2006年05月27日12時07分掲載  無料記事
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「労働・教育運動に生きて80年」槙枝元文自伝

(31)戦後初の党人文相・岡野氏との対決

第6章 戦後教育と組合づくり・12 
 
▽自民党の日教組対策強化 
 
 吉田茂首相は天野貞祐氏が文相を辞任した1952年(昭和27年)8月12日その日に自治大臣の岡野清剛氏を兼任で文相に任命した。岡野氏は元三和銀行頭取で、1949年(昭和24年)1月の総選挙で自由党公認で立候補して初当選し、翌50年6月の吉田内閣第3次改造で自治大臣に就任していた。兼任とはいえ党人文相の出現は戦後初めてだった。 
 なぜ、天野文相が辞任し、岡野氏が文相になったのか。当時、内閣官房副長官だった劒木亨弘氏の著書『戦後文教風雲録』によると、天野氏が辞任する直前の閣議(吉田首相は所用で欠席)で、教員給与の半額を国が負担する義務教育費国庫負担法(8月8日公布)の扱いについて二人が激しく対立したからだった。 
 法案を推進する天野文相とそれに反対する岡野自治相が議論しているうちに、岡野自治相が突然立ち上がって机を叩きながら大声で天野文相に詰め寄った。天野文相は顔面蒼白になり、目を閉じて黙っていたら、岡野自治相はさらに激昂して「返事がないのは僕の言を承知したのか」と迫った。あまりのことに各閣僚が岡野自治相を押しとどめたが、天野文相はこの一件で嫌気がさしたらしく、辞表を出し吉田首相も仕方なく受理したという。 
 劒木副長官は保利茂官房長官から文相の後任は誰がいいか聞かれた。劒木氏は元文部省事務次官だったからだ。彼は冗談半分に「閣僚の横滑りしかないでしょう」と答えたところ、岡野氏が自治相と兼任で文相に決まったのだった。 
 岡野氏は劒木氏に「僕は文部省のことは何も知らないので、君に文部次官になってもらい、いっさいを君に任せる」ということになり、劒木氏は文部次官に復帰した。 
 
 岡野文相は8月12日、就任の記者会見で「これまで戦後歴代の文部大臣は学者など政党外の人が起用されていたが、私は自由党の教育番頭として就任した。学者は教育には玄人だろうが、政権政党への影響力がないから実効に乏しい。私は教育には素人だが実行力はあるつもりだ」と語った。 
 私はこの談話を新聞で読みながら、不安が胸をよぎった教育に疎い政治家が時の政権に合った教育政策を押し進めることが心配だった。 
 案の定、8月16日に修身科の復活を言い出し、つぎに日教組の政治活動禁止を口にした。 
 私は岡野文相の真意を探るために8月20日、事務次官に復帰したばかりの劒木氏を文部省に訪ねた。実は劒木氏とは因縁があったのだ。1951年(昭和26年)4月の福岡県知事選を前に、私は今村彰副委員長と相談して、当時、事務次官のポストにあった劒木氏を社会党推薦で立候補を依頼した。劒木氏は事務次官として天野文相を支えてきた人で、短期間ではあったが小学校の教員歴もあったからだ。しかし、劒木氏は予想通り断った。そして、どういう事情か知らないが自由党公認で立候補、落選して官房入りしたのだった。 
 私は劒木氏に事務次官復帰を歓迎するあいさつをしたあと、岡野文相の発言の真意を質した。劒木氏は「衆議院の竹尾文教委員長から『文部省は日教組対策をやっていないではないか。日教組をのさばらせておくことは日本の政治にとって好ましくない』といわれた。これは日教組があまり選挙闘争に力を入れすぎているからではないのか。自由党はその意味で教員の政治活動を制限する考えのようだ」と語った。 
 
▽民主教育を守るために 
 
 日教組は8月22日の執行委員会で、自由党のこうした動きへの対応策を検討し、「岡野文相と対決し、闘うことによって政治活動の自由を拡大する」との方針を決定した。そして25日に「日本教職員政治連盟」(日政連)という政治団体を結成した(のちに日本民主教育政治連盟と改称)。教職員を含む地方公務員の選挙活動が地方公務員法制定で制限されたために、民主教育を守る必要から、新たな政治組織を結成したのだった。 
 吉田首相は、鳩山一郎、石橋湛山、三木武吉、河野一郎氏らが追放解除されて政界に復帰するのに伴い、自由党内に反吉田勢力が増してきたため、8月28日に抜き打ち解散した。 
 さっそく日教組は全国で40数人の教組活動家を左右社会党から日政連公認の候補に立て、また地方公務員法制定にあたって教員の政治活動禁止を緩和する修正案を出した三木武吉氏ら改進党の一部候補者を日政連の推薦とした。 
選挙中、岡野文相は「日教組は中共(中国)から資金をもらっている」などといったデマ演説を行って日教組を攻撃した。 
 講和後初の総選挙は「再軍備、是か非か」を最大の争点に行われ、10月1日の投票の結果、自由党240、改進党85、右派社会党57、左派社会党54、労農党4、諸派7、無所属19、共産党は0で、22の議席をすべて失った。これは武装革命方式への国民の批判だった。日政連公認の候補者は38人が当選し、左右社会党を46議席から111議席に増やした。中でも左派社会党を16議席から54議席に躍進させる成果を上げた。 
 一方、当時公選だった教育委員の選挙が10月5日に行われ、日政連推薦の教育委員70人が当選した。 
 日政連の勢力は着実に拡大していったが、それに反発するかのように岡野文相は日教組対策を強めていくのだった。(つづく) 


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