2007年01月02日18時36分掲載  無料記事
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07年元旦「社説」を読んで 歴史に学ぶ目が曇ってはいないか  安原和雄(仏教経済塾)

  かつて社説を書く立場にあった者の一人として、元旦の社説は黙視できない。なぜなら元旦社説はそれぞれの新聞社としての基本的姿勢を表明する場であるはずだからである。大手6紙の社説を通読したが、物足りなさが拭えない。なぜか。「権力の監視役」としての批判力、構想力の不十分さを感じるからである。それは端的に言って過去の歴史の過ちに学ぶ目が曇っているためではないのか。今こそ歴史に学び、その智恵を競い合おうではないか。 
 
 まず大手6紙の社説(産経のみ「主張」)の見出しを紹介しよう。 
東京新聞「年のはじめに考える 新しい人間中心主義」 
朝日新聞「戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに」 
毎日新聞「〈世界一〉を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全」 
読売新聞「タブーなき安全保障論議を 集団的自衛権『行使』を決断せよ」 
産経新聞「凛とした日本人忘れまい 家族の絆の大切さ再認識を」 
日本経済新聞「開放なくして成長なし(1) 懐深く志高いグローバル国家に」 
 
 以上のような見出しをみる限り、それぞれの視点から自由に論じているような印象を受けるが、全体を丹念に読んでみると、そこに一つの共通項が浮かび上がってくる。それは安全保障というキーワードである。ここでの安全保障は軍事力中心の「狭い安全保障」観に限らず、経済、社会も含めた「広い安全保障」観も含まれる。 
 
▽東京新聞―人間中心主義をどう生かすか 
 
 東京新聞は次のように書いている。 
「〈戦後最長の景気拡大〉と〈企業空前の高収益〉がよそごとのような年明けです。この国の未来を取り戻さねばなりません。新しい人間中心主義によってです」 
「行き過ぎの市場原理主義に否定されてしまった人間性が復活し、資本やカネでなく、新しいヒューマニズムが息づく社会―そんな選択であるべきです」 
「悲願の改定教育基本法を成立させた安倍政権の次なる目標が改憲ですが、そこに盛り込まれている権力拘束規範から国民の行動拘束規範への転換こそ、勝ち組世襲集団の発想に思えるのです。国民のうちにある庶民感覚と感情のずれ。改憲に簡単にうなずけない理由のひとつです」と。 
 
 ここには人間性否定の延長線上に浮上している改憲には賛成しがたいという主張を読み取ることができよう。いいかえればヒューマニズムの理念を生かす国のあり方、安全保障への視座であり、改憲とは異質のもう一つの道への模索と受け止めたい。 
 この主張には賛成である。ただ新しい人間中心主義、ヒューマニズムとは、どういうイメージなのかについて積極的かつ具体的な言及が足りない点に不満が残る。 
 
▽朝日新聞―「軍事より経済」で成功した戦後日本 
 
 朝日新聞の主張はこうである。 
「教育基本法の改正を終え、次は憲法だ、そう意気込む自民党の改憲案で最も目立つのは、9条を変えて〈自衛軍〉をもつことだ。安倍首相は任期中の実現を目指すといい、米国との集団的自衛権を認めようと意欲を見せる」 
「軍事に極めて抑制的なことを〈普通ではない〉と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない。安倍首相は〈戦後レジームからの脱却〉を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか」 
「〈軍事より経済〉で成功した戦後日本である。いま〈やっぱり日本も軍事だ〉となれば、世界にその風潮を助長してしまうだけだ。北朝鮮のような国にたいして〈日本を見ろ〉と言えることこそ、いま一番大事なことである」と。 
 
 ここには日本が改憲と自衛軍の保持によって軍事力中心の安全保障(一般には「国家の安全保障」と称される)に急傾斜していくことに大きな懸念を表明している。そうなれば、北朝鮮の核武装にも言うべきことを言えなくなるだろうという姿勢とも受け取れる。 
 この主張は大筋では正しい。では日本はどういう国のあり方を描くべきなのか。「地球貢献国家」宣言を提案している。検討に値するテーマであるが、これを社説の見出しに掲げていないところをみると、ここに社説の主眼があるとはいえない。ついでに問題提起をしてみた程度、という印象が残る。 
 
▽毎日新聞―「世界一」のリストを増やしていくことを提案 
 
 毎日新聞は以下のように論じている。 
「日本に〈世界一〉はいくつあるだろう。(中略)〈男はつらいよ〉は世界一長い映画シリーズである。(中略)日本は世界一の長寿国である。年頭に当たって、私たちは、この世界一のリストを増やしていこうと、と提案する。世界的基準に照らして傑出したモノやサービス、世界に胸をはって誇れるような〈日本発の価値〉を増やそうという呼びかけだ」 
「日本はさまざまな世界一を必要としている。なかでも世界一国民を大事にする政府である。世界一の政府を求めるならば、私たち自身が世界一啓発された有権者でなくてはならない」と。 
 
 率直に言って、この社説は時代感覚がいささかずれてはいないか。今求められているのは「世界一」というよりも、世界における「オンリーワン」(唯一)ではないのか。いいかえれば個性的な輝きにこそ高い価値を見出すべき時代である。 
 社説が主張している「世界に胸を張って誇れる価値」としてまず挙げるべきは「平和憲法9条」(戦争放棄、非武装)であろう。安倍晋三首相は1日付の年頭所感で憲法改正の必要性を強調した。安倍政権が目指す最大の課題は、9条改悪による自衛軍保持である。なぜこの戦後最大のテーマに正面から立ち向かって論じようとしないのか。権力との仲間意識に縛られて、「権力批判」というジャーナリズムの原点を投げ捨てたのだろうか。 
 
▽読売新聞―消費税増税の早期決断を促す 
 
 読売新聞の社説の主眼は以下の通りである。 
「日本はならずもの国家の核と共存することになるのか。この安全保障環境の激変にどう対処すべきか」 
「現在の国際環境下で日本が核保有するという選択肢は、現実的ではない。(中略)核保有が選択肢にならないとすれば、現実的には米国の核の傘に依存するしかない。核の傘を機能させるには日米同盟関係の信頼性を揺るぎないものに維持する努力が要る。同盟の実効性、危機対応能力を強化するため、集団的自衛権を〈行使〉できるようにすることが肝要だ。政府がこれまでの憲法解釈を変更すればいいだけのことだ。安倍首相は、決断すべきである」 
「安全保障態勢の整備は、国家としての最も基本的な存立要件の一つだが、それを支えるには、経済・財政基盤もしっかりしていなくてはならない。(中略)消費税増は不可避だ。与党は消費税論議は秋から開始というが、事実上、参院選を意識しての先送りだ。(中略)それではとても09年度の導入には間に合わない。より早い論議開始・導入の決断を急ぐべきである」と。 
 
 この種の社説は、「米ホワイトハウス・日本首相官邸」共同監修の主張を読まされているような印象を受ける。権力の側に立った社説である。読売新聞は昨年の元旦社説でも集団的自衛権(注)について同趣旨の主張であったから、持論なのだろう。それにしても「憲法解釈を変更すればいいだけのこと」とは、乱暴にすぎるのではないか。 
 
(注)集団的自衛権は、日本が軍事的侵攻を受けない場合でも、同盟相手国の米国の艦隊などが侵攻に見舞われれば、それを軍事的に支援するもので、従来の政府解釈では現行平和憲法の下では行使できないとされている。ところが集団自衛権行使を容認することになれば、先制攻撃論に基づく米国の世界規模での軍事力行使に日本は付き合うことになりかねない。 
 
 むしろ今年の主張の眼目は「消費税増は不可避だ。その導入を急げ」にあると読んだ。戦争体制を強化することは、戦時体制の米国の財政赤字増大をみるまでもなく、財政負担増に直結する。その財政負担増をまかなう手段が課税基盤が広く、大衆課税を意味する消費税増税である。「社会保障費増への対応」が大義名分に掲げられるだろうが、それは世論操作でしかないことを承知しておく必要があろう。 
 
▽産経新聞―なぜ「無国籍化と個の肥大や暴走を招いた」か 
 
 産経新聞は次のように主張している。 
「隣人を思いやり、苦悩を分かち合う共同体意識の再生も、いまほど求められている時代はない。家族は社会や国づくりの一番の基礎にある。家庭と共同体の再生こそ日本再生へのカギではないか」 
「その意味で改正教育基本法の成立は価値ある重要な一歩といえる。(中略)教育基本法も憲法同様、人類の普遍的価値や個の尊重を強調するあまり、結果として無国籍化と個の肥大や暴走を招いた」と。 
 
「家族は社会や国づくりの一番の基礎にある」との指摘は、その通りであろう。だから改正教育基本法の成立は価値があり、さらに憲法改正も必要だという主張らしいが、これはいささか飛躍してはいないか。なぜ「無国籍化と個の肥大や暴走を招いた」のか。それは平和憲法や改悪前の教育基本法の責任ではない。 
 
 有り体にいえば、その責任は、多くの人が肯定してきた戦後の経済成長主義にある。成長政策を支えた経済思想―1980年代以降、今日までの規制緩和・廃止、民営化、自由化さらに弱肉強食の競争激化を背景に私利追求路線を推進してきた自由市場原理主義も含めて―は、いのちや共生の軽視、利己主義を特色とした。これを推進したのがほかならぬ自民党を中心とする保守政権である。自らの責任を棚に上げて、他者に責任を転嫁するのは、それこそ卑怯な振る舞いというべきである。 
 
 しかも教育基本法改悪の裏には「国家のためにいのちを捨てる愛国心」を育てる意図をみてとることができる。安倍首相の著書『美しい国へ』は、そのことを明示していることを見逃すべきではない。 
 
▽日本経済新聞―「国際心」が安全保障の礎になる 
 
 日本経済新聞は経済専門紙らしく以下のように論じている。 
「政府は小泉純一郎政権以来、対内直接投資の倍増計画を打ち出し、投資誘致に旗を振っているが、05年の日本の対内直接投資残高は国内総生産比でやっと2.2%。欧州連合(EU)の33.5%、米国の13.0%、中国の14.3%などに比べて、けた違いに低い」 
「冷戦後のグローバル経済は直接投資の誘致競争の時代といっていい。(中略)直接投資は成長の切り札である。資本だけでなく、新しい製品、サービスや技術、経営ノウハウをもたらし、雇用機会を創出する。競争を通じて経営効率を高め、産業を高度化する。それは消費者の利益にも合致する。直接投資を受け入れる〈国際心〉が成長持続を確かにし、ひいては安全保障の礎になる」と。 
 
 現代経済学者の作文ともいえる印象で、グローバル経済、成長経済の賛美論あるいは必要論に終始している。登場してくる〈国際心〉は、新渡戸稲造(国際連盟事務次長をつとめ、著書に『武士道』がある)の言葉で、世界に開かれた精神を指している。その国際心と安全保障とを連結させたところに社説の新味を見出すべきなのか。 
 ただグローバル経済賛美論には大きな疑問を覚える。ここではノーベル賞経済学者のスティグリッツ(米クリントン政権の大統領経済諮問委員長、世界銀行の上級副総裁兼チーフエコノミストなどを歴任)著『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』からグローバル経済批判論を紹介しておきたい。 
 
*1990〜2002年の間に世界総人口のうち不平等が拡大傾向にある国々に住む人の割合は59%、不平等が縮小傾向の国々に住む人はわずかに5%にとどまった。先進国の多くでも、金持ちがより金持ちになる一方、貧困層は現状維持さえむずかしいという状況だった。 
*グローバル化によって物質的利益を重んじる価値観が突出し、環境や生命を大切にする価値観がないがしろにされている。 
*誰もが経済的利益を享受できるというグローバル化擁護論の主張に反し、先進国と途上国の双方に数多くの敗者がいる証拠が山ほどある。 
*グローバル化は経済政策や文化のアメリカ化を意味してはならないが、しばしば、あってはならないことが現実となり、途上国に遺恨を抱かせてきた。 
 
 以上からも分かるようにグローバル経済擁護論者すなわち市場経済賛美論者は、少し頭を冷やし、思い込みを離れて、現実を冷静に観察してはどうか。 
 
▽世を乱し、日本の針路を危うくする3人の首相 
 
 現在の日本がどの方向に進みつつあるのか、その位置を定めるにはやはり歴史に学ぶ必要がある。ここで問題を出したい。 
 
問い:次の3人の政治家の共通点は何か。昭和の初めの田中義一首相、昭和30年代の岸信介首相、そして現在の安倍晋三首相(岸元首相の孫)―である。 
答え:3人とも長州(山口県)出身である。その上、3人とも日本の針路を悲劇に追い込んだり、誤らせたり、あるいは今その道を進みつつある―という共通点がある。 
 
 戦前の総力戦体制づくりが始まったのは治安維持法制定(国体の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社活動および個人的行為を処罰する法律。1925年=大正14年=公布)からで、1928年(昭和3年)緊急勅令で死刑・無期刑を追加したのが田中義一内閣だった。同法は反政府的な思想や言論の自由の抑圧手段として利用され、権力批判は封じ込められた。その挙げ句の果てが日本の侵略戦争で日本人310万人、アジアで2000万人ともいわれる犠牲者を出し、かつての日本「帝国」は滅んだ。 
 
 1960年に新安保条約の締結によって現在の日米安保体制を創設したのが岸信介政権で、その時以来、平和憲法第9条の「非武装理念」と新安保条約第3条の「自衛力の維持発展」との矛盾が拡大することになった。その意味では憲法9条の理念を事実上空洞化させたのが岸政権で、それ以降、白を黒と言いくるめる保守政権が続いている。政府が先頭に立って国民に嘘を言い続けてきたわけだから、これで世の中が乱れなかったら不思議であろう。 
 
 そして今、安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を唱え、戦前への回帰を志向しつつある。再び日本を滅ぼすのかという危惧の念を抑えきれないのは当然であろう。ただ残念ながら昨今のメディアの多くにはこういう歴史に学ぶ目が曇ってはいないだろうか。 
 
▽朝日社説「狂気が国を滅ぼした」を読んで―非武装化の視点から 
 
 元旦社説とは異なる朝日新聞社説「開戦65年 狂気が国を滅ぼした」(06年12月9日付)は歴史に学ぶ意欲をうかがわせる優れた論評である。過去の日本の狂気に何を学ぶかについて朝日社説が提起している点は以下の通りである。 
 
*なぜ日本はあのような(戦争という)暴挙に走ったのか。 
*冷静に考えれば、勝ち目がないことぐらい分かりそうなものだ。だが、体を張って「待った」をかける政治家も軍首脳もいなかった。 
*真珠湾(攻撃)の日に「マスコミは戦争をあおり、国民もやった、やった、と熱狂した」 日本中を狂気が覆っていた。 
*「あんなことは絶対に二度と起きない」と言い切ることはできまい。 
*どうすれば踏みとどまれるのか。狂気に包まれる前に、現実に目を見開くことはできるのか。 
*あの狂気やその種はこの世界からなくなったわけではない。過ちは今もどこかで繰り返され、戦争の悲惨は続く。 
 
 上記の問題点一つひとつが今日的である。問題はその狂気なるものがすでに始まっているのか、そうではないのかである。私はすでに始まっていると考える。それは何よりも日米安保=軍事同盟体制下で日米一体となって世界を視野に戦争できる国へと走りつつあるからである。憲法9条改悪はそれを意図している。 
 軍事同盟には敵からの脅威をかき立て、自己保存・肥大化を図り、戦争を仕掛ける傾向がある。1940年に締結された日独伊3国軍事同盟がその具体例であろう。上記の朝日社説は日独伊3国同盟も破局への道のひとつととらえている。 
 
 それならなぜ今の日米安保=軍事同盟体制を批判しないのか。この日米安保=軍事同盟をタブー視しないで批判すること―私は軍事同盟解体を唱えている―から新しい発想、アイデアが始まる。日本の新しい国づくりの構想もここから出直す必要がある。 
 結論を急げば、私は日米安保解体後の針路として核保有、軍事大国化ではなく、それと180度異質の憲法9条の理念を生かす非武装化路線を視野においている。歴史に学ぶとは、これに尽きると考える。 
 
*安原和雄の仏教経済塾 
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