「リゾートホテル蓼科」は長野県蓼科で半世紀にわたってリゾートホテル運営を続ける老舗ホテルです。最近になって経営者が変わり、そこに入社した元同僚よりオファーがあったわけです。蓼科着任の際は僕たち夫婦を待っていてくれて、大きく歓迎してくれました。 
 
  帰りしなの車の中でここにしよう。部下と妻との3人でそう話しました。働く場所を決めたら、もう迷いはありません。蓼科のホテルに向かって進むのみです。東京の面接で経営者と対面する予定をすぐに決めました。初めて話すことになる経営者は日本語もわからない中で単身韓国より来日し、日本でEC事業を成功させた、厳しさと優しさの同居する強い目力が印象的な人物だとは聞いていました。リゾートゴルフの流れで彼が宿泊した際に蓼科のこのホテルに一目惚れし、自分の夢だった宿泊事業の基幹ホテルとしてここをやろうと決めたと聞きました。経営権を買い取った際に料理人がすべて去ってしまう状況で、力を貸してくれないかと依頼をいただきました。こういう事態はトラブルですが、経営者が変わるときにスタッフが退職するというのは、業界ではままある話ではあります。厨房の再建は料理長として実力、器量が問われる重要な仕事です。厨房で起こるトラブルを解決する事こそ、リーダーとしての自分が最も得意とする仕事です。俄然興味がわきます。彼から伝わる野心と先を見通す力、自分でホテルをやるという強い意志。話すたびに思うのが、そういったロマンのある大きな人物です。そんな現状やこれからのホテル運営への夢など、有意義な話をたくさんして、盛り上がった面接を経て、条件が決まり、僕は長かった無職の時間に終わりを告げ、ようやくお客様に料理を作る環境に戻ることができたのです。 
 
  新しい総料理長になるにあたって一番の不安は人材でした。先代の五十嵐総料理長より 
 
「ホテルは人なり。人材がいなくては何もできない。お前ひとりの力はどんなに実力があっても限られている。自身の腕に慢心することなく、人材を大事にしろ。お前自身の料理の価値は、お前自身にあるのではなく、育てた人材の数が決める。」 
 
と口酸っぱく言われていましたので、そのことに心を砕きました。なにしろ、新しく入社する僕と部下以外の古参の人材は、僕たちの就職とほぼ同時に去ってしまうのです。着任してからは人材集めの日々です。軽井沢の昔の同僚、東京の昔の仲間、弟、派遣会社各社などに毎日連絡を取り、足りない人材を集めるため全力を尽くしました。僕と部下の料理人2人では約200人分の料理を作り続けるなど物理的に不可能です。古参の人材が去る日までに、最低限レストランを開けられる人材をそろえなくてはならない。五十嵐総料理長の言葉が就寝中にも頭に響きます。ただ、人材集めの連絡は休日に北軽井沢に帰った時にも出来るので、自宅で愛妻に料理を作りながら人材のことを考え、オペレーションに思いを巡らせるのは悪い体験ではなかったような気がします。甲斐あって、ひと月ほどで人材の目途は立ち、やっとスタートへの準備ができるようにはなりました。 
 
  もう一つの不安は和食です。前職の時は和食の料理長がおり、メニュを書いたりせずとも、内容の相談と数値管理をするだけで日本料理のレストランはうまく動いていました。が、ここではメニュ構成から自分でやらなくてはなりません。僕には和食の厨房で働いた経験は全くなく、その上自信もない。それに僕が東京を選ばずに妻と蓼科で一緒に働けることを彼女はとても喜んではいましたが、一点だけ、キッチンの都合で僕がしばらく自宅で食事が作れないことを気にしているように見えました。そこで着任前に自宅で愛妻相手に毎日和食のコースの練習をすることになりました。しばらく間、お預けになる二人の自宅での豪華な夕食を着任前にたっぷり飽きるほどやろうというわけです。 
 
  前菜を作って、刺身を引き、揚げ物、煮物、ご飯もの、水物のコースを短期集中で連日連夜作って二人で食べたものです。西洋料理と違い、器の形も多種多彩、流れも大きく変えることができる日本料理は短期でやるには奥が深すぎて何度も折れそうにはなりましたが、書籍を読んだり、経験者に相談したりし、何とか初歩的なコースを一本作れるようになりました。苦労はしましたが、不安な気持ちを前向きに変えたのは愛妻のほうが先だったのかもしれません。何しろ毎日10種ほどのヘルシーな日本料理が夕食に出てくるのですから。妻は日本酒の燗をして待っているだけで良かった。逆の立場だったなら僕も嬉々として楽しんだことでしょう。このころの妻は僕の四苦八苦をよそに大変機嫌がよかったので、それだけが短期集中日本料理週間の良い思い出です。 
 
 とは言え、やはり上品なコース料理ばかり毎晩のように食べていると、お惣菜らしい和食も食べたくなるものです。そんな時によく作り、二人で仲良く食べたのは、豚バラ肉と大根を醤油風味で煮込んだ煮物です。生姜を効かせて煮ると、柔らかい赤身の豚肉ととろける豚の脂、そのうまみをたっぷり吸いこんだ大根が炊き立ての白米によく合い、いくらでも食べることができるような気がします。フランスでも日本でも、世界中どこでも豚バラ肉を甘めに煮つけた料理は人気があるように思います。 
 
この北軽井沢の家は帰ってくる家として残し、仕事の日は蓼科に泊まる日々が始まりました。こうしてやっと気分的にはブランクを取り戻し、蓼科のホテルの厨房に立つことができました。もちろんこれから起こる世界的な危機は、人材集めに追われていたあのころには知る由もなかったのです。 
 
 
原田理(おさむ)  フランス料理シェフ 
リゾートホテル蓼科 総料理長 
http://resort-hotel-tateshina.jp/restaurant 
 
 
■「嬬恋村のフランス料理」1 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507250515326 
 
■「嬬恋村のフランス料理」2 思い出のキャベツ料理 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507282121382 
 
■「嬬恋村のフランス料理」3 ぼくが嬬恋に来た理由 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508021120200 
 
■「嬬恋村のフランス料理」4 ほのぼのローストチキン 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508131026364 
 
■「嬬恋村のフランス料理」5 衝撃的なフォワグラ 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508272156474 
 
■「嬬恋村のフランス料理」6 デザートの喜び 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509051733346 
 
■嬬恋村のフランス料理7 無限の可能性をもつパスタ 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509112251105 
 
■嬬恋村のフランス料理8 深まる秋と美味しいナス 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509202123420 
 
■「嬬恋村のフランス料理」9 煮込み料理で乗り越える嬬恋の長い冬 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201510212109123 
 
■「嬬恋村のフランス料理」10 冬のおもいで 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201511040056243 
 
■「嬬恋村のフランス料理」11 我らのサンドイッチ  原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201511271650435 
 
■「嬬恋村のフランス料理」12 〜真冬のスープ〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201601222232375 
 
■「嬬恋村のフランス料理」13 〜高級レストランへの夢〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603031409404 
 
■「嬬恋村のフランス料理」14 〜高級レストランへの夢 その2〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603172259524 
 
■「嬬恋村のフランス料理」15 〜わが愛しのピエドポール〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201604300026316 
 
■「嬬恋村のフランス料理」16 〜我ら兄弟、フランス料理人〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201607061239203 
 
■「嬬恋村のフランス料理」17 〜会食の楽しみ〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201609142355513 
 
■「嬬恋村のフランス料理」18 〜 魚料理のもてなし 〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201611231309133 
 
■「嬬恋村のフランス料理」19 〜総料理長への手紙 〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707261748033 
 
■「嬬恋村のフランス料理」20 〜五十嵐総料理長のフランス料理、そして帆船 〜 原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707291234426 
 
■「嬬恋村のフランス料理」21   コックコートへの思い   原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201709121148442 
 
■「嬬恋村のフランス料理」22 原木ハモンセラーノで生ハム生活   原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201711271507321 
 
■「嬬恋村のフランス料理」23 煮込み料理に寄り添う、冬のバターライス   原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201712171327530 
 
■「嬬恋村のフランス料理」24 仲間たちのこと その 1  原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201803031455076 
 
■「嬬恋村のフランス料理」25 仲間たちのこと その 2  原田理(フランス料理シェフ) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201810240545203 
 
■「嬬恋村のフランス料理」 26 再出発   原田理(フランス料理シェフ) 
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