2007年06月28日10時15分掲載  無料記事
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戦争を知らない世代へ

私の見た朝鮮人従軍慰安婦の現場 中谷孝(元日本軍特務機関員)

  従軍慰安婦問題で日本政府に公式の謝罪を求める決議案が、米下院外交委員会で6月26日に可決された。これに先立ち、6月15日の新聞を読んで嘆かわしく思った。自民・民主両党国会議員44人の他、櫻井よし子、岡崎久彦氏らの名前で、ワシントンポスト紙に「従軍慰安婦を強制した文書は発見されていない」と全面広告を出したと云う。文書が見つからないから、その事実は無かったと言うのは事実に合わない。敗戦直後、軍命令で重要な文書を完全に焼却した事実を知らぬ筈はないのだが、そんな意見広告でアメリカの世論に影響が出る筈は無く、むしろ恥の上塗りであろう。 
 
 敗戦直後、東京・大森の有名料亭に占領軍兵士の慰安所を開設し、アメリカ兵が国道に長蛇の列をなしたと云う話を私は復員直後に聞いた。その後、何かの読物にもその話が載っていた。 
 
 戦地に駐留する軍隊が兵士の性犯罪防止の為、売春組織を設ける例は多い。日本軍が売春組織を公式に設置したのが何時の戦争からか知らぬが、日中戦争長期化の見通しとなった頃から主な駐屯地に必ず存在する様になった。 
 
 昭和14年(1939)2月、私が蕪湖に赴任する為、上海から乗船した日清汽船大成丸の二等船客は私と占領4ヶ月の漢口に向かう慰安婦の一行のみであった。京都の商家が軍の要請によって楼主以下全員、漢口に移動し軍慰安所を開設するのだと云う。楼主は妻と17歳の娘を同行していた。娼婦は12、3人であった。「お国の為」を強調していた楼主は軍属(嘱託)扱いの身分と言っていた。 
 
 その後見かけた日本人慰安婦は、人数が少ないので、料亭を兼ねた将校専用施設で働いていた。 
 
 太平洋戦争が勃発し南太平洋或いは東南アジアの占領地にもそれぞれ現地人を雇って慰安所が開設され、朝鮮人慰安婦も各地に配分されたという。ジャワ島に於いて収容したオランダ人女性を強制的に高級将校用慰安婦にしたことは戦後、戦犯問題となる特異な事態であった。中国の戦地では大部分が中国人慰安婦であった。 
 
 朝鮮人慰安婦問題が未だに論議され、当時を知らぬ人々により益々結論が遠ざかって行くのは残念である。政府関与の有無であるが、政府・軍の要請無しに朝鮮総督府が人集めをする筈は無く、総督府の許可無く若い女性達が多数外地、それも戦地に向かうことは有り得ない。強制或いは欺瞞があったことは疑う余地が無い。 
 
 朝鮮女性のみの慰安所が戦地に存在したことは誰も否定しない。私の見た彼女等は極めて劣悪な環境に置かれ外出の自由も奪われていた様であった。その職場でもあり宿舎でもある建物は街外れにあり、板張りの仮小屋の様な建物であった。街で見た朝鮮慰安婦は赤い長襦袢に腰紐一本、サンダルを履いて街の酒屋で焼酎を飲む、見るも恥ずかしい姿であった。或る日、人だかりを覗くと、泥酔して仰向けに倒れ、朝鮮語でわめく慰安婦の襟がみを憲兵が慰安所に引きずって行く処であった。 
 
 一部の人が言う様に、彼女等が自由意志で選んだ職業であるならば、劣悪な環境から脱出できた筈である。軍に属しない民間人なら領事館に居留登録し、素行は領事館警察(外務省の警察機構)が取締る筈であるが、全く軍の管轄下にあって、慰安婦の検徴は陸軍病院で行われていた。慰安所は兵站(後方支援業務)に属していたことは間違いない。 
 
 歴史は真実を伝えなければならない。戦場には美談も有り、恥ずべき事実もあった。 


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