2008年06月12日10時46分掲載  無料記事
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ブラジル農業にかけた一日本人の戦い

<3>移住4年目で、馬鈴薯づくりのエキスパートに 和田秀子(フリーライター)

  コチア産業組合は、当時、馬鈴薯の栽培で大きな成功を収めていたため、ブラジルに到着したコチア青年たちの多くは、日系人が営む馬鈴薯農家へと配耕されることになった。 
 横田さんも自身も、ブラジルに到着して間もなく、サンパウロ州にある日系2世の馬鈴薯農家へと送り込まれた。 
 
 農場で働く現地の男たちは、みな真っ黒に日焼けして、屈強な体つきをしている。しかし、そんな彼らと対照的だったのが、横田さんの体格であった。40日に及ぶ船旅の疲れから、体重は45キロにまで減少し、顔は蒼白く、まるで少女のようだったのだ。横田さんと初対面した農場主の奥さんが、「こんな“華奢な”子どもを送り出した親の顔が見たい…」と言って涙を流すほど、その姿は痛々しいものだった。 
 
 しかし、脆弱な体格とは裏腹に、横田さんの心意気は、現地の屈強な男たちにも負けてはいなかった。「誰よりも早く仕事を覚えたい」という気持ちから、毎朝一番のりで馬鈴薯畑に入り、語りかけるように、葉っぱや茎などの状態をていねいに見て回ることが日課となった。 
 華奢な体で、馬鈴薯の入った60キロの麻袋を毎日運ぶうちに、手が豆だらけになって、手のひらを開けなくなったこともある。また、出荷準備に追われて、作業が深夜まで及ぶこともしばしばであった。 
 
 そんな過酷な日々を支えたのは、以外にも、啖呵を切って出てきた憎くき英語教師の存在だったという。横田さんは、ことあるごとに彼の顔を思い浮かべては、「なにくそ!絶対見返してやる!」という思いで耐え抜いたのだ。 
 そしてもう一つ、横田さんを支えていたのは、厳しくも温かい母の愛情であった。明治生まれの横田さんの母は、「もし、おまえさんが日本の恥になるようなことをしたら、これでケジメをつけなさい」と言って、嫁入り道具の短剣を横田さんに持たせていた。厳しい現状から逃げ出したくなったとき、母の短剣を取り出しては、「成功するまで絶対帰らない」と誓っていたのだという。 
 
 このように横田さんは、英語教師に対する悔しさと母の愛情を原動力として、365日朝から晩まで休まず働いた。こうした努力の甲斐あって、移住2年目には「横田はイモと話ができる」といわれるほど、馬鈴薯栽培のエキスパートとして実力をつけていた。 
 
 横田さんは、4年間の農業研修が終わっても、“お礼奉公”として、さらに2年間、農場主のもとで勤めた。この2年間は、農場の支配人として約50人もの従業員を指導する立場となった。さらに、栽培から販売まですべてを引き受け、農場主が50年かけて築いた財産を、2年間で一挙に2倍にしてみせた。それほど、横田さんの農業にかける情熱と才能は大きかったといる。 
 
 もちろん、“コチア青年”としてブラジルに移住した誰もが、順調に歩みを進めていたわけではない。 
「私の場合、農業主に恵まれていたんです。配耕先の農場主とケンカして飛び出していく者や、体を壊してしまう者、さらには自殺してしまう者までおりましたから」 
 こう横田さんがいうように、同期97名のうち6名は自殺、十数名は行方不明となっている。 
(つづく) 
 
 
◇参考文献 
田尻鉄也『ブラジル社会の歴史物語』(毎日新聞社/平成 
11年10月15日発行) 
 
青木公『ブラジルの大豆攻防史』(国際協力出版会/2002年 
5月30日発行) 
 
青木公『甦る大地セラード』(国際協力出版会/1995年7月 
10日発行) 
 
鈴木孝憲『ブラジルの挑戦』(ジェトロ(日本貿易振興会)/ 
2002年3月22日発行) 
 
『ブラジルの歴史』(ブラジル高校歴史教科書)(明石書店/ 
2003年1月31日発行) 
 
内山勝男『蒼氓の92年』(東京新聞出版局/2001年1月30日発行) 
 
外山脩『百年の水流』(トッパン・プレス印刷出版有限会社/ 
2006年8月 ) 


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