2021年03月20日01時02分掲載  無料記事
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文化

『フランス語学概論』のすすめ   小川 博仁(ロマンス語学)

  はじめに、評者(=小川)と本書『フランス語学概論』(駿河台出版社、2010年発行)ならびに共著者との関係についても簡単に述べておくことにしよう。 
 
  評者は2010年4月の刊行時にたまたま店頭で本書を見掛けて購入し、版元に手紙を書いたのが縁で著者の一人の渡邊氏と文通やメイルの交換を始めた。その後の各種の学会などの折りに他のお二人の著者である川島氏や髭氏とも知り合いになつた。10年以上も前に初刷が上梓された書籍ではあるが、評者にとって本書は特別に思い入れのある一冊なのである。 
 
  今回は著者のお一人である髭さんからの依頼で、広く一般読者にも本書を紹介すべく筆を執つた次第である。今回取り上げた本書は、日本の東西の大学で「フランス語学概論」や「フランス語学概説」などと題された科目を講ずる三人の著者たち(髭 郁彦、川島 浩一郎、渡邊 淳也の三氏で、いずれも国内外の大学院で博士号を取得)が、講義でのテキストとして使用する為に上梓した、フランス語学に関連する各分野を包括的に扱った労作である。 
 
  しかし、本書は大学でフランス語学を専門とする学生を相手とする教科書として有用なだけではなく、広く他言語の研究者やさらには一般読者がフランス語およびフランス語圏の言語学を一望する目的にも充分益するものと言えるだろう。そもそも本書は同じ著者らが2008年に別の書名(『フランス語学概説』)で他の版元(三恵社)から刊行した本を基に増補改訂改題して再刊行した新版だということである。旧版『フランス語学概説』に加えて新たに「記号学」の章と人名・事項の両索引が追加されて、一層充実した内容に生まれ変わったようだ (cf. あとがき, p.236)。 
 
 「共著者の三人は、学問的背景、専門領域、研究の方法がそれぞれに大きく違っている」という(まえがき, p.3)。具体的に説明すると、髭 郁彦氏(中央大学他)は「対話理論」や「記号学」が専門領域;川島 浩一郎氏(福岡大学)は故マルティネ(Andre Martinet)流の「形態論」および「統辞論」―平たく言うと「単語や文の仕組みや成り立ちの研究」―を専門とする;渡邊 淳也氏(本書刊行時には筑波大学に奉職していたが、その後に勤務先が変わって現在は東京大学に所属)は「意味論」と(具体的な言語使用に際しての、発話における言語表現とその現実の使用との関係を扱う分野である)「語用論」(に加えて、近年は「コルシカ語学」―佛領のコルシカ島で話される独自の地方・少数言語である「コルシカ語」を研究する学問―も)が専門分野である。 
 
 本書の構成と各章の主な執筆担当者は次の通り: 
 
まえがき 著者一同 
第1章  序論 髭・渡邊 
第2章  フランス語圏 渡邊 
第3章  フランス語史 髭 
第4章  音声学・音韻論 渡邊 
第5章  形態論 川島 
第6章  統辞論 川島 
第7章  意味論・語彙論 渡邊 
第8章  語用論 渡邊 
第9章  記号学 髭 
第10章  文体論 髭 
第11章  社会言語学と心理言語学 髭 
第12章  ポリフォニーと対話 髭 
参考文献 
人名索引 
事項索引 
あとがき 渡邊 
 
  そもそも個別の自然言語毎の「〜語学概論」の類で評者の手許にあるものを挙げるならば、刊行順に:西光 義弘 編 / 窪薗 晴夫 他著1999『日英語対照による英語学概論 増補版』くろしお出版(以下、『英語学概論』と略す);吉田 光演 他著2001『現代ドイツ言語学入門 生成・認知・類型のアプローチから』大修館書店(以下、『ドイツ言語学入門』と略す);高垣 敏博 監修 / 菊田 和佳 他編2015『スペイン語学概論』くろしお出版などの一連の書籍がそうである (日本語学の概論書・概説書に関しては類書があり過ぎるので省略する)。 
 
 『英語学概論』と『ドイツ言語学入門』では積極的に取り上げられている、チョムスキー(Noam Chomsky)一派に拠る北米発の一大潮流である「生成文法 (=[英] Generative Grammar)」理論に基づく統辞論・文法論が『フランス語学概論』や『スペイン語学概論』では完全に無視されており、まったく触れられていない点が目につく―それが一概に「悪い」と言いたいわけではない。事実、フランス語圏にも生成文法家がいたし、彼らの研究が本場たる合衆国における理論形成やその発展になにがしかの影響を与え、幾分かの寄与をしたことも歴史的な事実であろう。スペイン語学はともかくとして、フランス語圏の言語研究がチョムスキー理論の「形式主義」の路線に冷淡になりがちなのは、フランス系の言語学の主流派は「機能」を重視する傾向がある点にも一因があるのではあるまいか。 
 
  また、『英語学概論』の「英語史」(と「日本語史」)、『スペイン語学概論』の「[スペイン]語史」と同様に、本書でも「フランス語史」に章が割かれている。前二者との相違は、『フランス語学概論』の三人の共著者の中には残念ながら「佛語史」/「フランス語の歴史的研究」を専門とする者がいなかった点である。 
「音声学・音韻論」の章についてもまったく同様の事情があって、この点に関して著者らは「まえがき」で「その分野の専門家から見ればなお改善点もあろうかと思う」と断っている。 
なお、後述の『フランス語学小事典』の著者には史的研究、音声学・音韻論や言語哲学などの専門家も加わったことを付記しておく。 
 
  専門用語・術語には対応する元のフランス語による原語(時に英語やドイツ語、ロシア語も)が添えられている点も重宝する―本文だけではなく巻末の事項索引でも日佛両語併記である。 
 また、例示されたフランス語には和訳が付されており、佛語をあまり知らない読者に対しても一定の配慮がなされている点もありがたいものだ。 
 
  ところで、本書はフランス語の学習者や研究者以外の一般読者にも一読の価値がある書籍であるように評者には思える。 
一例を挙げておこう。英語圏でファーガソンが1959年の英語による論文で提唱した(と一般に目されている)diglossiaという社会言語学の専門用語がある。ところが、実はフランス語圏では既にその30年近く前(1930年)に佛語で書かれた論文において、アラビア語社会での「二言語併用」状態の分析にマルセという研究者がdiglossieとして導入していたのだ(p.39)。 
 
 ここに示した例などは、とかく「英語文献のみを読んでおれば事足れり」としている「視野狭窄」になりがちな我が国の多くの研究者や一般読者の目には新鮮なものに映るのではないだろうか。 
ここで、本書の読み進め方の一例をお示ししておきたい。 
 
  フランス語という言語の専門家(を志す学習者)以外の一般読者にとっては、「第1章 序論」と「第二章 フランス語圏」で本書の全般的な知識を概観した後は、むしろ本書の後半の各章―例えば「第9章 記号学」「第10章 文体論」「第11章 社会言語学と心理言語学」「第12章 ポリフォニーと対話」あたり―を先に読み進めてみるのも一つの方策かもしれない。これらの章で取り上げられている内容の大半は、上記の『英語学概論』『ドイツ言語学入門』『スペイン語学概論』ではほとんど取り扱われてはいない「応用的な」言語学の諸分野なのである。これらの章の執筆担当者が上に記したようにすべて髭氏であることは偶然ではないだろう。そもそも、他の言語学の概論書において、ロシア語圏の研究者であるヴィゴツキイやバフチンの名にお目にかかることは先ずはないものだ。 
 話は変わるが、以下には評者が気になった箇所を具体的に幾つか指摘することにする。いずれも些細な瑕疵(かし)に過ぎず、本書全体の価値を貶めるものではないと信じる。 
 
 「第2章 フランス語圏」から見てみよう。 
\こγ罎慮生譴亮腓雰鷲菘分類の箇所(p.29)で「アメリカ・インディアン語族」を立てているが、これはいささか大風呂敷を広げたものだ。北米・中米・南米の諸言語が唯一つの共通祖先から分岐した、と立證し得た研究者は皆無の筈である。 
 
▲侫薀鵐晃譴属するインド・ヨーロッパ語族の「イタリック語派はラテン語に起源を求めることができる」(p.30)というくだりはmisleadingであろう。イタリック語派にはラテン語以外にオスク語、ウンブリア語、ファリスク語などがあり、イタリック語派所属の諸言語がすべてラテン語起源であるという訳ではない。 
 
F韻己任如∪哨蹈泪鵐晃譴涼罎離譽函Ε蹈泪鵐晃豬呂紡阿垢觸言語を、「ロマンシュ語、フリウリ語、ドロミテ語など」としているが、レト・ロマンス語系に所属するのはこの3種類だけなので「など」はまったくもって不要である。 
 
て韻犬、西ロマンス語の内のガロ・ロマンス語系に「フランス語、プロヴァンス語、オック語など」と記されているが、プロヴァンス語とオック語は同じ言語の別称に過ぎない。 
「第3章 フランス語史」からも一カ所指摘しておく。 
 
ネ名な「ストラスブールの宣誓」(842年)がフランス語で書かれた最初の文献(であり、ロマンス語の最古の文献)であることに註を付けて、「ドイツ語で書かれた最初の文献でもある」(p.45f.、脚註7)と記すが、これは正しくない。田中 克彦 & H. ハールマン1985『現代ヨーロッパの言語』岩波新書, p.97から引用する:ドイツ語で書かれた最古の文献(760年頃)は『ラテン語・ドイツ語語彙集』で、冒頭の見出し語にちなんでAbrogansと呼ばれる。 
 
最後に、「第5章 形態論」からも指摘しておきたい点がある。 
Α崟榁羲は語中」の位置に現れるとして、フランス語からの例を挙げている(p.85)が、これも実はよく見かける「誤用」ないし「曲解」の類である。私見によれば、フランス語には「語根や語幹の途中に割って入り込む」ことを特徴とする接辞要素を意味する「接中辞」は厳密には存在しないのではないだろうか? 
 
 なお、本書の2刷が2011年に刊行されており、2010年の初刷に散見された誤記・誤植の幾分かについてはこの重版に際して加筆・修正された部分があることも付記しておく (そして、2018年には3刷が上梓されているのだが、3刷と2刷との異同は不詳である)。 
 
 また、本書『フランス語学概論』の三名の共著者が編著者となり、更にあらたに三人の研究者を著者に加えた『フランス語学小事典』が同じ版元から2011年に発行されている。本書をその姉妹編である『小事典』の該当箇所とを読み比べてみるのも一興であろう。 
 英語系の言語学だけでは得られない、フランス語圏・フランス系の言語学の世界を概観できる本書の一読を是非ともおすすめしたい。 
 
 
小川 博仁(ロマンス語学) 


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