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Special

「労働・教育運動に生きて80年」槙枝元文自伝

特集

「労働・教育運動に生きて80年」槙枝元文自伝




<最終回>日朝正常化の即時実現を 日本がアジアの国々と共に生きるために
  重要な外交課題である北朝鮮問題については、アメリカ政府が1994年、核実験を行った北朝鮮を経済制裁したとき、日本政府もこれに追従したことに対して、私たちは日米基軸の外交を批判し、「アジアの平和と自主・平和外交への転換を求める」ために、講演会やシンポジウムを開催して世論形成をはかった。その後も、私たちは「日朝正常化即時実現」を求めて運動を展開してきた。これは単に両国間の問題だけでなく、日本がアジアの国々と共に生きるか、それともアジア諸国から孤立の道を歩むのか、21世紀の日本の進路を決める重要な問題なのである。(2008/02/23)


<102>「広範な国民連合」が活動開始 私の行き着いた運動論の展開
  1992年11月、再び「広範な国民の連合をめざす全国討論集会」を開いて、各地の活動状況や組織づくりの報告、経験交流を行ったうえで、「自主・平和・民主のための広範な国民連合準備会」を立ち上げた。その後、全国世話人を選出し、各県世話人会や事務局の組織体制を整え、翌1993年2月に全国世話人が集まり、第1回全国世話人会議を開いた。この会議は3回開き、11月に「自主・平和・民主のための広範な国民連合」の結成総会を開いた。私が起草した「憲章」は、つぎのようなものだ。(2008/02/16)


<101>自主的、自発的な活動の連合をめざす
 「広範な国民の連合」結成の呼びかけに賛同した人びとを集めて1991年11月、「広範な国民の連合をめざす全国討論集会」を開いた。集会には北海道から沖縄まで全国各地から労働者、農林漁民、中小商工業者、学者・文化人、主婦、そして国と地方の議会議員など、文字どおり広範な各界各層の人びと二百数十人が自費で参加した。この討論集会で、私はつぎのような問題提起を行った。(2008/02/09)


<100>「広範な国民の連合」を呼びかける
  日本の平和を考える私たちの懇談会は、自衛隊の海外派兵問題だけでなく、根本的に「日本の進路をどうするか」を考える必要があるとの思いを強くし、何回か懇談会を重ねた。そして1991年7月、「自主的で平和で民主的な新しい日本の進路を求めて――広範な国民の連合の呼びかけ」を行った。呼びかけ文は私がペンを取った。私は労働戦線統一が思うように行かなかったことを反省し、政治的な立場を超えた広範な国民の自由意志による参加こそ、これからの新しい運動のあり方だと思った。(2008/02/02)


<99>冷戦終結、日本の新しい進路を考えよう
  1989年11月、東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が去されたのをきっかけに、東西が歩み寄り、12月には地中海のマルタ島で米ソ首脳が会談し、冷戦終結を宣言した。私は「新しい時代の到来」を予感し、1990年7月、「核兵器廃絶運動連帯」の隈谷三喜男氏や伏見康治氏らに呼びかけて、これからの日本の進路を考える懇談会を開いた。そのときの話題の第一は、自主性なき日本外交についてであった。経済大国だとか、日本の国際的発言力が増したとか言われながら、その実、政府の国際社会への対応はすべてアメリカ政府の意向に追従するという自主性なき外交に終始している。(2008/01/26)


<98>党派を超えた「反核連帯」運動に参画
  1986年の初めごろ、「左翼連合」の加藤毅氏が日本教育会館の館長室に私を訪ねてきた。用件は「核廃絶のための幅広い運動を計画しているので、協力してほしい」というものだった。そのころ、核弾頭搭載巡航ミサイル「トマホーク」を積んだ米原潜が横須賀に寄港する動きがあった。これは「非核三原則」のひとつ、「核を持ち込まない」に反する。しかし、反核運動をリードする原水協と原水禁が再び分裂していて統一行動を取れない状態にあった。一方、ヨーロッパではINF(中距離核ミサイル戦力)配備への反対運動が燃え上がっていた。(2008/01/19)


<97>9千人超の中国人技能研修生受け入れ
  財界も極めて協力的だった。1987年6月には、日本商工会議所会頭・五島昇氏の提案で、センター主催の第1回日中経済セミナーを、日本の企業家を対象に全都道府県で開いた。また、労働省の委託で「中国労働経済事情の調査」を実施した。一方、中国では、経済人や労働組合幹部を対象に「企業管理セミナー」も毎年開いた。88年11月には、日中経済協会顧問の岡崎嘉平太氏の提案により、センターの名称をいまの「日中技能者交流センター」に改めた。(2008/01/12)


<96>総評議長から日中友好事業へ
  私は1983年7月、総評議長を退任、8月には日教組委員長も辞して、激動の人生に終止符を打ち、9月からは日教組本部のある日本教育会館の第3代館長に就任した。この会館は、私が日教組委員長のとき、日教組結成30周年を記念して1977年に改築したもので、その館長に納まって、いささかの感慨があった。私は62歳だった。これまでのホットコーナーと違う職場だったので、比較的のんびりできた。休日は畑仕事を楽しみ、さんざん迷惑をかけてきた妻孝行もできた。しばらくは安閑とした日々が続いたが、それは長くはなかった。(2008/01/05)


<95>今こそ原点に立ち返った労働運動の再構築を 労働者不在、闘う力を失った現状を憂う 
  私は、労働運動は弁証法的に発展するという前提をもっていた。日教組の歴史から推定しても、組合を結成したり統一したときは、やや緩やかな運動だが、労働者が期待する運動を構築していかなければ、下から指導部を突き上げていく。だから、長い目で見れば、労働運動が権力や資本にべったりすることは、あり得ないと思っていた。しかし、いまの労働運動を見れば、現場の労働者の要求や職場の実態を十分把握した上で、労働運動を構築するという本来の労働運動が弱体化しているように思う。厳しく言えば、労働者不在の、職場の実態を無視した、幹部だけの労働運動になっていないだろうか。(2007/12/22)


<94>全民労協結成への陣痛がつづく
  総評民間単産会議は1982年3月25日に開いた幹事会で、全国金属など7単産の統一準備会参加を確認した。その後、統一準備会への参加を表明する単産が増えていった。7月1日に開かれた統一準備会の幹事会で、民間協議会の年内発足を確認、名称を「全国民間労働組合協議会」(全民労協)とすることとし、活動方針、運営要綱、予算などについて協議した。(2007/12/15)


<93>北朝鮮幹部との会談で労戦統一に自信
  労働戦線の統一準備会が発足したのは1981年12月14日だった。発足総会は東京・三田の電機労連会館で開かれ、39単産の代表が参加した。加盟組合員の総数は380万人を数えた。竪山総連合議長が統一推進会を代表してあいさつ、宇佐美ゼンセン同盟会長が経過報告を行った。最後に発表した声明文は「全的統一への基盤づくりと、来年の民間協議会結成に向けての大同団結に全力をあげることが準備会に課せられた任務である」と、うたった。(2007/12/08)


<92>四苦八苦、もう労戦統一はやめようか…
  私は1981年10月の総評4顧問(太田薫、市川誠、岩井章、大木正吾)との意見交換のあと、「全的統一」に向けて、統一労組懇、総評内左派(社会主義協会派)と話をした。統一労組懇の全日自労の中西五洲委員長は、「いまのような形の労戦統一は反対だ」という。1950年の総評結成に際して、「産別を解体して総評に流れ込んだのは間違いだった」と共産党の宮本顕治議長が宣言したことが根にあるようだった。これはもう、いくら私たちの方から統一労組懇に譲歩してもだめだ、彼らは共産党系のナショナルセンターをつくろうということで固まっているなと思った。(2007/12/01)


<91>難航する民間先行の労働戦線統一推進
  総評結成30年を記念する定期大会が1980年7月21日に開かれた。この大会で、(1)壮大な労戦統一を実現する、(2)社公合意を軸とした連合政権をめざす、(3)地域闘争を重視する、などの運動方針を採択した。この大会から共産党幹部を来賓からはずし、共産党支持労組に与えていた2名の常任幹事のポストを1名に減らした。9月22日に開いた総評、総連合、同盟の三者による「ブリッジ会談」で、民間先行の労働戦線統一推進に合意し、9月30日、民間先行による「労働戦線統一推進会」(統一推進会)が発足した。(2007/11/24)


<90>民間先行の労働戦線統一へ動く
  民間労組のナショナルセンターの統一が模索され始めた。1979年3月9日には、中立労連と新産別が、ゆるやかな連合体として「全国労働組合総連合」(総連合)を結成した。初代議長には中立労連の竪山利文さんが選出された。運動方針として「全体の労戦統一を達成する触媒としての役割を果たす」ことを掲げた。私は民間先行の統一に向けて総評の意見を反映させるために、この総連合をフルに活用した。竪山さんを介して同盟とのブリッジ会談を行ったのである。竪山さんと私、竪山さんと同盟会長の宇佐美忠信さんという具合に。表向きは「ブリッジ会談」としていたが、裏では三人で何度も会合した。(2007/11/17)


<89>労働戦線統一に向け官公労を説得
  1977年に富塚三夫氏と組んで総評議長になったとき、低成長下の労働運動として「大幅賃上げ」は望めないので、大幅減税、年金、医療問題など生活改善のための制度政策要求を前面に出すようにした。この要求実現のために労働界は一致団結する必要があると思った。賃上げ要求も労働団体がバラバラでは力にならないので、労働四団体の足並みをそろえるために共闘を重視した。高い賃上げ要求を出している総評は少し下げ、同盟には「もう少し要求を高くしてくれ」と擦り合わせをして統一要求作りをしなければ、低成長下の労働運動は成り立たないと思った。(2007/11/03)


<88>闘う力の強化めざし労働戦線の統一へ
  総評議長時代に私が最も力を入れたのは、何と言っても労働戦線統一の問題だ。私は敗戦後、六三制教育がスタートした直後に岡山で中学校の社会科教員を務めた。その社会科の教科書に「労働者は団結しなければならない」と書かれてあり、それに共鳴して今日まで来た。ところが、戦後の労働界は右から左まで四分五裂の状態になっていった。その原因の一つは、政党の労働組合への深い介入があったからだと思う。労働戦線統一の目的は、資本と政治権力に向かって闘う力を倍加することにある。(2007/10/27)


<87>14年ぶりに原水禁の統一世界大会を開催
  江田離党問題の最中の1977年3月17日、歴史的な会談が行われた。総評と共産党との定期協議の場で、原水爆禁止運動の統一に向けて合意に達したのだ。55年8月に始まった原水禁世界大会は、63年に分裂、総評・社会党系は原水爆禁止日本国民会議(原水禁)、共産党系は原水爆禁止日本協議会(原水協)を組織して、個別に運動を進めてきた。しかし、欧米での反核運動の盛り上がりや核拡散の危険性の高まり、国内での反原発市民運動の広がりという新たな状況のもとで、原水禁国民会議はこうした共通の課題に向けて統一行動をする必要があるとの認識を深め、諸団体に統一行動を呼びかけようとしていた。(2007/10/20)


<86>社会党の弱体化にいたたまれぬ気持ち
  社会党副委員長の江田三郎氏が離党の動きを見せ始めていた。江田氏はイタリア共産党の新しい運動方針に依拠して1960年代前半から構造改革路線を提起、社公民による連合政権構想を打ち出していた。それを踏まえた意見書「革新・中道連合政権への提言」を、77年2月8日の社会党第40回大会に提出した。その意見書は左派の社会主義協会派から厳しく批判され、多数決で否決されたため、江田氏は離党の意思を固めたようだった。(2007/10/13)


<85>「四人組」追放後の中国と交流を復活
  私は1974年11月以来、途絶えていた中国との交流を復活させようと考えた。総評内部には共産党嫌いの人がいて「何でいま共産党が支配する中国と交流するのか」と反対したが、私は「中国共産党は独善的な日本共産党と違って、政策や考え方が柔軟で、広く大衆に支持されている。これからのアジアを考えたときに、日本と中国が一つになって事に当たる必要がある」と説得して訪中が実現した。私を団長とする訪中団(単産・県評の代表ら11人)は77年3月4日から2週間の日程で中国を訪問した。訪中の目的は、日中の労働者の友好と親善を深めることだった。(2007/10/06)


<84>井上ひさし氏らから耳の痛い話が相次ぐ
  総評は77国民春闘をすすめるにあたって、各界・各層から幅広く意見や提言を聞こうと、1977年1月20日、上野・池之端文化センターで「総評トークイン77――開かれた総評・話にこないか」と名付けた懇談会を開いた。総評がこうした催しをするのは初めてのことで、富塚事務局長が「親しまれる総評、愛される総評」をめざし企画したものだった。マスコミが面白がって大勢取材に来て、会場にテレビカメラをずらり並べたので、照明用の電源ヒューズが飛び、開会が50分も遅れるというハプニングがあった。(2007/09/29)


<83>生活安定めざし「国民春闘」を立ち上げる
  総評の最大の運動は労働者の賃金と生活を確保するための「春闘」である。その賃上げがこの2年間、資本側に抑え込まれていた。「連敗」という言い方もされ、市川誠議長が退任したのも、その責任を取るためという側面もあった。この春闘を何とか再構築しなければならない。それが私にとって当面の最大の課題だった。総評は中立労連と事務局レベルで1976年9月初めから来春の「77春闘」の闘い方について話し合いをすすめていたが、10月4日の77春闘準備会で、21年の歴史を持つ「春闘共闘委員会」という名称を「国民春闘共闘会議」に変更することを決めた。(2007/09/22)


<82>米国の労働団体との相互理解を深める
  総評議長に就任直後の1976年8月1日、私はワシントンへ旅立った。かねて予定していた世界教職員団体連盟(WCOTP)の総会に日教組委員長として出席するためだった。到着直後の8月2日、まずアメリカ最大の労働団体AFL−CIO(米国労働総同盟産業別会議)本部に行き、ジョージ・ミーニー会長を表敬訪問した。総評議長と同団体会長とのトップ会談は12年ぶりのことだった。私は、これまでの総評がソ連、東欧、中国など社会主義国に限定して交流してきたことに、かねてから疑問を持ち、欧米の資本主義国家の労働団体との交流も進めるべきだと思っていた。(2007/09/15)


<81>総評議長と日教組委員長の「二束のわらじ」
  「日教組委員長時代」を終わり、しばらく休載していましたが、再開します。私は日教組委員長在任中の1976年7月、総評議長に選ばれた。そのことは前にも書いたが、総評議長時代の話を書くにあたって、あらためて議長就任の経緯に触れておきたい。役員選出の総評大会が東京・文京公会堂で開かれたのは、教員主任制反対闘争真っ最中の1976年7月19日から23日までの5日間だった。(2007/09/08)


<80>任期最後の大会にも右翼が妨害工作
  私たちは右翼の日教組襲撃に対して警備当局に厳しく抗議し、取り締まりの強化を要求したにもかかわらず、この年1983年8月に岡山市で開催しようとした定期大会も右翼の妨害に遭った。私の委員長としての任期最後の大会でもあったので、執行委員の間から「委員長の故郷・岡山で開きましょうよ」との声が上がり、私は甘んじて受け、「故郷に錦を飾る」気持ちで岡山開催を決めたのだった。ところが、どこで聞きつけたのか右翼団体が岡山県議会に「日教組大会を開かせるな。会場も貸すな」との請願を提出、本会議は7月11日、これを採択したのだ。(2007/05/12)


<79>「荒れる中学生」問題で抜本的教育改革を提言
  右翼の男がまた日教組を襲った。1983年6月20日午後5時前のことである。そんなあわただしい中の7月19日、日教組が委嘱していた第2次教育制度検討委員会の報告書が出来上がり、上野・池之端文化センターでセレモニーを開いた。この委員会は、校内暴力の多発など「荒れる中学生」が問題になっていた81年、その「教育荒廃」の根本的な原因の究明とその克服のあり方について提言をしてもらうために設置したものだった。委員会の会長には大田尭・都留文科大学長(東大名誉教授)にお願いしていた。(2007/05/05)


<78>中曽根首相の「たくましい文化」論に反論
  話は戻るが、鈴木内閣総辞職のあとを受けて1982年11月に自民党総裁になった中曽根康弘氏は、かねてからの改憲論者で、文相に自民党憲法調査会会長の瀬戸山三男氏を指名した。私たちは中曽根内閣に対して警戒の色を一層強めた。翌83年1月の国会での初の首相施政方針演説では「日本はいま戦後史の大きな転換点に立っている」とし、「戦後政治の総決算」を宣言した。そして、その後、大胆な行財政改革を断行し、国鉄、電電公社、専売公社を民営化した。さらに「戦後教育の総決算」をめざして臨時教育審議会を立ち上げるのだった。(2007/04/28)


<77>日中の歴史教科書研究交流を開始
  教科書の歴史記述問題について文部省を追及するだけではダメだと判断した私は、日教組として中国教育界と直接接触し、日中共同で歴史教科書をつくる必要があると思った。そして1983年3月、日教組代表団を組織して中国を訪問、中国教育工会と「日中両国の教師・学者・研究者が共同して日中の歴史の事実を調査・研究し、両国が使用する歴史教科書を共同開発する」という覚書を交わした。(2007/04/21)


<76>内外の批判で「近隣諸国に配慮」の検定へ
  教科書問題が火を噴いていた1982年夏、私は8月8日からスイスのモントルーで開かれたWCOTP(世界教職員団体総連合)の第31回総会に出席した。私が4年間務めた会長を退任する総会でもあった。総会前の執行委員会やアジア地域会議で、日本の教科書問題が大きな関心の的になり、韓国、オーストラリア、シンガポール、フランス、アメリカなどの代表から、私に真相の報告を求める発言が相次いだ。(2007/04/14)


<75>「侵略」隠ぺいの教科書検定が外交問題に
  小川文相との初会談は1982年1月14日に行った。この会談は教育関係8団体との個別会談の一つとして行われた。「日教組だけと会うな」という自民党や文部省内の意向にしたがったものだった。日教組は第2臨調答申によって凍結された40人学級の早期実現や主任手当の撤廃などを要求したが、いずれも新味のある回答はなかった。会談の終わりごろになって小川文相が「槙枝委員長の著書を読みましたが、教科書の自由出版、自由採択を言いながら、教科書検定を認めるようなことも書いてありますね。これは矛盾しませんか」と切り出した。(2007/04/07)


<74>右翼団体の日教組攻撃行動が相次ぐ
  1982年6月18日朝、日教組にとってショッキングな出来事が起きた。日本教育会館6階にある日教組本部に右翼団体の男が侵入して拳銃を発射し、弾が若い書記に当たって怪我をしたのだ。その朝、私は出勤前に人に会っていて9時半ごろ教育会館に入ろうとすると、入口で書記が待っていて「いま書記局に拳銃を持った右翼の男が『槙枝を出せ』とわめいています。早く逃げたほうがいいですよ」と言った。私は「これは危ない」と思い、引き返して九段下の喫茶店に行き、時間をつぶした。(2007/03/31)


<73>第2臨調の文教予算削減答申を批判
  1981年8月14日、田中龍夫文相との交渉を行った。この交渉は来年度の文教予算編成にあたって、教育現場からの要望を伝えるのが目的だった。私は初めに第2臨調の第1次答申にふれた。この年3月に発足した第2次臨時行政調査会は、7月に出した第1次答申で、40人学級の凍結、児童生徒の自然増に伴う教職員増の抑制、教科書無償制の見直し、文教施設事業の大幅削減、私学助成の抑制、育英資金の有利子化など、1973年の第1次オイルショックで危機に陥った財政の再建のために文教予算の削減方針を打ち出していた。私たちはとうてい容認できるものではなかった。(2007/03/23)


<72>教科書「偏向」問題で自民党と火花散らす
  そうこうするうちに教科書問題が火を噴いた。田中龍夫文相が1980年10月15日の衆院文教委員会で「いまの教科書には愛国心が書かれていない」などと発言した。それをきっかけに自民党文教部会は12月、教科書問題小委員会を設けて本格的に教科書「偏向」問題に切り込み始める。その「火付け役」になったのが、教育問題調査会の石井一朝主幹。彼は前年の79年10月25日発行の政治家や財界人向けの雑誌『じゅん刊・世界と日本』(内外ニュース刊)に「新・憂うべき教科書の問題」を掲載、家永教科書裁判の問題点を指摘するとともに、小学校の国語の教科書を槍玉に挙げた。(2007/03/17)


<71>共産党系反主流派との対立が激化
  1980年4月、文部省はついに小中学校の「40人学級」を新学期から12年計画でスタートさせた。小学1年から毎年、学年進行で「40人学級」にしていき、12年間で中学3年まで行き渡らせるというものだ。私は前年の9月29日、鹿児島県庁で行った記者会見で、もっと早く6年計画で「40人学級」を実現するよう文部省に求める談話を発表していたが、文部省の「12年計画」は変わらなかった。それでもクラスの児童・生徒数の上限を40人に定められたことは、教員の負担を軽くし、行き届いた教育の実現に一歩近づくものだった。(2007/03/10)


<70>アジア21ヵ国の教員代表が東京で会議とセミナー
  ところで1979年11月、私が会長を務めるWCOTP(世界教職員団体総連合)の第7回アジア地域会議と教育セミナーが東京で開催されることになった。この会議を東京で開くのは72年についで二度目である。私は会長として大いに張り切っていた。72年に東京で開催されたとき、私は稲葉修文相に出席と補助金を要請したことを思い出し、8月初め、内藤誉三郎文相に電話してみた。文相は「よく話を聞きたい」と快く応じたので、日教組本部近くの寿司屋「吉野鮨」の2階で落ち合った。(2007/03/03)


<69>住民が提唱の「教育委員の準公選制」を援護
  私が当時住んでいた東京都中野区では、早くから学者、文化人、民主団体、父母・市民たちが「教育を住民の手に」というスローガンを掲げて「教育委員の準公選制」実現の運動に取り組んでいた。都教組中野支部も1977年3月、中野区議会に「教育委員の公選制推進について」の請願を行い、12月には区内の民主団体と共に「中野の教育をよくする会」を結成していた。中野区の住民たちが考えたのは、区民投票によって複数の教育委員候補者を選び、その中から区長が議会の同意を得て任命するというもので、これを「準公選」と呼んだ。(2007/02/24)


<68>文部官僚出身の「タカ派」内藤文相が登場
  1978年12月7日、福田赳夫首相に代って政権の座についた大平正芳首相は、文相に内藤誉三郎氏を起用した。内藤氏は文部省出身の自民党参議院議員である。文部省時代は自民党文教族と組んで「タカ派」の教育政策を打ち出し、中でも初中局長のときは、教員に対する勤務評定を導入して日教組の組織弱体化をはかった人だ。その実績を買われて、62年から事務次官を1年半務めた後、参議院全国区で自民党から立候補して当選を果たした。文部官僚が文相になったのは劒木亨弘氏に次いで二人目である。内藤文相は就任直後、私の自宅に電話をかけてきた。「どうぞ、お手やわらかにお願いします」(2007/02/17)


<67>「映画スター長谷川一夫に文化勲章を」に砂田文相も賛成
  私は、そのころ文化勲章の受章者に「ギャンブル王」といわれた日本船舶振興会会長の笹川良一氏が候補に上っていることを批判し、「たとえば映画俳優の長谷川一夫氏のような日本の映画・演劇を通して大衆文化の発展に貢献した人の方が文化勲章にふさわしいではないか」と提案した。砂田文相は即座に「いや、私もそれを考えていたところだ。あなたはそんなことも考えるのですか」と驚いた様子。とたんに酒が美味くなった、と大笑いしたものだ。(2007/02/10)


<66>主任手当てを民主教育の充実策に拠出
  1977年7月14日から福島で始まった第51回定期大会で、「主任手当の制度化を阻止するために、秋の臨時国会に再び給与改善法案を出してきたら、統一ストで闘う」ことを決定した。この大会で、私は中小路書記長とともに3選された。一方、政府・自民党は人事院勧告による給与改善と主任手当支給を一本化した法案を臨時国会に提出する準備をすすめていた。私たちは給与改善を望んでいたが、主任手当の支給には反対していたので、法案を「分離」するよう求めて、9月22日、日比谷公園で1万人集会を開いた。(2007/02/04)


<65>共通一次試験めぐり海部文相と対立
  1976年12月24日、福田赳夫内閣が発足、文相に海部俊樹衆議院議員が就任した。海部氏は自民党の若手文教族で、かねてから意見交換をするなど顔見知りだったこともあって、就任の翌朝、私の家にわざわざ電話してきた。「槙枝先生、えらいことになったよ。いじめないで、よろしく頼みますよ」と「就任のあいさつ」をされた。その海部文相との初会談は、翌77年1月8日に行われた。文相は終始笑顔で対応し、横に居た硬い表情の諸沢正道初中局長と対照的だった。(2007/01/27)


<64>思いもよらず総評議長に選ばれる
  主任闘争真っ最中の1976年7月19日から23日まで開かれた総評大会で、私は思いもよらず総評議長に選ばれた。それまで総評を引っ張ってきた市川誠議長・大木正吾事務局長のコンビは、76春闘で賃上げを日経連の「ゼロから一桁」のガイドラインに押さえ込まれたうえ、制度要求でも目立った前進がなかったことを理由に、任期を1年残して総評の社会党員党友協議会で退陣を表明していた。(2007/01/20)


<63>主任制反対闘争と永井文相の退陣
  教員の主任の制度化は着々と具体化され、76年度予算案に主任手当が盛り込まれた。そして文部省は75年12月26日付けで学校教育法施行規則改正の省令を交付した。それは、(1)小学校に教務主任、学年主任、保健主事、事務主任を置く、(2)中学校にはそれに加え、生徒指導主事、進路指導主事を置く、(3)高校には以上に加えて、学科主任、農場長を置く、というもので、実施は翌76年3月1日付けとした。私たちは各県で主任の制度化を阻止する闘いに取り組んだ。(2007/01/13)


<62>自民党の圧力に屈した?永井文相
  自民党は75年11月14日、「あくまでも主任の制度化を年内に実施する」という方針を確認し、主任制について踏み込んだ構想を示した。それは「教務主任は小中高に一律に設けるが、ほかの主任制度は、小中高の特殊性を尊重して、それぞれ別の主任を考える。この場合、小学校では学年主任、中学校では学年主任と生徒指導主任、高校は学科長、進路指導主任、農場長などの施設管理主任が省令化の対象になる」というものだった。(2007/01/06)


<61>永井文相との密談合意に自民文教族・西岡氏が猛反発
  1975年の春闘では、公務員共闘の賃金引上げ統一要求と合わせて、日教組だけが取り残されている処分の実損回復を要求に掲げて、5月9日早朝2時間のストライキを構えた。その前日の8日夕方、私たちは文部省で永井道雄文相と交渉に入った。永井文相は私たちの要求に対して回答した。私はこの回答を聞きながら、「永井文相は文部省としてのスジは通すが、日教組のために、できるだけのことはしたい」という姿勢だと受け止めた。(2006/12/23)


<60>永井文相への期待と歯がゆさ
  74年12月に就任した永井道雄文相との初交渉を文部事務当局に申し入れ、山崎平八郎政務次官と田中一郎書記次長との間で日程が設定された。ところが岩間英太郎事務次官を初めとする文部官僚は、新文相を日教組とだけ会わせたくないと判断したらしく、日教組を全国教育長協議会や校長会などいくつかの教育団体による表敬訪問と同じ扱いにしようと画策していることが分かった。永井文相と日教組が仲良くしないようにブレーキをかけたに違いなかった。(2006/12/16)


<59>22年ぶりの学者文相の誕生を大歓迎
  田中角栄首相が金権まみれの政治を批判されて退陣したあと、清廉とされる三木武夫氏が首相に指名された。その内閣が発足したのは1974年12月4日だった。私が注目していた文相には永井道雄氏が就任したので、「まさか」と驚いた。天野貞祐氏以来22年ぶりの学者文相だ。もちろん大歓迎である。永井氏は京大、東京工業大学で教育社会学を研究・教育にたずさわった学者で、1954年から3年間、日教組の全国教育研究集会の講師団を務めた人である。1970年に朝日新聞の論説委員になっていた。(2006/12/09)


<58>「教師聖職論」で自民、共産両党と対立
  1974年の4・11ゼネストは日教組内部にもさまざまな問題を投げかけた。その一つが教師像をめぐる論争である。その火付け役は共産党だった。4・11ストで日教組が官憲の弾圧を受け、自民党が日教組批判のキャンペーンを張ったため、共産党は7月の参議院選挙に影響することを恐れたのか、4月17日付けの機関紙『赤旗』で「教師=聖職論をめぐって」という論文を載せた。その内容は次のようなものだった。(2006/12/02)


<57>4・11全日ストで再び逮捕される
  1974年は激しいインフレに見舞われていた。消費者物価が1年前と比べて17%増、卸売物価は29%増という異常な高騰ぶりだった。日教組は2月の臨時大会で、インフレ阻止・国民生活防衛、最低3万円の賃上げ、教員の5段階賃金制粉砕、スト権奪回などを要求して、全1日のストライキを4月の公務員共闘の統一闘争として決行することを決めた。いわゆる「74国民春闘」である。日教組としては全1日ストは結成以来初めての取り組みであった。(2006/11/25)


<56>文部省に先駆け「学校5日制」を提起
  話は戻るが、私が委員長になった翌年の1972年6月、秋田で開いた定期大会で「週休2日、週40時間制の実現」の運動方針を採択した。そして直ちに書記局内に「学校5日・週休2日制研究会」を設けて、具体化に向けて検討を開始した。日教組は文部省に先駆けて「学校5日制」に取り組んだわけである。そのころ「日本人は働きすぎ」と欧米から批判され、日本の労働界も「週休2日制」が焦眉の課題になっていた。日教組としても、これにどう取り組むか執行部でかなり議論した。(2006/11/18)


<55>日教組を目の仇にする奥野文相
  1972年12月の総選挙で第2次田中内閣が発足、文相には奥野誠亮氏が任命された。奥野氏はゴリゴリの改憲派で、私たちは戦々恐々としていたが、会見を申し入れると、気さくに応じた。三役そろって文部省に行くと、奥野文相は「待ち人来る」といわんばかりに大手を広げて、笑顔で私たちを迎えてくれた。私は学校の校務分掌のあり方を説明し、5段階賃金、教頭法制化に反対する理由を伝えた。(2006/11/11)


<54>硬骨漢・稲葉文相と公開で初会談
  話は戻るが、1972年7月、佐藤内閣が崩壊して田中角栄首相が登場した。新潟の片田舎出身で、学歴もないのに首相の座についた田中首相は「庶民宰相」「今太閤」ともてはやされた。その首相が文相に指名したのが、彼の同郷の稲葉修氏だった。稲葉氏とは数年前、私が書記長のとき、テレビで対談をしたことがある。日教組が賃金引き上げのために人事院勧告完全実施を要求してストライキを決行する日の朝だった。テーマは「教員のストライキ是非」であった。(2006/11/04)


<53>教員の待遇改善に自民党が職階制導入案
  1972年7月1日、自民党の文教制度調査会(灘尾弘吉会長)と文教部会(西岡武夫部会長)は合同会議を開き、自民党の教育改革第1次試案として「教員の養成・再教育並びに身分・待遇の根本的改革について」をまとめ、発表した。その中で「教員の身分の確立および待遇の改善」として「教員の採用、任期、研修、争議行為の制限、身分保障等、専門職としての教員の身分を確立するため、教員身分法を制定する」と提案していた。「教員身分法」とは穏やかでないと私は思った。(2006/10/28)


<52>市販テスト不使用運動に取り組む
  高見三郎文相との2回目の会談は1971年10月8日に行われた。この日は30分の約束だったが、話が弾んで2時間近く続いた。日教組からの申し入れは、育児休業法案、教職員の定数増、過疎過密対策、中教審答申による5段階賃金問題などだった。育児休業法について私が女性教職員の勤務実態などを説明すると、高見文相は熱心に耳を傾け、「国会の動きを見ながら制度の確立に努力したい」と答えた。かつては日教組と話し合うのを頭から拒否するタカ派の文部大臣がいたが、高見文相は話せる文部大臣だった。(2006/10/21)


<51>教壇復帰あきらめ教育運動に献身を決意
  中教審路線粉砕を決めた1971年7月の日教組第39回定期大会(佐賀県嬉野)の最終日に、私は委員長に選出された。大会を前にした6月27日の参院選で、社会党全国区から立候補した宮之原委員長が当選したので、その後釜として書記長である私が委員長に昇格したわけだ。実は書記長になってからも、しばらくは「郷里に帰って、教壇に復帰したい」との思いを持ち続けていたのだが、後半になって、それをあきらめ、「生涯を教育労働運動に捧げよう」と心に決めていたのだ。(2006/10/14)


<50>中教審に対抗して教育改革案をつくる
  中央教育審議会は1971年6月の答申に向けて、67年7月から、「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本施策について」と題する諮問事項の審議を続けていた。これは高度経済成長政策によって急激に変化する日本の経済社会に対応するために、戦後教育の抜本的な改革が必要と見た文部省が中教審に諮問したもので、その課題は52年に中教審が設置されて以来の大掛かりかつ根本的なものだった。私たち日教組も当然こうした動きを注視してきたが、出された答申や提言に反対するだけではだめで、日教組が対案を提言すべきだと、私は思い始めていた。(2006/10/07)


<49>自民党文教族に対話重視の若手が登場
  「槙枝先生、こんにちは」。1970年のある日、日教組の書記長席にいた私に、後ろから突然声をかける人がいた。振り向くと、何とそこには文部省の西岡武夫政務次官(自民党)が立っているではないか。西岡氏は70年1月に文部政務次官になったばかりで、自民党文教部会の中では「若手の勉強家」と言われている人だった。驚く私に西岡氏は「今日はお教えをいただきに伺いました」と、腰を低くして慇懃にあいさつした。文部省との対話を重視する私は「わざわざお越しいただいて恐縮です」と応接室に案内した。(2006/09/30)


<48>教員の超勤手当支給を求め文部省と攻防
  教員という職業は多忙である。なかなか定時に帰宅できるものではない。テストの採点、あすの授業のための教材研究、さまざまな会議、クラブ活動の指導など、いくら時間があっても足りない。毎日夜7時、8時まで、いやもっと遅くまで残業に継ぐ残業だ。しかし、一般サラリーマンなら残業(超過勤務)手当が付くが、教員には全く付かなかった。これは何とかしなければならないと、私はかねがね思っていた。(2006/09/23)


<47>賃金闘争ストで逮捕される
  私は1966年10月21日の「宿日直廃止、超勤手当要求」を含む賃金闘争で半日休暇闘争(スト)を指導したとして地方公務員法違反の疑いで逮捕された。10月21日当日、半日休暇または始業から2時間の授業カットを実施した県は高教組単独の2県を含めて23県に上った。このほか早朝1時間の授業カット、午後3時授業打ち切りを行った県が8県あった。これは日教組の賃金闘争で初めての大規模な実力行使であり、勤評闘争で受けた痛手を回復し、闘争力の健在ぶりを示すものとなった。(2006/09/16)


(46)戦前の遺物、宿日直廃止に全力投球
  1964年2月、広島県福山市の学校で日直中の女性教員が暴漢に襲われるという事件があり、これをきっかけに教員の宿日直問題が社会的にクローズアップされた。宿日直は教員の生活にも大きな負担になっており、当時、埼玉県教組が調査したところ、教員の3割が1ヵ月に4〜8回も宿直していた。教員になって3年経つ千葉の青年教師は3日に一度、宿日直をしており、「3年のうち1年は学校に寝泊りしている状態」だった。(2006/09/09)


(45)文部省との交渉復活に取り組む
  私が日教組書記長に選出されたのは1962年(昭和37年)7月だった。小林武委員長が参議院議員に選出され、そのあとを継いで宮之原貞光書記長が委員長に、書記次長だった私が書記長にと順に上がった。この役員人事は富山での第24回定期大会で対立候補者もなく承認された。宮之原さんは「槙枝君、よろしく頼むよ」と一言いっただけで、次は参議院への出馬を待つといった人だった。宮之原委員長とのコンビは、それから1971年(昭和46年)まで9年間続くことになる。(2006/09/02)


(44)日教組との交渉を拒みつづける政府
  日教組が学力テスト反対闘争と並行して取り組んだのが高校全入運動だった。戦後のベビーブームで生まれた子どもが高校進学の時期にさしかかっていた。しかし、進学希望者を受け入れるだけの高校が不足しており、受験競争が加熱、中には中学浪人をする子どもも出てきて深刻な事態になっていた。そこで日教組は1959年(昭和34年)6月の定期大会(高知)で「高校入試を廃止し、希望者全員入学をめざす」運動方針を決めた。(2006/08/26)


(43)社会党系と共産党系の対立
  勤評闘争をめぐって、日教組本部では「絶対反対」を主張する平垣派(共産党系)と、是々非々で対応しようとした宮之原派(社会党系)が真っ二つに分かれたが、それに輪をかけるように労働運動界内部でも安保闘争の総括をめぐって社会党系と共産党系が対立していた。日教組はそれまで特定政党との関係はなかった。しかし、中央執行委員それぞれが個人的に政党と関係を持つことがあったので、共産党員及びその支持者の活動だけが目立つようになっていた。したがって「日教組は共産党」というイメージが世間に広がっていた。(2006/08/19)


(42)勤評闘争で日教組の組織率が低下
  血みどろの勤評闘争から得た教訓をもとに、新しい運動の方向が1959年(昭和34年)6月10日から高知で開いた日教組第21回定期大会で打ち出された。それは、教員の勤務評定だけを攻撃目標とするのではなく、道徳教育の押し付けや教育課程の改悪、教科書検定の強化などと連動させて闘うというものだった。こうした国の一連の教育政策を「勤評体制」ととらえ、「この勤評政策こそ、安保体制を確立するための、もっとも重要な要素であることを深く認識しなければならない」との運動方針を採択したのだった。(2006/08/12)


(41)勤評阻止めざし全国で授業打ち切り
  勤評反対闘争最中の1958年(昭和53年)9月4日、日教組の小林武委員長が警視庁に地方公務員法第37条(争議行為の禁止)違反容疑で逮捕される事態になった。これは日教組が4月23日に行った全国一斉休暇闘争を指揮したという理由だった。小林委員長逮捕は、官憲がしゃにむに勤評闘争を押さえ込もうとする表れであり、そのねらいは「日教組つぶし」にあった。 (2006/08/05)


(40)勤評闘争の真っ只中に飛び込む
  1958年(昭和33年)7月、私が再び日教組本部に戻り書記次長に就任したときは、勤評闘争の真っ最中だった。一方で石炭から石油へのエネルギー革命に抵抗する炭労(炭鉱労働者の組合)の闘いがヤマ場を迎えており、また「60年安保闘争」(日米安全保障条約改定反対闘争)の前哨戦が展開されていて、世の中が騒がしくなっていたときだった。「勤評」(教員に対する勤務評定)は、私が着任する2年前の1956年(昭和31年)11月に愛媛県教育委員会が導入して問題になっていた。(2006/07/29)


(39)故郷での教壇復帰の願いかなわず
  1954年(昭和29年)6月、私は故郷・岡山に帰った。教壇に復帰するつもりだったが、岡山県教組の幹部はそうはさせてくれなかった。書記長のポストを空けて待っていたのだ。「日教組本部の経験を生かして、1年だけでもいいから書記長をしてほしい」という。「1年だけ」という言葉にひっかかって、お礼奉公のつもりで引き受けた。(2006/07/22)


(38)教育中立法成立で文部省の管理教育強化
  1954年(昭和29年)6月に成立した「教育の政治的中立の確保に関する法律」(注)が教育現場に与えた影響は深刻なものがあった。すでに法案が国会で審議されている段階から、学校現場では「政治的萎縮」が始まっていた。社会科のカリキュラムを変更したり、時事問題を避ける傾向が見られ、「最近、社会科の授業がつまらなくなった」という声が聞かれるようになった。その最大の出来事は、この法律を成立させるために文部省が密かに集めた「偏向教育」24事例に取り上げられた京都・旭丘中学校だった。(2006/07/15)


(37)戦後教育を破壊する悪法に強い危機感
  教育の政治的中立確保をめざす法案が準備される中、日教組は1954年(昭和29年)1月25日から静岡で第3回教研大会を開き、「教育を守るわれわれの決意」を表明した。それは「(この法案によって)私たち教師は時の政権政党の忠実な僕と成り果てることになる」「教育基本法に言う『国民全体に対し直接に責任を追う』教育をすることができなくなる」というものだった。この大会決議を持って代表団が文部省に抗議に行った。(2006/07/08)


(36)米国の対日政策転換が「偏向教育狩り」を鼓舞
  教員の政治活動禁止が大きな問題になっている最中の1953年(昭和28年)10月2日、海の向こうのアメリカで、私たちの教育を脅かす重要な話し合いが行われていた。吉田茂首相が特使として派遣した自由党政調会長・池田勇人氏と米国務次官補ロバートソン氏との会談である。会談では日本の教育問題にも触れ、最終日の30日に交わされた議定書に「日本政府は、教育及び広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである」という文言が入ったのである。(2006/07/01)


(35)「『山口日記』は偏向教育の証し」と文相
  1953年(昭和28年)3月の「バカヤロー解散」後に成立した第5次吉田内閣の文相になった内務官僚出身の大達茂雄文相は、就任の記者会見で「一党一派に偏した特定の政治傾向が、教育に影響を及ぼすことのないようにしたい」と述べ、さっそく日教組攻撃を始めるのだった。私たちは平和と民主主義を守るために教育をしているのに、「一党一派に偏している」とは何事かと思った。この「特定の政治傾向」を排除するために、やがて「教育の政治的中立確保」をうたった法律がつくられることになる。その直接のきっかけになったのが、山口県教組が夏休みの学習用に編集し、5月に発行した「小学生日記」「中学生日記」である。(2006/06/24)


(34)早く郷里の教壇に立ちたかったが…
  アメリカから来日した国際自由教員連盟委員長でアメリカ教員組合書記長のラズベリー氏が岡野文相と緒方竹虎副総理に「教員の政治活動を禁止するのは問題だ」と抗議した2日後の1953年(昭和28年)2月28日、国会は大混乱に陥った。衆院予算委員会で右派社会党の西村栄一氏がアメリカの対日援助費をめぐって質問する中で「日本の総理大臣として答えよ」と吉田首相に詰め寄ったのに対して、吉田首相が「バカヤロー」と暴言を吐いたのだ。これで委員会の審議はストップしてしまった。(2006/06/17)


(33)教育の国家統制めざす中教審の設置
  1953年(昭和28年)が明けて早々から日教組は大きな問題に直面した。国の重要な教育施策を審議する中央教育審議会の設置である。中教審設置は前年7月の文部省設置法改正で決まっていたが、発足は延び延びになっていた。岡野清豪文相は1月6日になって委員15人の委嘱を発表した。その委員の名前を見て、私は背筋が寒くなるのを覚えた。経済界の大物が名を連ねていたのだ。財界からの選任は、教育が経済に従属させられるのではないかとの危惧を抱かせたのだ。(2006/06/10)


(32)文部省に77時間座り込む
  日教組対策に腐心する岡野党人文相がまず政策として持ち出したのが「教員給与の三本建て」だった。当時、教員の給与は小中高校教員と大学教員との二本建てだったが、このうち高校教員の給与を小中学校の義務教育教員から切り離して別立てにしようという構想である。これは明らかに日教組の組織分裂を狙ったものだった。私たちは岡野文相との交渉を求めて、執行委員全員が12月4日午後1時から文部省の政務次官室に座り込んだ。(2006/06/03)


(31)戦後初の党人文相・岡野氏との対決
  吉田茂首相は天野貞祐氏が文相を辞任した1952年(昭和27年)8月12日その日に自治大臣の岡野清剛氏を兼任で文相に任命した。兼任とはいえ党人文相の出現は戦後初めてだった。岡野文相は8月12日、就任の記者会見で「これまで戦後歴代の文部大臣は学者など政党外の人が起用されていたが、私は自由党の教育番頭として就任した。学者は教育には玄人だろうが、政権政党への影響力がないから実効に乏しい。私は教育には素人だが実行力はあるつもりだ」と語った。私はこの談話を新聞で読みながら、不安が胸をよぎった。(2006/05/27)


(30)「君が代」に代わる国民歌を公募
  天野貞祐文相が学校の祝日行事に「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱することが望ましいとの談話を発表したのは1950年(昭和25年)10月17日だった。その談話は「各学校においては、学生生徒児童に対し、これらの祝日の意義を徹底させ、進んで国家及び社会の形成者としての自覚を深くさせることは、きわめて必要なこと」というものだった。これを文部省は総務課長名で全国の学校に通達した。日教組は10月21日に中央闘争委員会を開き、「君が代」を国歌として学校で歌わせることには絶対反対し、新しい国歌の制定運動に取り組むことを決めた。(2006/05/20)


(29)「教え子を再び戦場に送るな」
  日教組の不滅のスローガンである「教え子を再び戦場に送るな」は1951年(昭和26年)5月の第8回定期大会(兵庫県城崎)で正式に採択された。このスローガンが生まれた背景には、国内外のキナ臭い状況があった。2年前の1949年(昭和24年)10月、中華人民共和国が成立し、危機感を抱いたアメリカは社会主義国のソ連・中国から日本を守るという名目で軍事基地の拡張強化に乗り出していた。翌1950年(昭和25年)1月、マッカーサー連合国軍最高司令官は年頭所感で「憲法の規定は自己防衛の権利を否定したものとは解釈できない」と、「戦争放棄」を憲法に謳い込んだはずの司令官が、自衛のための再軍備の勧めを行った。(2006/05/13)


(28)天野文相がほめた「教師の倫理綱領」
  情宣部長として在任中、いくつかのことがあった。中でも印象に残ったのは「教師の倫理綱領」である。これは1952年(昭和27年)6月の定期大会(新潟)で決定された。この綱領は「教師は労働者である」と宣言したものだから、後に文部大臣をはじめ保守党から「革命綱領」と批判されることになった。しかし、教師のあり方として掲げた10項目は、戦後の教師の役割を明快に示していた。(2006/05/06)


(27)「偏向教科書」批判者の素顔
  「槙枝君、一度、情宣部長をやってみてくれないか」。副委員長から委員長に昇格していた岡三郎氏(後に参議院議員)に囁かれたのは1952年(昭和27年)3月下旬だった。当時、情宣部(情報宣伝部)は金銭問題に関して「伏魔殿」といわれていた。情宣部は「日教組教育新聞」「教育情報」、その他必要に応じて各種のパンフレットの編集・発行・販売を行っており、会計も「特別会計」にして情宣部が独自にお金を出し入れしていた。その内容は委員長以下執行委員会にも分からなかった。(2006/04/29)


(26)地方公務員法でもGHQと交渉
  教員免許法に平行して出てきたのが地方公務員法だ。国家公務員法が先に成立(1947年)していたので、その地方版である。法制部の私はそれも担当することになった。法案の主管は自治省だったが、いくら自治省と交渉しても、背後にGHQがいるから、ラチがあかない。教員免許法がそうであったように、直接GHQの担当官と話し合った方が早道と私は判断した。(2006/04/22)


(25)教員免許法でGHQと渡り合う
  私が所属した法制部の部会で話を聞くと、GHQ(連合国軍総司令部)から文部省を通して出てくる法律は目白押しらしい。当面の課題は、教職員の身分に関わる地方公務員法や教育公務員特例法、さらに教員資格に関わる教育職員免許法だという。私がまず取り組んだのは教職員の資格に関わる教育職員免許法だった。後で聞くと、免許法は複雑で誰も引き受け手がいないので、新人の私に押し付けたらしい。(2006/04/15)


(24)不安を胸に日教組本部入り
  頼まれて、1年だけという約束で日教組本部行きを決意した私は、岡山県教組から日教組中央執行委員に派遣されて帰任し小学校長になった杉田幸治さんを訪ねた。日教組本部の様子を聞くためだ。彼も日教組本部に1年だけいたが、いろいろ経験したことを話して、最後に次のようなアドバイスをしてくれた。「日教組本部には共産党と無党派との対立がある。君は是々非々で行け」「江口という長崎県教組出身の法制部長がいる。君はその部に入れてもらえ」「鳥取県教組出身の岸本という人が総務部長をしているから、わからないことは彼に聞け」(2006/04/08)


(23)教師を続けるか日教組本部入りかで悩む
  1947年(昭和22年)4月、新学制発足とともに岡山県都窪郡教員組合が発足し、私は青年部長になったが、組合発足当初のことでもあり、青年部として特に取り組むべき課題はあまりなく、せいぜい権力的な校長に対する不平不満の解決に向けて校長交渉をする程度だった。つまり青年部のスローガンである「明るい学校、楽しい職場」を実現するために、学校の民主化に取り組むのが運動の中心だった。私たちの組合が結成されて2ヵ月後の6月8日、全国組織としての日教組(日本教職員組合)が誕生した。(2006/04/01)


(22)「再び教え子を戦場に送るまい」と決意
  学校現場では民主主義の担い手を育てる戦後教育が助走しはじめていた。私は戦時中、青年学校で何のためらいもなく軍国少年を育て、戦地や満蒙開拓団に送り、戦死させていた。その悔悟の念で「再び教え子を戦場に送るまい」と心に誓っていた。戦前のような教師にならないためにも組合結成が必要だと思った。(2006/03/25)


(21)「メダカの学校」でグループ学習
  私が職場復帰した岡山県早島町立早島青年学校でも学制改革のことが盛んに論じられた。小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6334制にする、男女共学にする・・・。戦前の多様なコースがある複線型から、同じ教育をみんなに保障する一本化された単線型の学制になり、すっきりする。しかも、戦前は15%の家庭の子どもしか行けなかった中学校が義務制になり、誰もが通えるようになる。「とても良いことだ」と思った。(2006/03/18)


(20)教壇に復帰、民主教育へ暗中模索の日々
  文部省は1945年(昭和20年)8月15日の戦争終結直後から戦時中の書類を焼却し、リベラル派の学識者を省内に迎え入れて、国家主義的・軍国主義的だった戦時教育体制をつぎつぎに解体していった。9月15日には「新日本建設ノ教育方針」を発表、軍国主義的教育を排除して平和国家建設に努めることを宣言した。このように、時代と教育が大きく転換しつつある中で、私は翌1946年(昭和21年)1月7日、郷里の岡山県都窪郡早島町の都南青年学校に復職した。(2006/03/11)


(19)米軍人に民主主義を学ぶ
  連合国軍への引継ぎは敗戦後1ヵ月くらい経ってから札幌市内のアメリカ駐留軍札幌事務所で行われた。引継ぎの相手は米軍中尉プレミアム・カーという人だった。私も戦時中は中尉だったが、敗戦のとき大尉に昇格していた。「ポツダム大尉」というやつだ。私はこの引継ぎ業務を通して、アメリカのやり方・考え方をいろいろ学ばされた。それは民主主義であり、公と私の区別をはっきりさせることだった。(2006/03/04)

(18)玉音放送…「これで教師に戻れる」
  8月15日正午前、「いったい何があったんだろう」と、将校たちは口々に言いながら集会所に集まった。全員、ラジオの前に直立不動で整列させられる。ラジオが正午の時報を告げると、「君が代」が演奏され、アナウンサーの短い言葉に続いて天皇陛下の声が流れてきた。後に言う「玉音放送」だった。雑音が入って、よく聞き取れない。誰からともなく「戦争を止めたらしいぞ」との囁きがもれる。本当に戦争は終わったのだ。しかも負けたのだ。負けたのは残念だったが、「これで教師に戻れる」と私は内心、嬉しかった。(2006/02/25)

(17)新婦とは結婚式で初対面
  叔母と一緒に大阪駅から岡山に向かったが、叔母は岡山駅から私の実家に直行、私はまずお見合い相手?の家に行くために、岡山駅から三つ目の中庄駅まで乗った。駅にはおじいさんが迎えに来ていた。駅から歩いて15分。その家の二階に通された。やがて若い女性が鰻の蒲焼を載せたお膳を持って入ってきた。私より背が高く、歳も二、三歳上に見えた。「この人が見合い相手だな」と思った。(2006/02/18)

(16)職業軍人志願の勧めを断わる
  青森の通信5連隊にいたある日、小川部隊長に呼ばれて「お前は優秀だから、現役志願せよ」と言われた。「現役志願」とは職業軍人を志願するということだ。しかし、その気はまったくなかったので、「私は将来、軍人として生きていく気持ちなどありません。自分は教員が好きです」と、きっぱり断った。(2006/02/11)


(15)青森の通信隊で教官になる
  1943年(昭和18年)7月27日、私は青森の電信第5連隊・北部第81部隊第4中隊に着任した。部隊は青森市から2kmほど離れた筒井村にあり、遠くに岩木山が霞んで見えた。私は見習士官だったから、衛内に一室を与えられた。私は教官として、まず8月1日召集の補充兵50人を4ヵ月指導し、次いで12月1日に学徒出陣で入ってきた初年兵の指導をした。(2006/02/04)


(14)陸軍通信学校に入学
  幹部候補生試験に合格した私は、1942年(昭和17年)10月1日、神奈川県相模大野にあった陸軍通信学校に入学し伍長に昇進した。この学校は通信兵の幹部養成学校で教育期間は10ヵ月。同期生は50人だった。この年、日本軍は南太平洋で快進撃を続け、マニラを占領したあと、シンガポール、ラングーン、バターン半島などで次々に米軍を撃退していた。しかし、6月のミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻を失ったのをきっかけに、日本軍は苦しい戦いを続けることになる。(2006/01/28)


(13)思いがけなく召集令状
  1942年(昭和17年)3月、「中国江蘇省徐州女子商業学校教諭ヲ命ズル」の辞令を受け取った私は、胸をふくらませて赴任の準備に取りかかった。初めは反対していた母も、私の決意の固さにあきらめたらしく、布団袋を縫ったり、身の回り品を買い集めたりして出発準備を手伝ってくれていた。ところが3月25日になって突然、書留郵便で召集令状が来た。「4月1日午前9時、姫路師団第53部隊ニ入隊セヨ」とある。(2006/01/21)

(12)養護教員と恋に陥る
  私が岡山県の早島青年学校兼国民学校の教員になって2年目の1941年(昭和16年)4月、若い学校看護婦(いまの養護教員)が着任してきた。岡山県立第一高等女学校を卒業して叔母のいる大阪・堺市で看護学校に学び、郷里の岡山に帰り、早島国民学校に赴任してきたのだった。私よりも一つ年上だった。顔は面長で、すらっとしたスマートな体型、理知的な感じのする女性だった。私はこの女性に強く魅かれた。いわば一目ぼれだった。(2006/01/14)

(11)戦場に送り出した教え子の家庭に謝る
  国民学校高等科の教え子2人を少年航空兵と満蒙開拓義勇軍に送り出した翌年の1942年(昭和17年)、私も召集令状を受けて軍隊に行ったが、戦場に送り出した2人の教え子のことが気になっていた。戦争に敗れた1945年(昭和20年)の12月、軍務を終わって帰郷し、翌年1月、早島青年学校に帰任してすぐに役場に行き、2人の教え子の消息を調べたところ…(2006/01/07)

(10)教え子を戦場に送る
 天皇中心主義の教育体制下の授業では、こんなこともあった。青年学校2年生の商家の生徒が学ぶ夜間の「公民」の授業で、「国家とは何か」という課題について、私は国家3原則として、(1)領土があり、(2)人民が居り、(3)主権者が存在することを教えた。ところが数日後、国家主義者の父親が校長のところに飛んできて抗議した。「槙枝という教師は共産主義者じゃないか」(2005/12/23)


(9)権威に弱いいじわる校長と対立
  私は授業だけでなく課外活動にも力を入れた。そのころ、都南(岡山県都窪郡南部の早島町、豊洲村、福田村、帯江村)4校対抗の女子バレーボール大会が定期的に開かれていたが、わが校がなかなか優勝できないと聞き、よし、私が指導してやろうと思った。私は子どものころからバレーボールが好きで、小学校高等科のときは選手として対校試合に出たこともあった。高松農学校でも選手として活躍していたから、指導に自信があった。(2005/12/17)


(8)愛国青年を育てる学校で初教べん
  岡山県都窪郡早島青年学校の始業式は、併設の早島尋常高等小学校と合同で行われた。居並ぶ教員の数を数えてみると、青年学校が教務主任以下5人、小学校は校長、教頭、教務主任、会計担当、学校看護姉(養護教員)と学級担任22人の計27人。総勢32人の大所帯である。校長は小学校と青年学校を兼務していた。(2005/12/10)

(7) 父母の祝福を背に初の赴任校へ
  戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんは、教育のあり方をめぐって文部省(現・文部科学省)と激しくわたり合ったことでしられる。では、その教育観はどのようにして形成されたのだろうか。自伝は、あこがれの教員生活の第一歩を踏み出した槙枝青年の感激ぶりを伝える。日本が太平洋戦争に突入する前年の1940年(昭和15年)のことである。(ベリタ通信)(2005/12/03)


(6) 教師への夢と近づく軍靴の音
  戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんは、どのような青春時代を送ったのだろうか。自伝は、小学校を卒業して実業補習学校、さらに農学校、青年学校教員養成所へと進む槙枝青年の姿を描き出す。教師への夢に一歩一歩近づいていくのだが、時代の流れは軍国主義に向かいつつあり、多くの青年が戦場へとかり出されていくようになった。(ベリタ通信)(2005/11/26)


(5) 母の胸の内と私の混乱
 戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんの自伝は、ひきつづき昭和初期の日本の地方農村を舞台に、自作農の小学生がいかに教師への夢をふくらませていったかをつづる。庶民にとって大学進学は高嶺の花だった時代、それでもなんとかして子どもの夢をかなえてやりたいと願う母親の気持ちにかわりはなかったようだ。(ベリタ通信)(2005/11/19)


(4)教師になる日を夢見て
 戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんが、自分の歩んできた道を振り返り、自伝を書き進めている。その内容は教育・労働運動の舞台裏や本人の素顔を生々しくさらけ出している。全国の教職員の先頭に立って、あるべき教育をめぐって文部省(現・文部科学省)とわたりあった槙枝さんの反骨心と教育観はどのようにして育まれたのだろうか。昭和のはじめに小学校に入学した槙枝少年は、勉学と農作業を両立させながら教師への夢をふくらませていく。(ベリタ通信)(2005/11/12)


(3)小学校で芽生えた反抗心と向学心
 戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんが、自分の歩んできた道を振り返り、自伝を書き進めている。その内容は教育・労働運動の舞台裏や本人の素顔を生々しくさらけ出している。全国の教職員の先頭に立って、あるべき教育をめぐって文部省(現・文部科学省)とわたりあった槙枝さんの反骨心と教育観はどのようにして育まれたのだろうか。毎週土曜日に掲載しているこの連載は、昭和のはじめに小学校に入学した槙枝少年の、教育現場との出会いへと進む。(ベリタ通信)(2005/11/05)


(2)人間としての品位を教えてくれた母
 戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんが、自分の歩んできた道を振り返り、自伝を書き進めている。その内容は教育・労働運動の舞台裏や本人の素顔を生々しくさらけ出している。そこで日刊ベリタは、歴史への貴重な証言となるこの自伝を、本人の了解を得て連載することにした。槙枝さんは84歳になる現在も日中技能者交流センター理事長として多忙な毎日を送っている。物語は戦前の生い立ちから始まり、毎週土曜日に掲載する。(ベリタ通信)(2005/10/29)


(1)大正末期の地方農村の生活
 戦後激動期の日教組運動をリードし、その後は総評議長として労働運動を指導した「戦後の旗手」の一人である槙枝元文さんが、自分の歩んできた道を振り返り、自伝を書き進めている。その内容は教育・労働運動の舞台裏や本人の素顔を生々しくさらけ出している。そこで日刊ベリタは、歴史への貴重な証言となるこの自伝を、本人の了解を得て連載することにした。槙枝さんは84歳になる現在も日中技能者交流センター理事長として多忙な毎日を送っている。物語は戦前の生い立ちから始まり、毎週土曜日に掲載する。(ベリタ通信)(2005/10/22)








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