2006年08月25日12時59分掲載  無料記事
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中東

レバノン戦争とイラン イスラムの大義と自国の安全保障のジレンマに揺れる大国

  一ヶ月にわたるレバノン戦争では、イスラエル軍に対して善戦するレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラの背後にイランの影がちらついた。事実、首都テヘランではイスラムの大義を掲げ、レバノンへの志願兵を募る動きが保守派学生を中心に展開された、と同市の大学に留学中の大村一朗さんは報告する。このような若者の純粋な熱狂は少数派にすぎず、政府も積極的支持を与えたわけではないものの、イスラムの大国イランを取り巻く周辺地域の情勢いかんでは無視できない力を発揮するのではないか、と大村さんは見る。(ベリタ通信) 
 
イラン便りNo.16 大村一朗 
 
◆志願する若者たち 
 
 レバノン戦争に対する安保理決議が審議されている最中、テヘラン中心部にあるテヘラン大学の正門前では、保守派学生たちによるイスラエルへの抗議集会が開かれていた。特設ステージの上から学生が気勢を上げると、手にレバノン国旗やレバノンのシーア派組織ヒズボッラーの黄色い小旗を手にした聴衆からどよめきのようなシュプレヒコールが上がる。 
 「アメリカに死を! イスラエルに死を! イギリスに死を!」 
 ステージの袖から2人の学生がそれぞれアメリカ国旗とイスラエル国旗を持ち出してくると、それまで周囲を取り巻いていたメディアのカメラが一斉に彼らを取り囲んだ。お決まりの国旗炎上の儀式である。最初からアルコールでも含ませてあるのか、2枚の国旗は瞬く間に灰と化した。 
 
 集まっているのは主にバスィージと呼ばれる動員組織(革命防衛隊の下部組織でもある)のメンバーや、バスィージや宗教系団体に所属する保守派学生である。主催団体には10以上の団体名を連ねてあるが、夏休みでほとんどの学生が地方に帰省しているためか、聴衆はせいぜい50〜60名といったところだ。しかし、壇上の学生は大群衆に語りかけるかのような絶叫で、声明文を読み上げる。 
 「1つ! 我々はイスラム共同体、特にイラン国民と政府に対し、迫害下にあるレバノン国民への全面的支援、とりわけ財政的、軍事的支援を、できうる限り行なうよう要請する。 
 1つ! 我々学生たちはヒズボッラー戦士たちの隊列に加わる準備ができており、各大学の専門家はレバノン再建のため全面的な支援を行なう準備ができていることをここに宣言する。 
 1つ! 我々は……」 
 
 イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まってからというもの、義勇兵としてヒズボッラーの抵抗運動に身を投じようというイラン人学生の姿を、新聞などで幾度か目にした。全国に「レバノン志願兵派遣」のための登録本部が設けられ、登録用紙に必要事項を書き込む学生の姿が報じられた。 
 新聞の報道によれば、登録用紙にはいくつかの質問が書かれているという。「アラビア語の知識はあるか」、「どのような武器を扱えるか」、「どのような領域で、レバノンの同胞たちを支援することが可能か」などの質問である。異国の戦争に自ら身を投じようという学生たちの存在にも驚きだが、それ以前に、彼らは果たして戦地で役に立つのだろうかという疑問が先に立つ。イランでは学生は卒業後まで兵役を猶予されているからだ。 
 
 「なあに、用紙に名前だけ書いてそれで終わりさ。中には本気なやつもいるかもしれないけどな」 
自分も17歳の息子がいるというタクシー運転手は、志願兵のニュースをそんなふうに笑い飛ばす。 
 ―もしあなたの息子さんが志願兵としてレバノンに行きたいと言ったら? 
 「まだ徴兵前だから行っても何もできやしないさ。それでも行きたいって言うんなら、行かせてやるよ。同じイスラム教徒を助けるためだ」 
 
 イスラム教徒には「防衛ジハード思想」というものがある。イスラム教徒の住む地域を「イスラム共同の家」ととらえ、異教徒がそこへ攻撃をしかけた場合、たとえ遠く離れていようとイスラム教徒は同胞を助けるべく「ジハード(聖戦)」に赴くか、武装闘争を物理的に支援しなければならない。アフガニスタンへのソ戦侵攻と米軍による空爆、イラクにおける駐留英米軍、あるいはチェチェン、パレスチナ、カシミール……、それら「異教徒によるムスリムへの虐殺」に対し、外国から多くの「義勇兵」が参加したのは、この防衛ジハード思想によるものである。 
 
◆イラン政府のジレンマ 
 
 レバノン戦争が始まってしばらくすると、テヘラン市街のいたるところに、豊かなあごひげを蓄えたヒズボッラーの指導者ハサン・ナスロッラー師のポスターが張られるようになった。大きな広場や交差点には数メートル四方の巨大ポスターも見られる。その数はイランの最高指導者ハーメネイー師のものより多いかもしれない。 
 「ハサン・ナスロッラーは優れた指導者です。イランでも尊敬されていますよ。イラン人は一般的にアラブ人が嫌いですが、彼だけはイスラエルに対し勇敢に戦いを挑んでいますからね」 
国営企業に勤める30代の男性はこう答えた。 
 
 長いゲリラ活動の末、2000年にレバノン南部からイスラエル軍を撤退させた実力は、ヒズボッラーがシーア派組織であるにもかかわらず、広くイスラム社会で認知されるきっかけとなり、彼の名声をも不動のものにした。 
 ヒズボッラーは1982年、レバノン内戦のさなかに設立され、レバノンにおける反イスラエル闘争とシーア派の地位向上の中心的役割を果たす組織となった。アメリカはヒズボッラーを「テロ組織」と認定しているが、その内実は軍事部門と民生部門に別れ、民生部門ではベイルート南部や貧困地帯で学校や病院、診療所の設立などの福祉活動に力を入れるとともに、テレビ、ラジオ、新聞など独自のメディアを有し、その広範な活動から常にレバノン国会に議員を送り出してきた合法政党でもある。その理念はイランのイスラム革命の影響を強く受けていると言われ、表向きイランは否定しているが、財政的にも軍事的にもイランの支援を受けていると言われる。 
 そのためアメリカは、今回のイスラエルのレバノン侵攻当初から、イランを非難してきた。イスラエルがレバノン南部に落とした爆弾が、その破片からアメリカ製であることをヒューマン・ライツ・ウォッチが指摘している一方で、アメリカはヒズボッラーが打ち放つミサイルやロケット弾を、さしたる証拠もなくイラン製だと決めつけ、紛争の長期化の責任を一方的にイランに押し付けてきた。英米のこうした非難をかわすのは、イラン政府も慣れたものである。しかし、たとえ義勇兵とは言え、イラン国籍の若者がヒズボッラーと合流したとあっては話が別だ。 
 
 7月も半ばを過ぎた頃から、若者たちのレバノン行きを否定する発言が、イランの政府関係者から相次いだ。バスィージの司令官も「(志願兵登録センター等は)国の正式な機関とはまったく関係がなく、(民間の)宣伝活動にすぎない」と述べ、火消しにやっきになった。 
 
 今回、イスラエルがレバノン南部への空爆および地上部隊の派遣により本格的な戦争を開始したのは、ヒズボッラーによって2人のイスラエル兵を人質に取られたことを口実に、この際、ヒズボッラーを徹底的に叩いて壊滅させようというのが真のねらいだったと言われる。と同時に、これまでヒズボッラーを支援してきたシリアとイランも巻き込み、一機に中東大戦争に発展させ、アメリカの大中東計画を遂行してしまおうという意図を、イラン政府が警戒していなかったはずはない。イスラエル軍は今回、シリア・レバノン国境付近を何度も空爆し、トラックに果物を積み込もうとしていたシリア人農夫33名を殺害している。また、シリア国境付近に無人偵察機を飛ばすなどして散々シリアを挑発してきた。まずシリアに、そしてシリアと盟友関係にあるイランに戦火が拡大する可能性をイラン政府は十分警戒していたはずである。 
 
 イラン政府は、国家としては当然の行動として、戦争に巻き込まれぬことを第一命題としながら、その一方で、イスラム諸国会議機構にレバノン支援の会議も持ちかけ、内外に反米・反イスラエルのプロパガンダを打ちまくり、国内に対しては、ムスリムとしての精神的な支援こそレバノン市民とヒズボッラーの戦士たちを勇気付けるものだと呼びかけた。町の至るところに張り出されたハサン・ナスロッラー師のポスターも、募金を呼びかけるバスィージのテント小屋も、そうした活動の一環であろう。国営企業や官公庁では、月の給料の1日分をレバノン市民のために寄付しましょうと呼びかける張り紙が張られ、応じる社員も多いと聞く。 
 
 「中東で事が起こったからといって、すぐに軍隊を送れという話にはならないよ。彼らは彼ら自身の国のために戦っているんだ。僕らはそれに対し、こうしてお金を集めて政府に預け、食糧や毛布やテントや医療品を送る。君たちの国のピースウイングジャパンがやっていることと変わらないさ。つまりNGOだよ」 
 着飾った、派手な女の子が行き交う週末の繁華街、粛々と募金活動を行なう黒服のバスィージの青年が私に語ってくれた。そのテント小屋では、募金とともに、ヒズボッラー所有の衛星チャンネルの映像を大型テレビで流していた。 
 「こうしてヒズボッラーの映像を流すことも文化的支援の一環さ。何より大切なのは、ムスリムとして自分の存在を示し、彼らに1人ではないことを教えてあげることさ」 
 
◆イランを突き動かすもの 
 
 イラン政府による保守派学生への懐柔策にもかかわらず、イスラムの大義に忠実な学生義勇兵の第一陣がいよいよレバノンへと旅立ったのは、7月も終わりに近づいた頃だった。しかし、彼らはトルコとの国境でイラン側から出国を阻まれ、2日間の座り込み抗議の末、ようやく出国スタンプを押されたが、今度はトルコ側に入国を拒まれているという。彼らはヒズボッラーの旗をはためかせ、カーキ色の軍服に目出し帽といういでたちだったため、トルコ側から「普通の旅行者の格好をしてきてください」と言われているという。 
 
 それからわずか数日後、ヒズボッラーからイランの若者に宛てて、次のようなメッセージが届いた。 
 『目下のところ前線は限られており、増援部隊の必要性はありません。我々ヒズボッラーはまだ戦力の10パーセントしか使用しておらず、必要ならまず自身の全部隊を召集し、その後、レバノン市民に支援を求める予定です。日々、イラン国民の皆様からは、レバノンでの支援、参加方法をお問い合わせ頂き、感謝しています(以下略)』 
 
 その後、彼らが無事トルコに入国を果たしたというニュースも、第二陣が出発したというニュースも聞かないまま、8月14日の停戦合意を迎えた。この日、テヘランでは、ヒズボッラーの勝利を祝して、夜空に花火が打ち上げられ、あちこちで通行人にお菓子やジュースが振る舞われた。そして翌日にはもう、町中からバスィージのテント小屋が姿を消していた。 
 
 イランは政教一致の宗教国家である。政府は保守的で、その政府を支える保守層の中でも最も過激なグループとして、バスィージといった民兵組織が存在する。と思っていたが、このレバノン戦争の間、彼らさえ手を焼く保守層があることを知った。それはむしろ、「層」という言葉で表現するより、若者の純粋さであり熱狂そのものである。 
 この国の総人口の55パーセントは24歳未満である。この若さというエネルギーは、27年前のイスラム革命を成就させ、1997年の大統領選挙では改革派のハタミ政権を生み出し、1999年には暴力的な反体制デモをイラン全土に吹き荒れさせ、そうかと思えば昨年、保守強硬派と呼ばれるアフマディネジャードを大統領の座に据えた。今回、レバノン戦争へ志願した若者は、実際のところごく少数派に過ぎない。しかし、この小さな火種が、場合によってはどう転ぶか分からないという恐ろしさを、イラン政府はよく知っていたのかもしれない。 
 
 1ヵ月あまりに及んだレバノン戦争は、数日後にはもうイランからその痕跡を消しているだろう。しかし、アフガニスタンではタリバン残党による米軍への攻撃が再燃し、イラクでは混迷から回復する道筋さえ見えず、パレスチナでは相変わらずイスラエルによる圧政が続いている。自国の安全保障とイスラムの大義というジレンマは、これからも中東の大国を悩まし続けてゆくだろう。 
 
*大村さんのこれまでの「イラン便り」は下記に掲載されています。 
http://www.mekong-publishing.com 


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