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Special

特集

戦争を知らない世代へ




英反戦運動家ブライアン・ホーさん、亡くなる
 英議会の建物前にある、「パーラメント広場」で、2001年から反戦ストを行ってきたブライアン・ホー(Brian Haw)さんが、肺ガンで亡くなった。家族が19日、明らかにした。(ロンドン=小林恭子)(2011/06/20)

「冬の兵士」とウィキリークスがあらわにする戦争の姿
 ロンドンに住む知人から、「冬の兵士」(岩波書店)という本を頂いた。知人は本の校閲に関わっていた女性である。副題に「イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実」とある。(ロンドン=小林恭子)(2011/06/04)


「同じ状況だったら、また投下しただろう」―エノラゲイで原爆投下した元航法士が英紙に語ったことの衝撃
 ある戦争が終わった時、勝った側と負けた側とが認識を同じくすることはあるのだろうか?おそらく、戦闘の規模、衝撃、犠牲者の数などに関して、相当に評価が違うはずである。英紙「ガーディアン」の5月21日号に掲載された記事が私の目に留まった。黒字の見出しが「また爆弾を落とすだろうか?」とあり、その次に、「落とす(イエス)」という単語が青字で印刷されていた。「一体何故?」―思わず記事を読みだしていた。 (2010/05/22)

アフガン戦争での英兵戦死者が200人近くに ―英軍関係者の生の声
 アフガニスタンでの英兵の戦死報道が、連日続いている。ここ1週間で7人亡くなり、毎日一人が命を落した計算になる。20 01年のアフガニスタン侵攻から現在までに、英国の戦死者の数は、15日時点で199人。オバマ政権は英国、米国などの多国籍軍の増派によって、敵となる現地タリバン勢力(イスラム教原理主義派)を弱体化させようとしているが、その効果がなかなかあがっているようには見えず、英兵は一人また一人と亡くなっている。実際にアフガンに駐留している英軍関係者はどのような思いでいるのだろうか?英「インディペンデント」紙が伝えた声を紹介したい。(ロンドン=小林恭子)(2009/08/16)


ポツダム宣言受諾の日 日本軍兵士の運命を分けたのは駐留地点だった
  1945年8月15日は日本の歴史に残る衝撃の一日だった。日本のポツダム宣言受諾により15年戦争の終結した日である。日本帝国主義の暴発とも云うべき第二次大戦に従軍し海外に駐留していた日本軍人は膨大な数に達していた。それが敗戦に際し現地で武装解除を受け帰国する迄の経過は地域によって大きく明暗を分けた。私自身もその一人であったが、極めて恵まれていたことを後日知ることになった。日本の敗戦が伝わらず戦後三十年に亘り、グアム島或いはフィリピンの小島に潜んでいた軍人もいた。(中谷孝)(2009/08/10)


“名誉の戦死”の悲惨な実態 兵士は靖国神社に祭られることを望んだのか?
  靖国神社には大東亜戦争の213万人をはじめ計250万人近い戦死者が祭られている。私達の世代は、戦場で死を恐れず勇敢に戦えば死後神になって靖国神社に祭られ、年に一度の例祭には天皇に拝んで戴けると教えられた。戦争末期、ニューギニア、ガダルカナル島等、南方戦場の死者の大半は餓死であったが全員神様になった。幸い生きのびることができた私は戦場でいわゆる“名誉の戦死”の実態を多く見たが、何れも親族に伝えることの出来ない悲惨な状態であった。当然靖国神社に祭られることを望む兵士などいる筈はなかった。(中谷孝)(2009/08/05)


アフガン戦争 英兵の遺体を見送る人々とともに
 英南部ウィルトシャー州にある人口約1万の町ウートン・バセットで、2年ほど前から、アフガニスタンやイラクで命を落とした英兵の遺体を見送る儀式が自然発生的に続いている。全国から人々が集まり、メディア各社がやってくる。その背景を現地の声を通して探った。(小林恭子)(2009/08/01)

アフガン戦争 英兵の遺体を見送る人々とともに
  「対テロ戦争」という大義のためにアフガニスタン南部に派遣されている駐留英軍の死者が急激に増加している。今月7月に入ってから、既に22人が死亡。2001年、戦闘に参加してからの英軍の総死者数は191人で、2003年のイラク戦争での死者179人を超えた。「今すぐ英兵をアフガニスタンから撤退させるべき」という声が英国内で日々強まってはいるものの、「お国を守るために、使命を全うしてから帰国させるべき」という意見も根強い。こうした中、英南部の町、ウートン・バセットが近頃、注目を浴びている。この町は、亡くなった英兵の遺体が入った棺を英空軍基地から病院の死体置き場まで運ぶ行路の途中にある。2,3年前から、この町に全国から人々が集まるようになった。棺を運ぶ車の到来をじっと待ち、通過時には黙祷する。無言で帰ってきた英兵たちに、敬意の念を表すのだ。(小林恭子)(2009/07/30)


「東洋のゲルニカ」重慶爆撃の惨事を忘れまい 日中戦争から72周年 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  7月7日が七夕だということは知っていても、72年前の1937年(昭和12年)の同じ日に日中戦争が始まったことを知る日本人は少ないだろう。日中戦争に於いては南京大虐殺が大きく取り上げられてきたが、日本軍が侵攻できなかった臨時首都重慶の悲劇を知る人はさらに少ないに違いない。「東洋のゲルニカ」と言われる市民の無差別殺戮が日本軍の重慶反復爆撃により起きていたのである。(2009/07/06)

北朝鮮の核への対抗核保有は危険な誤り 日本の安全を護るのは徹底した平和政策
  1905年(明治38年)アメリカ大統領セオドール・ルーズベルトは日露戦争の戦局が日本に有利に傾いた時機を見て、講和仲介に乗り出した。日清戦争後大挙して満州に侵入したロシア陸軍が日本に敗れ、頼みのバルチック艦隊も対馬沖に潰滅した機を見て講和を仲介し、国力を消耗して苦境にあった日本に恩を売り、満州に利権を得ることを期待していたと云われている。然し、ポーツマス条約によりロシアから満州の独占的利権を獲得した日本は勝利に酔い、アメリカに何等報いることが無かった。(中谷孝)(2009/06/13)


憲法施行62年:日本は平和の使徒に徹すべし 我が人生、終末期を迎えて遺す言葉
  大正九年生まれの私は今年八十九歳になる。既に中学同期生三百余名中、生存者は十人前後となった。同世代男子が異常に少ないのは戦争の後遺症である。四分の一以上が戦争の犠牲になった。彼等は避けることの出来ない国家権力によって生きる権利を奪われた。運命は選ぶことが出来ない。軍国少年であった私は十九歳で志願して日中戦争に従軍し、七年後に生還したが、勉学を志して一流大学に進んだ優秀な同期生の多くは、非情にも国家権力によって戦争末期、フィリピンの激戦場に送られ人生を断たれてしまった。その無念は如何ばかりであろうか。(中谷孝)(2009/05/03)


近代日本の歴史が危ない 海上自衛隊護衛艦のソマリア派遣に戦争体験者の不安
  「近代日本の歴史が危ない」。海上自衛隊の護衛艦2隻がソマリア沖の海賊対策に出航する光景に、私はそんな想いに駆られる。これがなし崩しの出兵容認につながらないことを望む。敗戦の1945年が既に遠い過去になり、日本人の多くは自国の戦争を単なる歴史上の事実と受け止め、身近なことと感じていない。私が明治の歴史を見る様な感覚であろうか。(中谷孝)(2009/03/16)


軍人こそ正しい歴史観を 自衛隊空幕長の浅薄な歴史認識を憂う 中谷孝
  自衛隊の田母神俊雄・航空幕僚長が、「日本は日中戦争に引きずり込まれた被害者で侵略国家と云うのは濡れ衣である」と言う論文を書いたことが原因で更迭された。当然である。日中戦争に日本陸軍の一員として参加した私は、今どき日本は被害者であると云う歴史観を持つ人物が航空自衛隊の最高幹部にいたことに驚いたが、その論文を最優秀賞に選んだアパグループの存在にも危機感を抱いた。田母神氏が強調する「愛国心」が戦前どのようなものであったかを記しておきたい。(2008/11/15)

関東大震災と中国四川省大地震で改めて防災意識を高めた 中谷孝
  九月一日と聞いて、関東大震災の日とピンと来る人はそれほど多くはないかもしれない。私は大正十二年(一九二三年)のこの日に遭遇した。当時三才だったが、それから八五年経った現在もその情景が眼に浮かぶのは余程の恐怖だったのだろう。そして今年五月に中国の四川省で大地震が起きたとき、私が他人事とは思えなかったのは自分の震災体験とともに、日中戦争に参加して青春時代をかの大陸で過ごしたからであろう。二つの震災の現実を見て、改めて防災意識を高めた。(2008/08/30)


「辻政信」の数奇な足跡 元陸軍参謀から戦後参院議員に、そしてラオスで失踪 中谷孝
  太平洋戦争の傷跡も治まり講和条約も発効して日本の戦後が第一段階を終わろうとしていた昭和二十六年(一九五一年)頃、陸軍の名参謀或いは迷参謀と云われた辻政信元大佐の著書『潜行三千里』が発売され、爆発的売れ行きを見せた。更に辻は郷里石川県より参議院選に立候補し最高得票で当選話題となった。彼の人を喰った発言奇行は軍人時代から毀誉褒貶も激しかったが、「作戦参謀は第一線に立って指揮すべし」と言って弾丸の下に立つ彼の姿勢に下級幹部の信頼は厚かった。(2008/08/19)


日中戦争最初で最大の「帰順」 国民党軍師団長・王占林との出会いと別れ 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)
  私が陸軍特務機関員に採用され蚌埠(バンプー)特務機関に配属されて間も無い昭和十四年(一九三九年)初夏、日中戦争中、最初にして最大の帰順が行われた。帰順が投降と相違するのは、投降が戦いに敗れて降服するのに対し、帰順は敵と話し合って寝返ることである。戦争初期、国民党軍(中国政府軍)の戦意は旺盛で、帰順を見ることは無かった。日本軍が中国軍の捕虜に対して極めて厳しく取扱い、投降は死を覚悟しなくてはならない事情も影響していた。日本軍のモラルは信頼されていなかった。(2008/08/13)


日中戦争実録 捕虜の扱いに見る日本陸軍のモラル 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)
  私達世代(大正生まれ)は戦前、日本の軍隊は武士道を辨えた正義の軍隊であると教えられていた。然し私が戦場で体験した日本の軍隊には既に正義が無かった。兵士は只、天皇陛下の命令であるから戦う。何故何の為というには問題で無かった。天皇の為であるから、理不尽な殺戮にも罪悪感が無かった。それは日本軍本来の姿ではない。日露戦争当時、外国観戦武官の報告に、日本軍の軍紀を賞賛する言葉も見られる。それに反して日中戦争では捕虜収容施設も無く釈放もしていない。(2008/08/09)


明治の日本人が懐いた満州支配の願望が15年戦争の悲劇に 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)
  広島、長崎の原爆忌から8月15日の63回目の敗戦記念日へ──。今年も、私と同じように青春時代を15年戦争とともに送った仲間が一人またひとりと姿を消していった。残された者のつとめとして、日本人はなぜあのような悲劇に突入しなければならなかったのかを体力と気力のつづくかぎり書き残しておきたい。そこから、“昔の日本人”の私が“今の日本人”に求めるものが何であるかを汲み取っていただきたい。(2008/08/06)

平和憲法は何にも代えられない宝 平和のため勇気を持とう 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)
 日本人を今と昔に分類する境界線は無いが、大きく日本が変わった昭和二十年の敗戦を境界と考えてよいだろう。今戦前と戦後、どちらの日本が良いかと問われれば私は戦後と答えるだろう。勿論今の日本に問題は多い。心配なことも沢山ある。だが戦争をもうしないという日本人には大きな安心感がある。六年余り戦場を体験した私にとって平和憲法は何にも代えられない宝である。憲法に譲られた戦後六十年の平和の有難さは身に沁みている。心配なこともある。今日米安保体制が日本の平和を脅かしている。(2008/08/01)


戦中・戦後の粉骨砕身への報いが「後期高齢者」とは… 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  私事であるが1920年生まれの私は88歳の米寿である。戦場を生き延び今日があることは、確かにめでたいことではあるが、後期高齢者と呼ばれ国家からその存在があまり喜ばれていない実情を見ると、寂しくもあり腹も立つ。戦中・戦後の青春時代にお国の為に粉骨砕身してきたはずの私たちは、いまや政府にとって無駄飯食いの厄介者に見えるらしい。(2008/05/17)


都心の新宿御苑にミサイル基地の時代錯誤 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  先日テレビニュースを見ていると東京防衛の為、都心の新宿御苑をミサイル発射基地にする演習を行っていた。常駐地の横田基地は射程の関係で不適切なのでいざと云う時、御苑を基地にするための演習であった。自衛隊は準戦時態勢に入っている様だ。相手は何処の国なのだろうか。70年昔のタイムカプセルを開いた様な話に驚いた。(2008/02/14)


「尽忠報国」の特攻とアッラー信仰の自爆テロ 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  12月8日は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争(当時の言葉では大東亜戦争)の開始日である。特攻世代のひとりである私は、この無謀な戦争を思い起こすたびに、6年前の9月11日にアメリカで起きた同時多発テロが人ごととは思えない気持ちになる。「尽忠報国」教育を受けて戦闘機で敵艦に突っ込んでいった日本の若者と、アッラーへ忠誠心を示してニューヨークの高層ビルに航空機もろとも突撃したアラブの若者の姿が重なるのである。(2007/12/08)

歴史の改ざんは日中友好の妨げに 中谷孝(元中国派遣日本軍特務機関員)
  12月8日と聞いて、66年前の太平洋戦争開始の日ということを知っている日本人はどれほどいるだろうか。それから4年後の1945年(昭和20年)8月15日の敗戦記念日には毎年、戦争の惨禍について記憶を新たにするさまざまな行事が催されるが、開戦の日は年々遠くなっていくばかりか、それ以前の日中戦争となると体験者も日々少なくなってきている。その数少ない中国戦線の老兵のひとりとして、わたしは最近の歴史改ざんの動きが気がかりでならない。(2007/12/06)


蚌埠特務機関長原田大佐の涙 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  わたしが中支派遣軍特務機関員に採用され蚌埠(バンプー)特務機関に着任したのは、昭和14年(1939年)6月であった。前年10月、臨時首都漢口を占領し、さらに揚子江上流へ進撃した日本軍は宣昌を占領した時点で停まった。補給が困難になったのである。地図上に示された占領地も実質的には都市を除けば駐屯地を結ぶ線に過ぎず、その線の確保に専念しなければならなくなっていた。蚌埠は南京と北京を結ぶ大動脈津浦鉄道の要衝にあり、黄河と揚子江の中間に位置する大河、淮河の港としても重要な商業都市であった。(2007/08/17)


大震災復興を祝った東京が15年で再び廃墟に 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  昭和5年(1930年)春のお祭り騒ぎを小学校3年生だった私は覚えている。関東大震災から7年、東京の復興を祝う復興祭であった。小学生も旗行列に参加し、夕刻家族と青山通りに花電車を見に行った。普段多摩川砂利を運んでいる貨物電車を改装して派手な電飾を施した「花電車」が十数両、青山車庫(現在のこどもの城辺り)を出て渋谷駅前で折り返し都心へと向かった。東京は関東大震災の跡形もなく復興し近代的な新しい街に生まれ変わっていた。東京人はその頃、東北農民が塗炭の苦しみに喘いでいることを知る由もなかった。ましてわずか15年後に東京が再び廃墟になるとは…。(2007/08/15)


地下足袋姿の初年兵に唖然 中国戦線で見た日本陸軍の最期 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  敗戦後62年が経とうとするのに、戦争中のことを思い出すことが多い。戦争の本当の話を聞きたいという申し入れがあり、記憶を呼び戻している。昭和19年(1944年)ころからは、つらい思い出ばかりだ。その極めつけが陸軍の最期だ。なぜか懐かしいあの頃の思い出が、鮮烈に蘇ってくる。今の日本の平和が如何に莫大な犠牲の上にあるのか、今の日本人に知ってほしい。あの時代を体験したわたしたちが消え去る日も近い。あとは大丈夫だろうか。(2007/08/14)


8月15日に思う 遅れて訪れた天佑神助 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  「天佑を保有し…」で始まる宣戦の詔勅を掲げ、神風を信じて挑んだ無謀な戦いは日本に悲惨な敗戦をもたらした。敗戦前に神風は吹かなかったが、大きな天佑神助が敗戦直後に訪れていたことを知る人は少ないようだ。昭和20年(1945年)8月15日、玉音放送(連合国に無条件降伏したことを告げる天皇の声)を聞いて、国民は「この大きな犠牲は一体なんだったのか」と呆然となり、これからどうなるのかという不安と恐怖を感じつつ、もう死ななくてよいらしいことに安堵した。(2007/08/13)


日中戦争野戦病院での忘れられない光景 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  戦争の記憶も薄らいだ昭和40年代であったと思う。テレビで和歌山県出身の篤農ミカン農家を紹介していた。隻脚の主人公は松葉杖一本でピョンピョン飛び跳ねて、斜面のミカン畑を廻っていた。そしてナレーションは、彼が昭和19年(1944年)春に中支戦線で負傷したと伝えた。その当時、中支で右脚を失った兵士は何人もいなかったであろう。私はある野戦病院の光景を思い出した。(2007/07/28)


中国の戦場で捕虜になった日本軍人 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  嘗て、日本軍は捕虜になることを許さなかった。戦陣訓という教科書により捕虜になるより自決して虜囚の辱めを受けることが決してあってはならないと教育されていた。然し戦場で偶発的に捕虜になる軍人があったことは当然である。私は昭和18年(1943)年9月から一時期、南京の総司令部報道部に臨時勤務していた折見た重慶の新聞紙上、或いは傍受したラジオ放送にしばしば日本兵捕虜に関する内容を見聞した。又日本軍捕虜総出演と云う長編映画も見た。此の映画出演者はまぎれもなく日本軍人であった。(2007/07/19)


虐殺を楽しんだ殺人狂の中隊長 日中戦争の真実 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  戦後62年経ち最近は日中戦争を正当化し美化する読物や漫画まで出現している。確かに戦場には美談もある。個々の兵士に罪はない。然し中国人に与えた損害・危害は莫大である。「勝者は何をするのも勝手だ」と云う驕りが無法行為を生んだ。私は誤った戦争観を正す為、今迄口にすることの無かった事実を話す気持ちになった。この話に粉飾は無い。現地盧州(現・合肥=ホフェイ)の古老が証言してくれると思う。(2007/07/02)

私の見た朝鮮人従軍慰安婦の現場 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  従軍慰安婦問題で日本政府に公式の謝罪を求める決議案が、米下院外交委員会で6月26日に可決された。これに先立ち、6月15日の新聞を読んで嘆かわしく思った。自民・民主両党国会議員44人の他、櫻井よし子、岡崎久彦氏らの名前で、ワシントンポスト紙に「従軍慰安婦を強制した文書は発見されていない」と全面広告を出したと云う。文書が見つからないから、その事実は無かったと言うのは事実に合わない。敗戦直後、軍命令で重要な文書を完全に焼却した事実を知らぬ筈はないのだが、そんな意見広告でアメリカの世論に影響が出る筈は無く、むしろ恥の上塗りであろう。(2007/06/28)


日中戦争下の米国人宣教師と中国民衆と日本軍 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  日中戦争の戦場で印象に残っていることに、到る処で出遭ったアメリカのプロテスタント教会とその付属病院の存在がある。 (2007/06/16)


今、政府が目論む「戦える日本」、それは亡国への途 中谷孝(元日本軍特務機関員)
  まもなく87歳を迎える中谷孝さんの脳裏を行き交うのは、日本軍の特務機関員として中国戦線で過ごした青春時代である。さまざまな戦場体験の記憶は、歳とともに薄れるどころかかえって鮮明になっていく。それは、死と隣り合わせの時代だったからだけではない。今、自分たちの戦争体験が正しく伝えられず、日本がふたたび「戦争のできる国」へと突き進もうとしているためだ。日本は二度と亡国の道を歩んではならない、平和の大切さを次世代に訴えつづけなければならない、そのためには戦争の真実の歴史を戦争をしらない世代に遺すことが自分の使命ではないか。そう考える元皇軍兵士が書きとめた文章を随時お届けする。(ベリタ通信)(2007/06/07)

「紳士が鬼になる」戦争を繰り返してはならない 元日本軍特務機関員・中谷孝氏が若い世代に講演
  本紙で度々紹介されてきた元日本軍中支派遣陸軍特務機関員、中谷孝氏(85)の初の講演会が3月25日、東京都内で行なわれた。中谷さんは、定員の60名を上回る80名近いさまざまな世代の参加者に、自らの体験をもとに「紳士が鬼になる」戦争の不条理を繰り返してはならない、と訴え、講演後も会場で若い人たちの質問攻めにあった。『「循環型社会に戦争はいらない」〜80代、50代、20代が語る戦争体験と戦争観〜』と題された講演会は、中谷さんの妹をはじめとした市民のインターネットのつながりから実現したもので、講演の模様はTBSのJNNニュースでも報道された。(山上郁海=日刊ベリタ)(2006/04/01)


日本人は歴史に学び目を大きく見開こう 元日本軍特務機関員・中谷孝氏の証言<3>
 日中戦争下の中国で、日本陸軍の中支派遣軍特務機関員として青春時代の7年間を過ごした中谷孝氏(84)は、各地を転戦するとともに中国人との親交も結んだ。また級友の多くを南方戦線で失った。そのような体験を踏まえて、氏は戦後60年を迎えた日本の現状とこれから進むべき道をどのように考えているだろうか。「これだけはぜひ語りついでおかねばならない」という中谷さんのお話を伺った。(日刊ベリタ=山上郁海)(2005/08/06)


日本軍は中国で何をしたのか 元陸軍特務機関員・中谷孝氏の証言<2>
 日中戦争に日本陸軍の中支派遣軍特務機関員として参加した、中谷孝氏(84)は、戦場で数々の狂気を体験してきた。前回紹介した南京大虐殺だけではない。中国人捕虜の処刑、毒ガス攻撃、中国や朝鮮女性の従軍慰安婦、日本人高級軍人らの腐敗等々。そして、戦争という状況ではしだいに通常の感覚が麻痺し、こうした出来事を異常と感じなくなっていく自分があったという。(日刊ベリタ=山上郁海)(2005/07/31)

日本軍は中国で何をしたのか 元陸軍特務機関員・中谷孝氏の証言<1>
 戦後60年が経っても、中国や韓国では「反日」が収まらない。背景は複雑だが、どのような政治的要因がからんでいようと、火種がないかぎり「反日」が燃え上がることはありえない。いま必要なのは、その原点を再確認することであろう。そのための貴重な歴史の証言者として、日中戦争中に日本の元中支派遣陸軍特務機関員をされていた、中谷孝氏(84)の話をうかがった。中谷氏は7年間の自らの体験をふまえて、日本の現状と将来についても率直な意見を明らかにされた。(日刊ベリタ=山上郁海)(2005/07/30)








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