2020年05月07日11時31分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=202005071131114

文化

[核を詠う](303)塔短歌会・東北の『東日本大震災を詠む』から原子力詠を読む(6)「前線からまた前線へ移りゆくやうに福島へ戻りゆきしか」 山崎芳 彦

 6回にわたり、塔短歌会・東北の『東日本大震災を詠む』の歌集、『99日目』、『366日目』、『733日目』、『1099日目』、『1466日目』、『1833日目』、『2199日目』を読み続けてきたが、今回の『2566日目』(平成30年7月刊)を読ませていただくと、本連載(296)の『2933日目』を含め、既刊全冊を読み、それぞれ筆者が「原子力詠」として読んだ作品の抄出をさせていただくことになる。筆者の「読む」力の浅さから、さまざまに迷いつつ、できる限り作品の深さ、広さを、また東北の現実を、人々が生きている真実を「詠む」歌人の真摯さに近づこうと努めたつもりではあるが、作者の方々の果実を傷つけ、収穫し得ない筆者の非力をお詫びしなければならないと、頭を垂れる思いである。それにしても、読み残され、粘り強く継続する歌集に収められた作品のかさなりが、これからもさらに積み上げられていくことを願いたい。 
 
 筆者が「核を詠う」と題して、拙いながらも連載を開始したのも、塔短歌会・東北の歌集の『99日目』が編まれた時期に重なり、多くの人々に支えられ、先達の歌人が遺し、また今も詠い続けている原子力に関わる作品の存在によって今も続いている。これからも続けたいと考えている。広島・長崎の原爆被害、そして福島第一原発の過酷事故の被災、その他さまざまな原子力の被害経験に学ばず、まことに悪辣にも原発の再稼働、原子力社会のさらなる「前進」を加速させようとしているこの国の政治・経済支配権力勢力による止まることのない策謀が続く限り、核による、人々、生命ある万物にとって限りなく深く広い苦難、悲惨、ついには取り返しのつかない事態が起こることは免れないと確信するからである。そのことは、原子力の歴史について学び、紆余曲折はありながらも続いている核廃絶の闘いに学び、小説、詩歌、被害者の記録によって、また原子力の本質を科学的に解き明かしてきた、いる、科学者の発信から学んできたことである。その一端として原爆、原発にかかわって詠う短歌文学を、作品そのものを読むことに、つたなくとも詠うことを学ぶ者のひとりである筆者は取り組もうとして、ほぼ9年、続けてきたのである。何かをなし得ていると思ってはいない。今は亡くなられた歌人、詠い続けている歌人、核廃絶のため闘う人も含め多くの人びとに励まされてきた。これからも励まなければならないと考えている。 
 
 塔短歌会・東北の歌集を読み続けて来て、それが続く限り読ませていただく思いから、なにやら、筆者自身にかかわる、まとまりのないことを書いてしまった。 
 歌集の作品を読みたい。 
 
◇『2556日目 東日本大震災から七年を詠む』(平成30年7月刊・抄)◇ 
「はじめに」大川小学校(宮城県石巻市)を巡る訴訟が最高裁までいくことになりました。大川小では、津波によって、児童・教職員合わせて八十四名が犠牲になっています。津波を予見できたかどうか、その争点は争点として、その訴訟の場からは、さまざまな複雑な思いが見えてきます。裁判に踏み切った遺族。参加しないと決めた遺族、教職員の家族。地域の方々。市や県。受け容れがたい現実という割り切れないものを割り切ろうとするとき、そこに大きな苦しみが伴うことを目の当たりにするばかりです。そのような七年が経ちました。(略)今回の冊子には、「震災後初めて読んだ一首」のエッセイを収めました。震災後の混乱の時間の中、どうやって歌を詠んだのか。それはかぎりなく個別的であり、しかし、どこか似てもいました。 
 
取りかえしつかぬもろもろ万物の長(おさ)をつとめる人間の罪 
 
生存の尽きせぬ進化がおそろしき核に逸れしを誰とめるなく 
 
戦争はごっこにあらず無防備な原発なれば為すすべのなし 
 
闇雲とおもえて哀し再稼働きれいな電気は生み出せるのに 
 
ふるさとを遠くちりぢり悔しさを顔に出ださず堪(こら)えいるらん 
 
現なるゴーストタウン帰れざる人らは街にいまだ拒否され 
 
素晴らしき電気創りしエジソンにはじまるいまの穏やかならず 
 
人智こえ消えぬおそれの奥ふかく燃料デブリという厄介は 
 
原発は時代おくれの感したる廃炉リスクの見合わぬゆえに 
 
宇宙へと科学は住み処をさがしおりこの惑星のすえを見透かし 
                 (10首 宮城県仙台市・歌川 功) 
 (「この惑星」と題する一連10首の作者は随想で次のように書く。「人間社会の営みは、あらゆる人工物の発明発見により造り上げられた中で呼吸しているが、最善と思われ継承されてきたものでよくない結果があらわれだしたとしても、容易に止めたり替えのできない負の一面がある。社会を動かしている巨大な力に対し、個々人は非力だし、どうにかしないとという考えや、未来に向かってこのままではもっとまずい事が起こるんじゃないかと感じても、変革させるにはなかなか及ばない。すでに多くの人が深刻に考えている問題など、解決とは裏腹になお推し進められようとしている。/ふるさとに帰れず、犠牲を強いられて暮らし、年老いていく人々の事を思うと残念でならない。」) 
 
東北本線(ほんせん)と離れ常磐線はいま阿武隈川をきらきら渡る 
 
浜吉田・新地とつぎつぎ新しき駅舎現はれ相馬へ向かう 
 
福島の現実語るとつとつと警察官でありし夫は 
 
 (原発事故により職を失った数多の人々、いづく) 
働けぬ親持つ子らの見る夢は何処にあるらむ 海を見てをり 
                 (4首 宮城県仙台市・大沼智恵子) 
 
七年後七万五千の避難者なほ癒しはあるや難題なほも 
 
君たちが生きてる限り風化は無く甲状腺被曝から七年経つ 
 
まつさきに触れるものから確かめた原爆爆発の大気に怯え 
 
冬終はれどまことの春か八年目圧力容器下うごめくデブリ 
 
人なくばこぼれこはれる故郷よ帰還者少なく被曝の土地は 
                 (5首 宮城県仙台市・尾崎大誓) 
 
アパートの廊下に残る三輪車寒さうで辛さうで蹴りたい 
 
ここでいい、ここで子を産むとその母が県境こえて決めしとふ部屋 
 
補助金を打ち切られればふたたびを逃ぐるやうにして母子帰還せり 
 
帰還といふことば上手に扱へずましてその先のことはわからず 
 
前線からまた前線へ移りゆくやうに福島へ戻りゆきしか 
 
修繕費いくらとれるか問ふ声に参考までにと見積もりを言ふ 
 
ゆふぐれは弱く雪降り避難経路たどるやうにしてわが家へ帰る 
                 (7首 福島県紫いわき市・小林真代) 
 (作者の随想。「東日本大震災と原発事故から七年が経った。この春は、富岡町にある神社の社務所を建てる現場を手伝っている。私の暮らすいわき市からは車で一時間ほど。数年前に鳥居を建てた時はまだバリケードの中だった。今の富岡町は帰還困難区域を除いて帰還が許されている。震災から神社の再建までを記した記念碑が拝殿の前に建っている。/図面のコピー等のちょっとした用事は富岡町の隣の川内村のコンビニへ行く。車で十五分。川内村では仮設住宅の建設を手伝った。その当時より生活は整い、村はとても明るく見える。山に馴染んだかつての穏やかさとは違うが、それが復興ということなのだろう。多分。」) 
 
冷蔵庫ドア裏にあるヨウ素剤この七年をともにこしもの 
 
モニタリングポストすべてに感雨あり平成三十年の一記録にて 
 
日本国よりも遥かになりうると廃炉はわれに眠気をきざす 
 
「原爆のように」津波が消した街 元安川をあたためる雨 
                 (4首 福岡県出身・広島市・田中濯) 
 
温泉の水脈の下にしずもりてラジウム鉱の狂熱かなし 
 
歓楽の地下に進行していしか かつて先端の化学実験が 
 
ゆっくりと死んでゆく温泉街にわき続けいる熱き地の水 
                 (3首 福島県福島市・三浦こうこ) 
 
 『2566日目』の好企画である「震災後初めて読んだ一首」と題するエッセーが、巻末にまとめられている。その中の一篇をしか記すことができないのは残念だが、、収録させていただく。 歌集に収められている歌人たちの一首を、エッセイと重ね、繋げながら読み、歌を「詠む」、あるいは「読む」ことに、おろそかであってはならないと、筆者は改めて思っている。 
 
〇花山周子さん(東京都目黒区在住)の「震災後、初めて読んだ一首」とエッセイ 
 
チェルノブイリが他人事であるということを心を込めて思い来しかな 
 
 「ちゃんと歌になっていたのはほぼこの一首だけで。あとはただ勝手に叫んでいるものが二〇一一年の三月のフォルダに残っていた。 
 私は一九八〇年生まれで、一九八六年四月、五歳の時にチェルノブイリの事故があり、その恐怖はすさまじいものがあった。広島長崎の原爆も、小学校で見せられたフィクションの原爆アニメーションも頭にこびりついた。とにかく、大人になっても、チェルノブイリのチェの字も、原発や原爆、核放射能といった言葉を口にするのも恐れていて、活字で目にするのさえ避けてきた。だから当然、自分で活字に起こす、なんてことは、絶対にしなかった。一度だけ、『ムーミン谷の色彩が嫌 放射能を浴びたる後の視界のようで』という歌を作ってしまったけれど、これは、小学校で見せられたアニメーションが影響している。 
 一九九九年、私が十九歳のとき東海村JCOの臨界事故が起きて、当時私は柏市に住んでいたし、いざとなったらどこまででも逃げようと、事故の成り行きを見守った。 
 
 東日本大震災が起きて以降、私のこれ程の放射能への恐怖がうすらいでいた。津波の衝撃が大きすぎたのだと思う。ずっと呆然と過ごしていたのだが、震災から一週間ほど経った頃に歌を作ろうとした。 
 チェ、ル、ノ、ブ、イ、リ、と。はじめて文字に書きだしたときの感触が今でも残っている。心を込めて思った来たことが終わってしまっていた。 
 それからは私の正常な恐怖心は麻痺していたばかりでなく、この未曽有の災害に対して自分は何者でもないのに、私は、放射能のことばかり恐れている東京の人を軽蔑し、怒りを感じた。津波によってそれどころではない人が今たくさんいるのにと思う。そう思うことはいいのだけれど、良心の顔をした感情が、とぐろのように黒くうずまいて、私は人を許さなくなった。 
 あの当時、自分に憑りついた感情がまるで隣組みたいだったことに後から思い当たった。私は、自分がとてもこわい人間だと気づいた。 
 チェルノブイリの歌といっしょに作った歌がある。この気持ちは変わっていない。 
 ▼いつか行かむと思いいし町なりしが町は消えてしまいたりしが行かむ」 
 
 次回も原子力詠を読む。               (つづく) 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。