2008年08月13日17時26分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200808131726013

戦争を知らない世代へ

日中戦争最初で最大の「帰順」 国民党軍師団長・王占林との出会いと別れ 中谷孝(元日本陸軍特務機関員)

  私が陸軍特務機関員に採用され蚌埠(バンプー)特務機関に配属されて間も無い昭和十四年(一九三九年)初夏、日中戦争中、最初にして最大の帰順が行われた。 
 帰順が投降と相違するのは、投降が戦いに敗れて降服するのに対し、帰順は敵と話し合って寝返ることである。 
 戦争初期、国民党軍(中国政府軍)の戦意は旺盛で、帰順を見ることは無かった。日本軍が中国軍の捕虜に対して極めて厳しく取扱い、投降は死を覚悟しなくてはならない事情も影響していた。日本軍のモラルは信頼されていなかった。 
 
 昭和十三年十月臨時首都漠口(現:武漢市)が陥落し国民政府が奥地、四川省重慶に移ると、抗日戦線の部隊は給与、弾薬の補給に事欠く様になった。その機を衝いた帰順工作が行われたのは昭和十四年の春であった。 
 安薇省北部の都市蚌埠に前年秋開設された蚌埠特務機関に帰順工作責任者として着任したのは、松谷磐(いわお)中佐であった。哈爾賓(ハルピン)特務機関に所属した松谷中佐には満州で経験を積んだ部下が随行していた。 
 
 国民政府の重慶移転により周辺の敵に動揺が起きてはいたが、蚌埠周辺には未だ多くの正規軍が残っていた。中でも北方に展開する二ヶ師団は無視出来ない存在であった。師長の王占林中将は黄甫軍官学校で蒋介石と同期だったという生粋の軍人で、もう一人の師長沈席儒少将は叩き上げではあったが王占林を兄貴と呼んで従っていた。 
 此の二ヶ師団は兵力二万四千、幹部の家族労務者を合わせると四万人に達する大部隊で重慶からの軍費の遅れに苦しんでいた。密偵(スパイ)の報告により、その事情を掴んだ松谷中佐は部下の山辺俊男に帰順工作を進めさせた。 
 
 交渉が進み遂に王占林の軍使が松谷中佐の温厚な人柄を聞いてはいたが恐る恐るその執務室に入った。その時突然、立ち上った松中中佐は合掌して“南妙法蓮華経”と法華経の題目を唱え始めた。陸軍髄一の法華経の行者として有名な松中は、初対面に必ず題目を唱えて迎え入れるのであった。 
 仰天した軍使は仏を信じる松谷の姿に信頼感を抱き帰順交渉は順調に進んだ。帰隊した軍使の報告を聞いた王占林は仏教信仰の厚い松谷が卑怯な騙し討ちをすることは無いと信じて帰順を決意したと後日私に語った。 
 
 七月始めの一日、猛暑を避けて夕刻より帰順部隊を蚌埠に受け入れることになった。山辺の発案で刺激を避ける為、当日、日本軍の外出を禁じ、特務機関員と警察が帰順部隊の誘導に当り、旧飛行場周辺に収容が終ったのは夜半であった。此の帰順は日中戦争史上、最初にして最大のものであった。 
 
 それから二ヶ月余りを経た九月中旬、平穏だった蚌埠に突如ゲリラによる省長官舎襲撃事件が発生し、不穏な空気に包まれた。その後まもなく地区警備隊の混成旅団が周辺の敵掃討に総出動した留守の土曜日、准河上流十粁の景勝地懐遠の警備中隊が、囮情報に騙され出動し、敵の大部隊に包囲され危険な状況にあるのと連絡が入った。 
 留守を預かる臨時警備司令官、特務機関長原田大佐は直ちに救援を検討したが警備隊残留者は少なく、出動は不可能であり、窮余の策として、帰順後日の浅い王占林部隊に救援を依頼することを決断した。懐遠へ約十粁を遡上する小蒸気船の埠頭と王部隊の間約八粁をピストン輸送するトラックは私に任された。 
 最後の船の出航を見送って、機関長官舎に向かい、原田大佐に報告を行っていると、司令部より電話が入り、敵は退去、懐遠警備隊は脱出し、損害は軽微との連絡を受けた。敵は王部隊を日本軍と誤認して退いたことが後日判明した。 
 
 此の事件は王占林を信用していなかった警備隊関係者の認識を改めさせ、日本軍の補助として准南地区の警備に当たらせることになった。その後、汪精衛の南京政府樹立により、王占林部隊は第一方面軍第一方面軍第一師、第二師として准南地区に駐屯して日本軍に協力した。 
 
 准南地区勤務の多かった私は屡々王占林と共に行動するようになった。昭和二十年三月十六日、巣県出張から廬州に帰る私が便乗した第一方面軍のトラックが地雷を踏み高い土手から転落した。重傷を負った私が夜半意識を回復した時、第一方面軍々医の治療を受けていた。 
 一ヶ月蚌埠で療養し廬州に帰り王の司令部に挨拶に行くと、王は私の顔の傷痕を見て「今後何年経っても直ぐあなたとわかりますよ」と軽口で迎えてくれた。 
 
 その四ヶ月後の敗戦である。王占林と同じ廬州駐屯地日本軍は、現地での武装解除を拒み脱出することに決定、私は第一方面軍司令部に王占林を訪ね、悲痛な気持ちで別れを告げた。今後、彼らの苦難は我々以上のものになるであろうと思うと申し訳無い思いで涙した。 
 然し王占林は「私は自分の信念に従って行動して来たのですから誰も怨むことはありません。運命に従うだけです」と泰然としていた。更に「日本軍が退去する時私の警備地区内は絶対に譲りますから安心する様警備隊長にお伝えください」と付け加えた。これが王占林との最後の別れであった。 
 
 復員後数年を経て、私が得た情報で、国民党軍に改編された王の師団は、共産党軍との戦いの第一線に立たされ、潰滅的打撃を受け、王は郷里に潜んだが共産党に逮捕され、嶽死したことを知った。白髪混じりの百姓髭が乃木大将に似た彼の風貌が眼に浮かぶ。 
 日中戦争中最初にして最大の帰順は、始まりから終わりまで、総べて私の正史の中に記憶されている。 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。