2008年06月07日13時49分掲載  無料記事
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中国

「おから工事」が被害を拡大 四川大地震─500人生き埋め中学校倒壊現場、発生直後のルポ

  5月12日午後2時28分4秒、マグニチュード7.8の強い地震が中国の大部分を震撼させた時、震源地からわずか100キロほどの都江堰市郊外に位置し、教師・生徒800人を擁する聚源中学校では、授業開始のベルが鳴ったばかりだった。 
 体験者の話によると、それはわずか数秒間の出来事だった。幅約80メートルもある4階建ての校舎が、数回激しく揺れたかと思うと突然崩れ落ち、一瞬のうちに高さ2、3メートルほどの瓦礫の山と化した。ねじ曲がった鉄筋が三合土(訳注:石灰・砂・粘土を水で練った建築材料)の塊からむき出しになり、遠くにはぼろぼろの布や、机と椅子の残骸、そしてもはや元の姿さえ判別できない残骸が見えた。 
 同中学にはおおむね12歳から16歳までの子どもたちが在籍している。現場の捜索・救助隊員の話では、避難できたのは体育の授業でグラウンドにいた子どもたち20数人だけで、それ以外の3学年の教師・生徒800人近くは全員、うず高い瓦礫の山に生き埋めとなってしまった。 
 
 陳林さんは、聚源中学の校門でもう丸2日2晩も待ち続け、目を真っ赤にしている。 
16歳になる陳さんの娘は、この中学の3年5組の生徒だった。「陳子君というんだ。とっても賢い子だよ。まだ16歳だけど、背はこんなに大きくて…」と、陳林さんは終始手ぶりを交えながら記者に話した。「3階に…3階にいたんだ…」。 
 陳林さんが最後に娘に会ったのは、5月11日午後のことだった。 
 陳子君さんは大半のクラスメートと同様、普段は学校内に住んでいて、家には土日しか帰らない。 
 日曜日の午後、学校に戻る時は何もかもいつも通りだった。彼女は制服を着て、玄関で父に「行ってきます!」と声を掛けた。もう自分の肩に届くほどの背丈に成長した娘に、陳林さんは目を細めていた。 
「妻とは早くに離婚してしまったんだ。私はここ何年も出稼ぎに行っていた。広東、上海、湖南…どこへでも行ったよ。自分はまだ若いんだから少しでもたくさん働いて、いつかは娘を養えるようにと思っていた。娘は叔母のところに預けっぱなしで、一昨年帰ってきてみたら、あの子はこんなに大きくなってた…」 
 陳林さんは、娘にきちんとした家庭を与えてやれないことを、心の中でいつも申し訳なく思っていたという。 
「でも、物分かりのいい子だった。とっても賢い、本当に賢い子だった…」 
 と言葉を詰まらせた陳林さんの目には、涙があふれていた。 
 
 40時間が経過したものの、捜索救助作業は依然難航している。5月14日午前7時現在、ここではなお約500人の生徒たちが生き埋めになっている。これまでに助け出された人のうち、生存が確認されたのは全教師・生徒の人数の10分の1にも満たない。聚源中学の校門では、陳林さんのように心配で目を泣き腫らした親たちが何百人も集まり、もう2晩も過ごしているのである。 
 生存の反応のある子どもは、救援隊に助け出されると直ちに救急車に乗せられ成都に搬送される。だが、助け出された時にはもう息もなく、小さな体が一見して判別できないほどぐちゃぐちゃに押しつぶされている例が多い。居ても立ってもいられない気持ちで待ち続ける父母たちは、わが子が生きて救出されたかどうかも、その可能性があるかどうかもわからずにいる。彼らがわが子を捜し出そうと狂ったように瓦礫の山に分け入っていくと、たちまち救援部隊が飛んできて校門の外のグラウンドに出されてしまう。 
 
 苟菲さんは、陳子君さんと同じ3年5組の生徒である。地震が起きた時、彼女の両親は校舎が倒壊したとの知らせを聞きつけ、すぐに自転車で学校に駆けつけたが、あの大きな中学校はもはや廃墟と変わり果てていた。母は言葉もなく号泣するばかり、父は多くの親と同じように、わが子を助け出そうとすぐさま瓦礫の山に飛び込んで行った。 
 陳林さんよりも幸運だったのは、苟菲さんの両親が学校で一夜を明かしているとき、生きて助け出された教師からショートメールが届いたことだ。 
「苟菲さんは救出されています! いま華西病院で治療を受けています!」 
 それは、5月13日早朝のことだった。 
 苟菲さんは、10時間以内に救出されるという数少ない幸運に恵まれた1人である。彼女が記者に話してくれたところによると、地震が起きた時、3年5組では担任の陳志霞先生の国語の授業中だった。突然、窓の外に見える建物が揺れ始めたのにクラス全員が気がついた。男子生徒の1人が「軍事演習か!?」と声を上げた途端、教室は一瞬のうちに崩れ落ち、クラスの教師・生徒60人余り全員が瓦礫に埋もれてしまった。 
 いったい何が起きたのかすらわからないほど、突然の出来事だった。 
 
 幸い、苟菲さんは廃墟に埋もれている間も意識があったため、外に向かって助けを呼び続けていた。近くには同じ机で学ぶ呉蓮さんがいた。勉強熱心な呉蓮さんは授業以外の時間もすべて勉強に費やしている。彼女は疲れきっているのだろう、と苟菲さんは思った。すると呉蓮さんが声をかけてきた。 
「来学期、3年生やり直さなきゃいけないのかな?」 
「生きてたらね!」と苟菲さんは答えた。 
 瓦礫の下で、2人の少女は助けを呼びながら互いに励まし合い続けた。捜索に乗り出した親たちが、それぞれにわが子の名を叫ぶ声が聞こえる。苟菲さんの心に両親の姿が浮かんだ。 
「絶対に生き延びてやるんだ。大学でも勉強するんだから。私の人生、まだまだ長いんだ。大きくなったら、パパやママの面倒もみてあげなきゃ。絶対に生き延びる!」 
 
 夜10時ごろ、生き埋めになって8時間がたとうかという頃、近くで声が聞こえた。 
「劉嬌はいないか?」 
「ここ! ここよ! 早く瓦礫をどかして!」苟菲さんは答えた。 
 それから数分後、苟菲さんは生きて救出された。れんがを手でかき分けて助け出してくれたのは、まさにそのクラスメート、劉嬌さんの父親だった。しかし、劉嬌さんはいまだ行方不明だ。苟菲さんは直ちに、聚源鎮から60キロ余り離れた四川大学華西病院に運ばれた。 
 
 しかし、この時、両親はまだ苟菲さんが救出されたことを知らず、現場で娘を探し続けていた。病院に運ばれる途中、苟菲さんは全身に力が入らない状態だったが、医師に向かって最初に発した言葉は「パパ、ママ、大丈夫だよ!」だったという。 
 苟菲さんは、両脚の関節の損傷がひどく、また左側から圧迫を受け続けたため左目を失明し、顔面を何カ所も骨折しており、医師の話では脳神経にまで影響が及んでいるだろうとのことだった。苟菲さんは、元気になったら成都市内の学校で3年生をやり直して、夢を実現したい、と話す。以前は幼稚園の先生になるのが夢だったが、今は元気になったらピアノの勉強がしたいという。 
 苟菲さんは病院で、担任の陳志霞先生がどうなったのか、ずっと尋ね続けていた。父の陳林さんも、学校のグラウンドで陳志霞先生のことを話していた。 
「陳先生はすごくいい先生だったんだ。30歳過ぎの若い娘さんで、うちの娘はいつも『大きくなったら陳先生みたいな先生になりたい』と話してたんだよ」 
 だが、発表された第1次死亡者リストの中には「陳志霞」の名も含まれていた。3年5組の教師・生徒60人余りのうち、救出が確認されたのは5人にも満たない。聚源中学全校では、なお500人以上が生き埋めとなったままである。 
 
原文:亜洲週刊08/5/25号記事(張潔平、張曉雅記者) 
翻訳:三嶋信行 
 
■義務教育9年制の普及のため校舎を手抜き建設 
 
 今回の大地震で都江堰や重慶市梁平県などで校舎が倒壊したのは天災のみならず人災でもあった。今回の地震で「おから工事」が露呈されたからだ。都江堰市聚源中学校倒壊で800人余りが生き埋めになった現場で、救出活動の指揮をとっている国家地震局救援隊の指揮官は憤りを隠さず、この状況から見て校舎が典型的な手抜き工事だと言った。鉄筋が基準以下で「こんなに細い。これは鉄筋などではない、針金だ」という。 
 90年代中期、中国の教育部門は全国的に「普九」(9年の義務教育の普及)を推進し学校建設を開始した。そのうちの重要な指標が標準的な校舎の建設だったが、費用は県政府、また村や学校の予算でまかなわれた。だが工事は深刻な後遺症を2つつくることとなった。一つは郷鎮(町村)政府が「普九」の目標達成のために借金で校舎建設を行って、農村経済を悪化させたこと。もう一つは手抜き工事を生じさせたことである。資金のないままにただ目標さえ達成すればいいとし、リベートなどの腐敗行為も加わり、当然資材の質を落とし工事の手を抜くこととなった。当時建設された校舎は安全性に問題がある。 
 
原文:亜洲週刊08/5/25号記事(咼中校記者) 
翻訳:納村公子 
 
*おから工事=おかがら粘りけがなくもろいことから手抜き工事の意味。98年、長江の大洪水があったとき現場を視察した朱鎔基首相(当時)が怒りのあまり「おから工事だ」と怒鳴ったのが始めとされる。 


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