2024年03月28日20時45分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の《秋田県朝鮮人強制連行の記録3》 山歴の古い尾去沢鉱山

 鹿角市去沢町にあったこの鉱山は秋田県でもっとも古いといわれている。最後の所有者は三菱。朝鮮人連行者の他、中国人連行者、東京捕虜収容者から送られた英米人もいた。飯場は1人畳1畳で、布団は南京袋に草を入れていた。 
 
 
連行者の死亡者が不明な鉱山 
 
 秋田県内では最も古く開発されたという尾去沢鉱山だが、「山歴の明らなのは17世紀以降で、1666年(寛文) から史実に残っている」(1)という。盛況を見せたのは近世後期からで 1889(明治22)年に岩崎家を経て三菱の所有となった。 
 1936(昭和11)年と翌年には 「鉱山側技術陣の過信と甘さによる」(2)死者345人、行方不明46人が出たダムの堤防決壊事故が起きている。 
 
 尾去沢鉱山に朝鮮人連行者がいつ頃に来たのかは不明だが、旧厚生省の調査(3)では1944(昭和19)年と翌年で687人が、官斡旋・徴用。 下請の北鹿土建が 自由で34人とあるが、鉱山労務係の児玉政治は3,800〜4,000人と証言しており、あまりにも数字が違う。 
 朝鮮人は 5つの飯場に収容され、 1人が畳一枚 で、布団は南京袋に草を入れていた。 作業は坑内と坑外で、三交替だった。「食事は白米であったが、量が少なく料理は食べさせられなかった。 サメの皮がついたのを煮てあり、腐ったようなにおいが鼻をついた」(3)ので食べられなかった。 
 
 作業所には日本人の監督が一日に2〜3回も見回りに来た。 朝鮮人が掘った所は昔掘った場所で、ハッパをかけると落盤事故がよく起きた。民間の調査(4)では死者が9人で、公傷1人、病気 1人の他は死因は不明とある。 毒ゼリ (4) を食べて2人、 落盤で少年1人が死亡しており、 地元の円通寺に遺骨がある と1975(昭和50)年の調査団調査メモにあるので、秋田県調査団が円通寺へ確認に行った時には住職が「朝鮮人の墓はなく、過去帳も見せられない」と言われた。 
 
 なお、同鉱山には中国人連行者493人 (死亡者78人)の他に、東京捕虜収容所第六分所の英米人約550人が収容されていた。 
 
参考文献 
(1) 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社) 1981年 
(2) 『秋田県警察史』下巻(秋田県警察本部) 
(3)『朝鮮人労務者に関する調査』1946年 1971年 
(4) 東北地方朝鮮人強制連行真相調査団「調査カード」 1975年 


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