2024年12月11日14時10分掲載
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文化
野添憲治の「秋田県の朝鮮人強制連行の記録」18回 奥州無煙炭鉱の索道 北秋田市桂瀬
阿仁川流域の無煙炭鉱は良質の石炭を出すことで知られていたが、地形が険しく搬出が困難で叺の入れ運んでいた。戦争が始まり必要に迫まれ、朝鮮人を連行して索道をつくった。(大野和興)
◆20メートルの鉄骨を軽々とかつぐ
秋田県内には金属鉱山は多かったが、炭鉱は少ない。県が1951(昭和26)年に発行した『秋田県鉱山誌』には稼行中が七石炭鉱山と報告されているが、阿仁川流域に集中している。その中でも規模が大きく、朝鮮人が働かされたのが電気化学工業の索道工事である。
「七日市坑は明治一七年頃小坂鉱山が採炭に着手したるも搬出困難のため大成に至らざりしと言う。これ当炭田に於ける操業の嚆矢なり」とあり、鉱区は旧前田村、旧七日市村の広範囲に分布していた。
その後は名称も経営者も次々と代わり、1938(昭和13)年に秋田内陸縦貫鉄道の桂瀬駅前に事務所を置いた。それまでは掘った石炭は叺に入れたのを木橇で営林署の森林軌道の積込み場まで運び、それから桂瀬駅前の選鉱所まで運んでいた。選鉱してから鉄道の貨車で発盛鉱山や小坂鉱山などに運んでいた。良質の無煙炭なので需要があった。
電気化学工業では運搬を簡素化するため、前田坑や丹瀬坑などから桂瀬駅前の選鉱所までの総延長17キロに索道を架設することになり、1941(昭和16)年ごろから工事を始めた。その工事に朝鮮人が来た。
「朝鮮人は炭鉱にも来て働いていたので、子どもの時からよく見ていた。ところが電気化学工業で索道の工事を始めると、100人ぐらいの朝鮮人が新しく来た。わたしの家は明利又にあったが、その近くに朝鮮人の飯場が建てられたが、6軒くらいはあった。この索道を作るのは大仕事で、朝鮮人は柱立てをしたが、20メートルもある鉄の柱を楽々とかついで山へ登っていた」(橘本孫蔵)。完成まで2年かかり、明和又鉱山や明利又炭鉱の石炭は索道で連ばれた。朝鮮人は索道が完成しても残っていたが、敗戦後にいなくなった。
参考文献
(1)『東北鉱山風土記』(東北鉱山監督局)1942年
(2)『秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報』第22号2000年
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