2007年08月14日12時12分掲載  無料記事
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戦争を知らない世代へ

地下足袋姿の初年兵に唖然 中国戦線で見た日本陸軍の最期 中谷孝(元日本軍特務機関員)

 敗戦後62年が経とうとするのに、戦争中のことを思い出すことが多い。戦争の本当の話を聞きたいという申し入れがあり、記憶を呼び戻している。 
 昭和19年(1944年)ころからは、つらい思い出ばかりだ。その極めつけが陸軍の最期だ。なぜか懐かしいあの頃の思い出が、鮮烈に蘇ってくる。 
 
 あの頃、日本の資材不足は想像を絶するものだった。南方の占領地に鉄道を敷く計画を立てたが、レールがない。大本営は私の任地、安徽省の淮南鉄道200kmのレールを外して持っていってしまった。住民はもとより、その地区に勤務していた私自身もひどい目に遭った。線路跡を道路にしたが、便乗していたトラックが地雷を踏んで重傷を負ってしまったのだ。しかも、噂話では、あのレールを積んだ輸送船が撃沈されたらしいという。 
 
 ある日、なにかの用事で津浦(しんぽ)鉄道蚌埠の駅頭にいたとき、内地から新兵が到着した。新兵といっても、年配者の多い召集兵たちで任地に無事着いた安堵感よりも、待ち構える運命に不安を隠せない様子だった。 
 
 この地区の部隊は、米軍の上陸に備えて、大部分が浙江省方面に移動し、その補充のために送られてきた兵隊なのだが、その姿に唖然とした。 
 従来、任地に赴く兵隊は、完全装備の凛々しい姿なのだが、この連中は3人に1挺しか銃を持っていない。足には軍靴の代わりに地下足袋を履き、おにぎり入れの藤の籠、銃剣の鞘は竹製、弾薬盒なし、水筒なし、銃は遊挺覆いなし、照尺なしの簡易型。員数集めの未教育兵は、見るからに頼りない。出発地では、服装装備は現地にあると聞いて来たらしいが、受け入れ側は、初年兵が装備してくると思っていた。結果がどうなったか、私の関知するところではなかった。 
 
 対峙する第10戦区の中国軍は、米軍から支給されたロケット砲の訓練を米軍下士官指導のもとに始めていた。米軍飛行機の不時着に備えて、畑の畝の高さが制限された。そんな情報が続々入ってきた。ガソリン代が不足して、木炭やカーバイド(アセチレン)等の代用燃料で軍用トラックが走るようになり、兵隊にも次第に不安の色が濃くなっていった。 
 
 特殊任務のわたしたち特務機関員は、南方の戦況も知る立場にあり、苦悩の日々であった。 
 もし敗戦が遅れて、中国大陸決戦になっていたら、我々はさぞかし惨めな最期を迎えたことだろう。8月15日、私は日本陸軍の最期を見ることになった。そして命拾いした。 
 
 その頃、内地では上陸米軍を迎え撃つ女子竹槍訓練が行われ、東京の市街を守るために、バケツやムシロが準備されていたそうだ。そして制空権を失った海へ3330名の若者を載せた戦艦大和は、特攻出撃して行った。帝国海軍の名誉のために。 
 陸海軍の最高頭脳集団、大本営の参謀達も落ち目になって狂ってしまったのだろうか。支離滅裂の指揮だった。 
 
 今の日本の平和が如何に莫大な犠牲の上にあるのか、今の日本人に知ってほしい。あの時代を体験したわたしたちが消え去る日も近い。あとは大丈夫だろうか。 
 今、70年前の出来事を過ちでなかったと言っている政治家が日本を“いつか来た道”に向けようとしている。 


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