2024年04月03日19時36分掲載  無料記事
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文化

野添憲治の《秋田県朝鮮人強制連行の記録4》 十和田湖への導水工事 鹿角市大湯

 働いた朝鮮人は二百から三百人。突貫工事で1日10時間以上働かされた。食料が不足、仕事が終わると山に入り、草を生のまま食べた。敗戦で朝鮮人たちは現場から去り、行く先はわからない。 
 
空腹で草を生で食べた 
 
 鹿角市大湯から十和田湖に通ずる国道103号の中滝から国道104号(秋田街 道)に入って間もなく左手に折れ、広 森川に沿って冷水林道を行くと銚子発 電所の取水路がある。 右側の雑木林の 中にコンクリートの土台が幾筋もある。 川から5メートルほどの高さの所に 15メートル近い穴の入口がある。 
 
 アジア・太平洋戦争に入ると小坂鉱 山は軍需省から銅の増産を命ぜられ、 月平均5千トンが倍の1万トンを要求 された。 そのため製錬所などを増設したが、最も不足したのは電力で 大湯川上流にダムをつくり、 発電所を計画 したが、地盤が軟弱でダムは不向きだった。 
 
 鉱山では銚子第二発電所を計画し、水は十和田湖から入れることにしたが、奥入瀬渓を止めても渇水期には水不足 になる心配があった。そのため、広森川や大湯川の水を発電所や農耕などに使った残りを、隧道を掘って十和田湖に注入して貯水する計画をたてた。(1) 
 
 大湯川や広森川の水を隧道を掘って 十和田湖に入れる工事をしたのが、朝 鮮人連行者だった。朝鮮人の作業の監 督や飯場を運営したのが地元の人たちだった。働いた朝鮮人は約200~300人で、戦時中の突貫工事なので1日10時 間以上も働かされたうえに、食糧は不足した。仕事が終わると山に入り、草を生のまま食べている人が多かったが、 監督たちはそれを見つけると棒で叩く人と、見ても見ぬふりをする人がいた。 朝鮮人に厳しくあたった監督たちは、 日本が敗戦になると逃げて身をかくし、朝鮮人たちが現場から去ってから姿をあらわしたという。 監督をした人に聞くと、怪我をした人はいたが、死んだ 人はいなかったと言っていた。 
 
 工事はかなり進行したが、日本の敗 戦で中断した。朝鮮人たちはその年のうちに現場から去ったというが、行き先はわからない。 
 
参考文献 
(1) 野添憲治編著 『秋田の朝鮮人強制連行歴史の暗を歩く』 (彩流社) 1999年 
(2) 「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」 第6号 1997年 


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