2007年12月31日22時39分掲載  無料記事
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パキスタン情勢

ブット元首相暗殺事件:パキスタン軍事政権とイスラム過激派の危険な関係 B・ラマン

2007年12月27日、パキスタンのベナジル・ブット元首相が、首都イスラマバードにほど近い街、ラワルピンディで暗殺された。 
米欧日の企業メディアは、暗殺事件を速報し、現地の混乱を伝え、各国政府の首脳たちが表明する追悼の言葉と、イスラム過激派やテロリズムを糾弾する声を報じている。ブット元首相の政治経歴を紹介するテレビ放送もあるが、パキスタンの情勢を簡単に解説するだけで、事件の背景に深く切り込む報道は出ていない。それにはしばらく時間がかかる。 
そのなかで、事件の直後に、冷静で簡潔な解説を公開した人物がいる。インド、チェンナイ市にある時事問題研究所で所長を務めるB・ラマンである。ラマンの記事(英文)はインドのニュース・サイトに掲載された【1】。(TUP速報=抄訳・解説/安濃一樹) 
 
彼の経歴を見よう。 
 
インド政府、対外情報局、調査分析部、対テロリズム課主任(88年〜94年)。同国、国家安全保障諮問委員会、元委員。同、内閣官房、副秘書官、退官。 
 
パキスタン軍事独裁政権の情勢とイスラム過激派武装グループの動向に関して、インド政府の情報機関は長年にわたって監視と調査を継続してきた。国家の安全保障にかかわる重大な問題だからだ。 
 
パキスタン軍事政権は、CIAに協力して、80年代から軍情報局(ISI)を通じ、イスラム過激派武装グループを支援育成していた。以来、軍政は過激派を政治と軍事に利用してきた。パキスタン北西部の部族地帯は過激派の本拠地となった。インドは西の国境線でパキスタンと背を合わせ、北端のカシミール地方はアフガニスタンにも接している。 
 
89年、参謀総長だったムシャラフは、ベナジル・ブット首相(第2期政権)に助言して、4つのスンニ過激派グループから1万人の聖戦士を動員し、領有権問題で紛争がつづくカシミール高原に送り込むことができると豪語していた【2】。パキスタン軍事政権とイスラム過激派との危険な関係は現在も続く。 
 
B・ラマンの解説はインド政府が集積した情報に通じていると考えられる。敵国パキスタンに対する偏見があるとしても、米欧の政府による情報操作や企業メディアに見られる偏向に比べれば、情報として価値がより高い。今後も、元情報分析官の報告に注意する必要がある。 
 
以下にラマンの記事を抄訳して紹介する。 
 
訳文にある( )は英文略称名、あるいは安濃による補佐語句。原文にはない。 
 
■パキスタン軍内部の反ブット勢力がブット暗殺に関与しているか? 
 著/B・ラマン 
 
ベナジル・ブットの暗殺は、次にあげる複数の勢力が共謀して行った可能性が高い。 
 
まず、反米で親アルカイダのイスラム過激派武装グループ。次に、ジアウル・ハック支持者の勢力【3】。そして、パキスタン陸軍の青年将校の勢力。さらに、空軍の青年将校グループも関与していた疑いがある。 
 
2003年から、(パキスタン軍の本拠地である)ラワルピンディで数多くのテロ事件が起きている。 
 
03年12月、ムシャラフ大統領の暗殺未遂事件が2度あった。06年には、公園からロケット弾を打ち込まれている。07年7月には、ムシャラフを乗せた軍用機が対航空機銃(口径12・7ミリ)で銃撃された。 
 
陸軍統合本部を狙った自爆攻撃が2度。軍情報局(ISI)の事務所も2度おなじように攻撃された。 
 
2度のムシャラフ暗殺未遂事件を共謀したグループは特定されている。アルカイダと、(過激派組織)ジャイシェ・ムハンマド【4】、そして陸軍と空軍の青年将校グループだった。将校たちは他のテロ事件にも関与していた疑いがある。 
 
ロケット弾が使われた事件に関連して、退役した陸軍准将の息子が逮捕されている。 
 
9・11事件を指揮したハリド・シェイク・ムハマドは、ラワルピンディの住宅で逮捕された。その家の持ち主は、(イスラム教原理主義を奉じる政治団体)イスラム教会に勤める女性職員だった。彼女には連隊に所属する親族がいる。 
 
これらのテロ事件は一様に、アルカイダやアルカイダに近い過激派グループが、ラワルピンディに駐屯する軍隊に内通し、下級中級将校のなかに共謀者を増やしている事実を示唆する。 
 
昨年イギリスで発覚した航空機爆破未遂事件では、ラシド・ラウフが最重要容疑者として(06年8月にパキスタンで)逮捕されていた。しかしラウフは、今年12月15日にラワルピンディの裁判所から拘置所へ護送される途中で脱走した。警護していた警察官が逃亡を助けた疑いがある【5】。 
 
一連の事件について、ISIや情報局・警察が行った捜査は十分なもとのは言えず、いずれも犯人を割り出すことに失敗している。 
 
名前と身元が判明したのは、2度のムシャラフ暗殺未遂事件に関与した青年将校だけである。彼らは逮捕されて軍法会議にかけられた。 
 
ただし、アルカイダや親アルカイダ過激派が、どこまで軍部に内通しているかを解明することはできていない。 
 
10月18日に、亡命していたベナジル・ブットが帰国すると、ジアウル・ハック支持者の勢力が、容赦ない攻撃キャンペーンを始めた。ハック支持者は、政府関係者の中にも、軍やISIを退役した将校たちの中にもいる。 
 
この勢力は、来年1月8日に予定されている総選挙でブットが勝利を収め、政権を担うことを、断固として阻止しようとしていた。 
 
ブット自身は、情報局長官であるイジャズ・シャー准将(軍は退役)が、彼女に悪意を抱いているのではと不安を感じていた。だから情報局が自分の安全を脅かすことになると、公の場で何度も訴えている。 
 
イスラム過激派勢力は、どの組織もことごとくブットの政権復帰に反対していた。 
 
いちばんの理由はブットが女であること。それに次ぐ理由はふたつある。まず、パキスタンに米軍部隊を入れてオサマ・ビンラディンの捜索をさせる、と彼女が公言していたこと。そして、国際原子力機関(IAEA)に(パキスタンで原爆の父とよばれる)A・Q・カーン博士を尋問調査させる、と公約していたことだった。 
 
暗殺の前日にも、ブットがペシャワルを訪れると、彼女を待ち受けていたように、爆弾が相次いで炸裂した。ブットは警護体制について不満を訴えた。彼女のスタッフたちには、遠隔操作で爆発させる仕掛け爆弾に備えるために、電波を妨害する装置が(政府から)配備されていた。その機械がちゃんと機能せず、役に立たないことも抗議した。 
 
10月18日にカラチで起きた爆破事件では、(150人もの命が奪われた惨劇を)ブットは奇跡的に無傷で生きのびた。彼女は、米欧諸国の情報局に協力を求めて、事件の捜査を進めるように何度も訴えていた。米欧の民間警備会社を雇って、身辺の安全を守らせてほしいとも、繰り返し訴えていた。 
 
しかし、ムシャラフ大統領はその訴えをすべて退けた。 
 
これから、ブットの勢力圏だったシンド州やパンジャブ地方の南部で、ムシャラフと軍部を非難する暴動が広がってゆくだろう。選挙を予定どおりに行うのは難しい。ムシャラフが権力の座に留まることも同様に難しくなる。 
 
△△ 抄訳おわり △△ 
 
米ワシントン・ポスト紙の報道によると、06年の中頃から、ブット元首相はムシャラフ大統領と帰国のための条件交渉を続けていた【6】。ブットをパキスタンに帰す計画を立て、交渉の仲立ちをしたのはアメリカ国務省である。それにイギリス外務省が協力していた。 
 
07年1月と7月には、アラブ首長国連邦のドバイで、ブットとムシャラフは直接に会談している。ブットに対する敵意を隠さないムシャラフをついに納得させたのは、交渉の中心になったネグロポンテ米国務副長官だった。米ポスト紙は、ブルース・リーデル(元CIA分析官・国家安全保障委員会スタッフ)の言葉を引用して、ネグロポンテの意図を説 
明している。 
 
──彼はムシャラフにこう伝えた。アメリカ政府はムシャラフを支持するが、パキスタン政府はうわべだけでも民主主義を装う必要がある。それにはブットが表向きの看板としてぴったりだ、とアメリカ政府は考えている── 
 
ジア・ミアン(プリンストン大学。パキスタン出身の物理学者。政治と行政に関する論説を発表している)によると、交渉の結果、次の合意が得られた【7】。 
 
1.ムシャラフは、汚職事件で告発されているブットの裁判を破棄し、起訴をすべて取り下げるよう法律で定める。 
 
2.ブットは、パキスタンに帰国して、3期目に入ったムシャラフ大統領の正当性を認める(ブットの政党、パキスタン人民党も批判を止める)。 
 
3.ムシャラフは、ブットが総選挙に参加して、首相に立候補することを認める。 
 
アメリカ政府は、ブットの安全を保証すると約束していた。しかし、アフガン大統領カルザイを守ったときのように、海兵隊を送ってブットを警護しようとはしなかった。結局、ムシャラフもブットを守れなかった。 
 
ブットは、公正な選挙が行われるかどうか不安に感じていたと伝えられている。しかし、アメリカやイギリスの政府がお膳立てした取引に乗って、不正選挙を繰り返してきたムシャラフ政権を正当化しながら、自分の犯罪歴(総額15億ドルの汚職)を隠蔽させて、自分が首相になると決まっている選挙に出ることが、どうして公正なものでありえるのか。 
 
アメリカは、ムシャラフ政権を安定させるために、ブットを帰国させるように仕組んだ。当初より、米政府内部にも計画を疑問視する声が多かった。ブットが暗殺されて、計画はご破算となったはずだが、ホワイトハウスはまだムシャラフに選挙を行うよう求めている。 
 
タリク・アリ(パキスタン系イギリス人、歴史家、活動家、作家)は、アメリカ合衆国の大統領が、ここまで現実からかけ離れていることに驚きを隠せなかった【8】。このまま選挙を行って、いったい何になるのか。この選挙はだれにも正当性を与えることはないと、彼は断言する。 
 
パキスタンの今後の見通しを尋ねられて、タリク・アリは次のように答えている。たとえ気鋭の歴史家でなくても、パキスタンの現実を知る人なら(パキスタン市民なら)、だれでも同じ未来を予測するだろう。 
 
──ムシャラフ将軍の政権は、もう長くは続かないでしょう。自分で自分を追いつめてしまいました。ワシントンの要望を受けて、ブットと結んだ取引を守るはずだったのに、それができなかった。暗殺を防げなかったのは彼の責任です。ワシントンの面々が、ムシャラフの代わりを探し始めるのに、それほど時間はかからないと思います。そうしてパキスタンでは暗黒の夜が続いてゆく。軍事独裁者と腐敗した政治家の舞台が、役者を入れ替えて、また繰り返される── 
 
▽▽ 
 
【1】B. Raman, "Anti-Bhutto army factions behind murder?"  
Rediff India Abroad (December 27, 2007). 
 
 
【2】Adrian Levy, Catherine Scott-Clark, "FRIEND OR FOE? Washington hails Musharraf as an ally in the war on terror, but critics make a case that Pakistani leader is a terrorist," The San Francisco Chronicle, SFGate.com (Sunday, November 11, 2007). 
 
 
【3】77年7月5日、陸軍参謀長ジアウル・ハック大将は、戒厳令を布告し、議会を解散させ、憲法を停止し、ズルフィカル・アリ・ブット首相(ベナジル・ブットの父)を逮捕した。このクーデターから、ハックは軍事独裁体制を築く。 
 現行のパキスタン政治体制はハック体制を継承したものだと言われる。88年8月17日、ハックと側近30人が乗った空軍輸送機が離陸直後に爆発し、搭乗者全員が死亡した。ハックの死後20年たった今でも、ハック信奉者は数多く、政府と軍部に勢力を持っている。 
 
【4】パキスタンに本拠を置く最も凶暴な過激派組織のひとつ。ヒンズー教国インドを敵とするイスラム運動に傾倒し、パキスタン軍事政権の協力を得ながら、インドの支配下にあるカシミール地方の分離・独立を目指して、他のさまざまな過激派グループとともに、国境を越え破壊活動を行った。 
 99年10月のクーデターでムシャラフが政権を掌握してからも軍政との関係が続き、911事件以降、パキスタンがアメリカの「対テロ戦争」に同盟国として加担しても、パキスタン国内で外国人の殺害、カラチ米領事館への爆弾攻撃などテロを繰り返してきた。 
 それでもムシャラフ政権はジャイシェ・ムハンマドの取り締まりには消極的だった。この組織をはじめとする数多くの過激派グループが、ムシャラフの支持基盤であるいつくもの宗教政党とつながりを持っているからだと言われる。ジャイシェ・ムハンマドはアルカイダとの関係も深い。 
 米タイム誌の記事に詳しい報告がある。 
 
Tim McGirk, "The Monster Within," The Time (Monday, Jan. 19, 2004). 
 
【5】ラウフ容疑者を護送していた下級警察官たちは、ラウフがマクドナルドで昼食を取ることを許している。つづいて、モスクに寄って礼拝することも許可した。この時、警察官たちはラウフの手錠をはずし、礼拝が終わるのをモスクの外で待ってる。警察官たちがモスク内へ戻ったときには、ラウフの姿はすでになかった。 
 ラウフの無実を訴えていた弁護士と家族や友人たちは、これは逃亡ではなく、ISIによる誘拐だと信じている。すでに殺害されている可能性もあると言う。イギリス政府の求めに応じて、無実のラウフを引き渡すことになれば、結局パキスタン政府が恥をかくことになるからだ。 
 これに反してパキスタン政府は、ラウフは過激派組織ジャイシェ・ムハンマドの主要メンバーだと主張している。だが、この組織はパキスタンの情報局や政府の諸機関と関係が深い。 
 英タイムズ紙オンライン版に詳しい報告がある。 
 
Dean Nelson and Ghulam Hasnain, "Pakistan agents 'staged escape' of terror suspect," The Times Online (December 23, 2007). 
 
【6】Robin Wright and Glenn Kessler, "U.S. Brokered Bhutto's 
Return to Pakistan: White House Would Back Her as Prime Minister 
While Musharraf Held Presidency"
, The Washington Post (Friday, December 28, 2007; Page A01). 
 
【7】米独立系進歩派メディア「デモクラシー・ナウ!」のインタビュー番組より。 
"Former Pakistani Prime Minister Benazir Bhutto Assassinated," Democracy Now! (Dec. 27, 2007). 
 
【8】米独立系進歩派メディア「デモクラシー・ナウ!」のインタビュー番組より。 
"Pakistan in Turmoil after Benazir Bhutto's Assassination," Democracy Now! (Dec. 28, 2007). 
 
 
▽▽ 
 
(あんのうかずき/TUP・ヤパーナ社会フォーラム) 
 
[転送歓迎] 
 
[記事の利点はTUPに、欠点は筆者ひとりに帰す] 


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