2008年06月30日20時06分掲載  無料記事
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ブラジル農業にかけた一日本人の戦い

<7>コチア青年が夢見た“ファゼンデーロ”への道 和田秀子(フリーライター)

  「日伯セラード農業開発協力事業」の決定により、日本から多額の開発資金が投入されることになったブラジルでは、1970年代後半から80年代中半にかけて、空前の“セラード開発ブーム”が沸き起こった。 
 
 1973年に、ミナスジェライス州のサンゴタルド(*1)からはじまったセラード開発は、どんどん広がりを見せ、77年にはミナスジェライス州のパラカツ(*2)、86年にはバイヤ州バレイラス(*3)へと進んでいく。 
 
 この頃すでに、世界規模での食料増産戦略を進めていた米国が、改良された種子、肥料、農薬をはじめ、かんがい設備などの農業関連技術を、ブラジルに流し込んだことも、セラード開発の大きな追い風となっていたようだ。 
 
 「不毛の土地を開拓して、飢えに苦しむ人たちに食糧を供給したい」という新たな使命感に燃えていた横田さんは、その先陣を切るかのごとく、77年ミナスジェライス州パラカツ開拓に出資、86年にはバイヤ州バヘイラスへ入植するなど、コチア青年たちとともに次々とセラード開発事業へと乗り出していった。 
 
■夢の総仕上げをバヘイラスで 
 
 横田さんは、86年に入植したバイヤ州バヘイラスをはじめて訪れたときのことを、次のように語っている。 
 
 「とにかく何にもないんですよ。電気もガスも水道も。ただ、どこまでも続く地平線の彼方に、夕日が沈んでいくのが綺麗でねぇ。“このバイヤこそ、長年俺たちが探し求めていた土地だ”と思いましたね」 
 
 補足しておくと、バイヤ州バヘイラスは400万ヘクタールにもおよぶ大平原地帯で、車を何時間走らせても、目に飛び込んでくるのは“地平線”ばかりという地域なのだ。“400万ヘクタールの大平原”といってもピンとこないかもしれないが、これはオランダ一国の面積に相当する。 
 
 日本の農村を飛び出してきた多くのコチア青年たちにとって、「ファゼンデーロ(大農場主)になることが最大の夢だった」と横田さんはいう。“ファゼンデーロ”とは、ポルトガル語で250ヘクタール以上の土地所有者のことだ。 
 
 日本の農家一戸あたりの耕地面積は、平均約1・6ヘクタールといわれるが、ブラジルでは100ヘクタール以上は当たり前。新天地を求め、ブラジルに骨をうずめる覚悟で移住してきた若者にとって、 “ファゼンデーロ”を夢見るのは当然のことであっただろう。 
 
 しかし、サンパウロ近郊では土地も高く、250ヘクタール以上の農地を所有することは難しい。その点バヘイラスなら、低金利の開発融資も受けられるうえ、不毛の地といえども気が遠くなるほど広大な平原が広がっている。コチア青年たちにとってバレイラスは、夢を実現するための最適な場所であるかのように思えたのだ。 
 
 「この不毛の土地を、俺たちの手で豊穣の大地へと変えていこう」。コチア青年たちの胸には、そんな熱い思いがこみ上げていた。 
 
 当時、横田さんは45歳。ほかのコチア青年たちも同世代であり、夢の総仕上げに取りかかるには、ちょうど脂の乗り切った年齢だったといえる。 
 
■延々と続く大平原でのテント生活 
 
 バヘイラスに入植する以前、横田さんは、サンパウロ州内で5つの農場を経営し、その近くの街に大きな家を建てて、日系二世の奥さまと5人の子どもたちとともに快適な生活を送っていた。 
 
 しかし、バヘイラスのセラード開発に取りかかるために、電気もガスも水道も通っていない、いわば“陸の孤島の大平原”に単身で乗り込み、そこにテント張って寝泊まりしつつ土地の開拓を進める、という生活を選んだ。一番近い街でも180キロメートル離れているため、こうするしか方法がなかったのだという。 
 
 「日が暮れたら、テントのなかに小さなカンテラを灯してね。本を読んだり、資料をまとめたりしていましたよ。おかげで目が悪うなってしもうたねぇ」 
 
 セラードで栽培する作物は、これまでの馬鈴薯ではなく、雨の少ない土地でも育ちやすい大豆やトウモロコシ、米であった。土地の改良には、少なくとも4年はかかる計算だ。 
 
 その間、サンパウロ州内の5つの農場は奥さまに任せ、横田さんはほとんど家には帰らず、バヘイラスのセラード開発に心血を注ぎ込んだという。 
 
 「不思議と辛いと思ったことはなかったねぇ。“絶対これをやり遂げる”という思いがあれば、人間たいていのことは、耐えられるもんだからね」 
 
■農場と子どもを守り抜いた奥さま 
 
 テントひとつで乗り込んだ横田さんもすごいが、農場と子どもを守りつつ、いつ帰るともしれない夫を待っていた奥さまの心中はいかばかりだったろうか…。 
 
 横田さんの奥さまは、いくら横田さんが夜遊びをして家を空けても、泣き言ひとつ漏らさないばかりか、横田さんに代わって、農場で働く荒くれ者の男たちに指示を与えるような、気丈な女性であったという。 
 
 しかし横田さんが、「バヘイラスへ入植することにした」と告げたとき、はじめて淋しそうな顔で目を潤ませた。いったんセラードに入れば、「めったなことでは戻らないだろう」、ということを悟っていたのだろう。 
 
■バヘイラスへかける、それぞれの思い 
 
 バヘイラスでは、コチア産業組合から選抜された希望者37名で「戦後移住者団地」をつくり、総耕地面積2万1000ヘクタールの土地を、いくつかの区画に分けて開拓していくという方式をとっていた。 
 
 仲間のなかには、横田さんのように、別の土地で農場を所有しているものもいたが、移住から30年以上かかって、ようやく手に入れた土地をすべて売り払い、バヘイラスに入植してきた者もいたという。すべてを、セラード開拓にかけていたわけだ。 
 
 意気揚々とはじまった、バレイラスのセラード開発であったが、ほどなくして暗雲が立ちこめることとなる。(つづく) 
 
(*1)ミナスジェライス州のサンゴタルド 
ブラジル政府がコチア産業組合に働きかけてスタートした“セラード開発発祥の地” 
 
(*2)ミナスジェライス州のパラカツ 
耕地面積約7万5600ヘクタール。これはJR山手線の内側の面積に相当する。コチア青年をはじめ、その他の農業移民、日系の民間資本による参加があった。 
 
(*3)バイヤ州バヘイラス 
耕地面積約2万1000ヘクタール。「戦後移住者開拓団地」がつくられ37名が入植。 
 
◇参考文献 
「コチア青年移住40周年記念誌」(コチア青年連絡協議会) 


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