2008年07月26日15時14分掲載  無料記事
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日中・広報文化交流最前線

満州におけるテュルク・タタール人の歴史(上) 初の本格的研究書が出版 井出敬二

  以前、この日中・広報文化交流最前線で、中国におけるユダヤ人の歴史について書いた。満州においては、20世紀前半、ユダヤ人以外にも様々な民族が住んでいたが、テュルク・タタール人と呼ばれる民族も住んでいた。テュルク・タタール人が、19世紀末から20世紀前半、ロシアから北東アジアに移民したことについて、最近、本(ラリーサ・ウスマノヴァ博士著「The Turk-Tatar Diaspora in Northeast Asia」, 2007, 駱駝舎(注))が出版されたので、このウスマノヴァ博士の非常に興味深い研究を、博士のご了承を得て紹介したい。 
 
(注:同博士は、2006年に島根県立大学から博士号を取得したが、その博士論文に若干の修正が施されてこの本が出版された。同書は日本国内で英文で出版された。ロシア語、トルコ語訳の出版の話も進んでいる由である。ぜひ日本語でも出版していただきたいと強く希望する。) 
 
 19世紀末から20世紀前半にかけ、満州には、ロシアからの様々な移民が流入した。それはユダヤ人、グルジア人、アルメニア人、ウクライナ人などを含むが、その中に、テュルク・タタール人も含まれていた。テュルク・タタール人というのは、ロシアのボルガ川沿に住む、トルコ語系の言葉を話し、イスラム教を信仰する人たちである。1920〜30年代には、満州・中国に住むテュルク・タタール人は、7千人にも上ると言われた由である。 
 奉天(現在の瀋陽)において、彼らは週刊新聞『ミッリー・バイラク』を出版していた(1935年11月〜1945年3月)。ウスマノヴァ博士は、この『ミッリー・バイラク』のうち、現在保存されているもののほとんどを読破され、またソ連、ロシア、日本その他の様々な文献にあたった上で、北東アジアにおけるテュルク・タタール人の歴史を描き出した。 
 
 ウスマノヴァ博士の本に、宇野重昭・島根県立大学長が「はしがき」を寄せているので、以下のとおり引用する。 
 
 「テュルク・タタール人は、ロシアのトルコ系イスラム教徒の集団で、そのアジアへのディアスポラは、とくに1930年代の日本軍部の対中近東政策、イスラム教徒対策の一環として浮上してきた人々である。かれらはある段階では日本の対イスラム政策に対応して神戸、名古屋、ハルビン、ソウル、東京などにモスクを建設し、また『満州ムスリム協会』とともに東京での全世界回教徒第一回大会に参加したが、独自のアイデンティティを養い、独自の社会と文化を持った。ただしその具体的な実態は、ほとんど知られていなかった。」 
 「従来ほとんど本格的に調べられたことがないテュルク・タタール人の歴史とその移民に関する研究は、世界でも最初の成果と考えられる・・・」 
 
 また、ウスマノヴァ博士の本に、井上治・島根県立大学大学院北東アジア研究科教授が「解題」を書かれているので、以下のとおり引用する。 
 
 「(ウスマノヴァ博士は、)20世紀前半のアジアにおけるタタール人移民史を五つに区分し、ディアスポラ・アイデンティティの変容を歴史社会学的に分析する。第一期(1898〜1917)には、ロシア帝国の民族政策を逃れ中国東北部の都市に移住した少数の男性商人を主とするロシア系ムスリムとしてのアイデンティティをもっていたムスリム・コミュニティが、第二期(1917〜1933)にはロシアの政治的圧力によって女性や子供も含め一万人に増え、移住先で民族学校を建て、刊行物を出版する活動を開始したものの、その民族意識はまだそれほど高くはなかった。第三期(1933〜1939)には、タタール人が時代の状況に適応しつつ民族のアイデンティティを形成し、このときに民族主義者イスハキが全世界のテュルク・タタールの移住者のリーダーとして現れ、奉天を中心に典型的なテュルク・タタール移民による民族的コミュニティ組織を形成した。しかし、第四期(1939〜1945)には、第二次世界大戦の影響でタタール人コミュニティは弱体化の道をたどり、第五期(1945〜1950代)には、タタール人移住者はホスト社会に同化することなく新天地へと移住したことを明らかにした。」 
 
 奉天では1935年2月に第一回極東テュルク・タタール人会議が開催されている。(1937年12月には、ハルビンで第一回極東ユダヤ人会議が開催されている。)第二回極東テュルク・タタール人会議は、1941年8月、奉天で開催された。中国におけるテュルク・タタール人の歴史を、ユダヤ人の歴史などと対比して研究することも今後興味深いテーマであろう。 
 
(このような極東におけるテュルク・タタール人の歴史が、これまでほとんど知られてこなかったのはなぜかについての事情を、次回、考えてみたい。) 
 
(本稿中の意見は筆者の個人的意見であり、筆者の所属する組織の意見を代表するものではない。) 
 
*井出敬二氏は前在中国日本大使館広報文化センター長 


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