2008年08月06日21時25分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200808062125393

戦争を知らない世代へ

明治の日本人が懐いた満州支配の願望が15年戦争の悲劇に 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)

  広島、長崎の原爆忌から8月15日の63回目の敗戦記念日へ──。今年も、私と同じように青春時代を15年戦争とともに送った仲間が一人またひとりと姿を消していった。残された者のつとめとして、日本人はなぜあのような悲劇に突入しなければならなかったのかを体力と気力のつづくかぎり書き残しておきたい。そこから、“昔の日本人”の私が“今の日本人”に求めるものが何であるかを汲み取っていただきたい。 
 
 急速に西欧模倣が進む明治中期、日清戦争に思いがけない大勝利を収めて、軍事的にも自信を強めた日本は、イギリスを始め西欧諸国が総べて植民地を奪取したことにより国を発展させた歴史に倣い、植民地を獲得しなければ国家の大きな発展は望めないという思想に染まって行った。 
 
 日本は日露戦争に勝利し、ロシアから満州の資産利権の大部分を獲得した時、満州を植民地にすることを目論んだ。それまでロシア軍と結託していた軍閥張作霖は一転日本軍と馴れ合い全満州に勢力を張っていた。広大な地域を抱えた日本軍は鉄道沿線と主要都市以外には力が及ばず、張作霖の力を利用する形なっていた。その後、山海関以東の満州留する日本陸軍は“関東軍”と称する様になった。 
 
 清国は明治34年(1901)、義和団暴動鎮圧に出動した日米欧十一ヶ国との間に辛丒(しんちゅう)条約を結び軍隊駐留権を認め外交能力を失い、満州に何が起きても無関心の状態であった。 
 
 大正元年(1912)清朝は滅亡し、中華民国が成立。国民に愛国意識が高まり、軍閥の相克を制した蒋介石は満州に対する復権も視野にいれ、昭和3年張作霖を北京に招待し会談を行った。此の会談を張作霖に反乱の意思が有ると判断した関東軍参謀河本大作大佐は北京から帰る張の列車を奉天郊外で爆破して張を殺害した。此の暗殺は河本の独断で行われ、司令官にも知らされていなかったと云われている。此の件に関し昭和天皇が首相田中義一大将の事実を隠蔽した虚偽の報告に激怒し、強く叱責したことが田中首相の自殺事件を引き起こしたと伝えられている。 
 
 張作霖爆殺を契機に関東軍と張の私兵奉天軍の協力関係は悪化し、張作霖の長男長学良は奉天軍を20万以上に増強し、戦車飛行機も備えて、関東軍に対抗する姿勢をとるようになった。 
 
 参謀本部に在って満州に理想国家建設を夢見ていた石原莞甫中佐は昭和6年関東軍参謀次長として着任するや、板垣征四郎参謀長の同意を得て計画を実行に移し、昭和6年9月18日、満州鉄道爆破を口実にして奉天軍を攻略した。陸軍省は寝耳に水であったが、朝鮮駐屯軍までも国境鴨緑江を越えて満州の戦闘に参加するに及んで開戦を追認せざるを得なかった。石原は満州に理想国家を建設し、大東亜共栄圏の母体とすることを目標にしていたが、現実は満州帝国を名乗る日本の植民地に過ぎないものになっていた。 
 
 日本軍による満州占領は、中国に中央政府を確立した蒋介石の強い反発を受けた。中国の提訴を受けた国際連盟総会で中国代表顧維均の辯説と蒋介石夫人宗美鈴の巧みなロビー外交に日本代表松岡洋右外相は全く歯が立たず孤立無援、遂に日本は国際連盟を脱退し、折から政権を握ったナチスドイツのヒットラーに近づいて行った。 
 
 強引な石原莞甫の東アジア新秩序建設の夢は消え去り、安易に中国大陸に兵を進めた日本は、退くに退けない泥沼に陥り、挙句はアメリカの干渉を招き、遂に大戦に没入、惨めな敗戦を迎えることになった。 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。